黄色い疵
「お疲れ様です」
あまりにだしぬけに声をかけられて、
耳の真裏からかと思われるほど間近からの呼びかけだ。声こそあげなかったものの、びくついた拍子にそれまで片手で
が、斜め後ろからひょいっと伸びた手のひらがそれを受け止めた。市谷が振り返ると、おかっぱ頭の少女が片膝を立てて腕を伸ばしていた。
「ありがとう」
「い、いえ、もとはといえば、い、いきなり声をかけたせい、だから……」
「そんなことないよ、
彼女はいつも囁くように喋る。初対面であいさつを交わした際、彼女の声があまりに小さかったので、市谷は彼女を引っ込み思案か恥ずかしがり屋なのかと思った。しかし二人の雇い主によれば、小鳥遊は声帯の構造上、張った声を出せないのだという。
とはいえ、扉の音もさせず静かに部屋に入ってきて、いきなり耳元で声をかけられたら誰だって驚いてしまうだろう。だけど彼女はけして驚かそうとしたのではない。市谷は胸を張ってそう言える。
少女の伸ばされた腕の先、少女の手の甲は床に着いている。寸でのところで受け止めたようだ。市谷は慌ててその手首をつかんで持ち上げさせる。
「勝手に驚いた上に手まで汚させちゃった」
市谷はズボンをまさぐって
「朝、掃きました、から、よ、汚れていない、です」
「そ、そうなんだ、ごめん」
「あの……、手が、握られて……」
「あ、ぁあ! ほほ、本当にごめん!」
少年は慌てて手を離す。部屋が少し冷えているので、頬の熱さが猛烈に自覚される。
「その、き、気付かなくて」
「ううん、気遣い、だから、嬉しいです」
握られていた手を穏やかに見つめる小鳥遊を前に、市谷は続ける言葉を見失った。
少年少女の言動はぎこちない。ただ、市谷のそれには緩みと緊張の緩急が感じられるのに対し、小鳥遊のそれは自然な振る舞いとして定着している節がある。
「これは、福寿草の、押し花……?」
小鳥遊が見つめるもの――市谷が手で遊んでいたのは黄色く可憐な、冬の終わりを告げる花だった。見頃はまだ先であるが、時期がくれば郊外の森林公園に行けば慎ましく咲いているし、街中の花屋にも高値で出回る。
花はしっかり押され、丹念に作られていた。しかし花はところどころで欠け、残っている花びらにも
古い押し花の香りを嗅ぐように、小鳥遊は手を顔に近づけた。花の
それに、かすかな血の臭い。ただしこれは彼女でなければ気づけないほどに薄まってしまっている。おそらく事件性はない。正確には、事件はあったかもしれない、というべきか。いずれにせよ、いますぐ直に関わるものではなさそうだ。
ただし、今に至るまでなんらかの尾は引いている。
小鳥遊はそう判断した。先ほど部屋に入った時、同僚の少年が押し花を懐かしむように見つめていたからだ。あれは過去に思いを馳せる目だった。雇い主である探偵の坂上もときどきそういう目をしては昔日を振り返っている。
過ぎたものは返らないし、また体験したいとも思わない。やり直せないのがわかっているから。それなのに、ときどき当時に帰りたくなってしまう。だから追憶するのだ、と坂上は言っていた。もっともそれでいまが変わるでもない。過ぎたものに対してはただただその影響と痕跡を認めるしかできないのだと。
人生は縫い直せない織物だ。ほどくこともできない。
そうした見方は小鳥遊も共感できる。もっとも、雇い主は感傷的かつ肯定的に捉えているのに対し、彼女はもっと悲観的かつ後ろ暗く捉えている。
過去は名残として永遠に尾を引き続ける。人殺しは人を殺めた過去を手放せない。
彼は、市谷はどちらの見方をしていたのだろう?
「こんなの持ってて……、恥ずかしい、よな。男が押し花なんて、しかもぼろぼろになったのをずっと大事にさ」
沈黙に焦れた市谷が先に口を開く。弱々しい口ぶりで、照れ隠し以上の意味はないのが丸わかりだ。それだけでもう、彼が過去をあまり暗く捉えていないのがわかった。そもそも懐かしいという感情自体が前向きな見方に属しているのだろう。
「ぼろぼろ、でも、手放せない。それだけ、大事なもの、なんですね」
「そう、かもな」
市谷はあいまいに応える。素直に認めたくないのだ。認めてしまうと、なぜ大事にしているのかに触れざるを得ない雰囲気になってしまうから。小鳥遊からは大いに興味を向けてもらいたい少年であるが、まだ触れてほしくない部分も少なからずある。
生い立ちや過去に関しては特にそうだ。
小鳥遊が知っている市谷の経歴は、元愚連隊で
同じ時期に同じ場所で働きはじめた少年少女の付き合いはたかが四か月。微妙な年頃なので距離の詰め方はまだまだ手探りだ。二人の間には大小様々な機微がはらまれている。
しかし数か月でわかった相手の一面もある。市谷はあいまいに応えたままでは済まないのを予期していた。
果たしてその通りで、「大事、ではないんですか?」と小鳥遊が続ける。
やっぱり、と市谷。彼女の行動が読めてうれしい反面、ちょっと面倒だとも思う。
「大事でないことはないよ」
「では、大事、なんですね」
「……大事、かもしれないな」
はっきりさせたい小鳥遊と、させたくない市谷との児戯めいたやり取りが繰り返される。彼としては「察してくれよ」と言いたいのだが、彼女はそういう心理面での察しが壊滅的にできない。あいまいな領域をあいまいなまま残しておくのが気にかかるらしく、時にこうして偏屈なまでにはっきりさせたがる。外部的な事象をはっきりさせたがる雇い主に似ただけかもしれない。探偵に向いているともいえる。
「――言いづらいことなんだ。そのうちはっきりさせるよ」
「わかり、ました。いずれ……そのうち」
いずれという形でようやくやり取りが収まる。先送りであるが、彼女はそういう部分での物わかりはよい。今は考えなくもいいことだというのがわかれば、納得して追及の手を止めるのだ。いずれとはいつですか、とまで執拗には聞いてこない。その点は雇い主と違う。ただ、こうして先送りにした件は、二人の両手の指でも数えきれないほどたくさん積み上がっている。
「話せる時になったら、話すからさ……いや、たぶん俺が聞いてほしいから」
「それは、思い出として、ですか? それとも、
肯定的にとらえる雇い主寄りなのか、後ろ暗くとらえる自分寄りなのか。小鳥遊としては、彼が過去をどう捉えているのかを改めて確認したくて口にした言葉である。
その問いかけは市谷を鋭く突いた。
俺は、過去をどう捉えたいんだろう。なかったことにはできない。だけど、
「どっちなんだろう、な。疵としてありのまま話したいのか、思い出として距離を置いて話したいのか。疵として話すのは……、いまは無理だ。だけど?花?を思い出にできるのかどうかも、まだわからない。したくない……、とも思う。今はまだ――」
過去に刺さった棘が生々しい疵として残っていて、それが痛む日も少なくないから。まだ一年ちょっと前の出来事だ。疵は折々にじくじくと痛んで市谷を苦しませる。
市谷は机のほうに歩いて行って、すぐに戻ってくる。手のひらの上にもう一つの押し花を載せて。
辛うじて残った二枚の赤い花弁と黄色い
「
「さんざかだって聞いてたけど」
「さざんかは、標準語、です。さんざかは、原産地の、南方の
「俺さ、南部市の出だから」
それから市谷はかすかに「そっか、あいつも」と言った。
聞き取れるか聞き取れぬかのか細い声であったが、小鳥遊の耳は聞き漏らさなかった。彼女は、どなたですか、と聞こうかとも考えたが、彼がまた懐かしむ目をしたので口に出すのを止めた。こういう時に質問の追撃を受けると、人は嫌な顔をするものだ。雇い主がそうであるように。
福寿草と山茶花の押し花。
交互に見つめて市谷は軽く目をつむる。どちらもある人から託された、彼の過去を示す大事なものだ。まだ他の人には触れてほしくない、誰も知らない足跡。たとえそれが小鳥遊であっても、いまは。過去を知る人はとっくにいなくなってしまった。だからこそ疵になっていて、進んで人に晒すには、まだまだ時間がいる。
小刻みに震える市谷の手のひらを上下から挟むように、小鳥遊が自らの手をそっと重ねて包み、山茶花の横に福寿草を優しく置く。万が一にもこぼれ落ちないようにと、少年の手の甲を支えるように自らの手を添えながら。おそらく彼にとって大事なものだから。
「話せるように、なると、いいですね。市谷さんのこと、もっと、知りたい、から……」
囁くように語りかける小鳥遊に、市谷は黙って力強くうなずく。
この冬には、新しい押し花を作れるだろうか。
サークル名:蒸奇都市倶楽部(URL)
執筆者名:蒸奇都市倶楽部(シワ)一言アピール
スチームパンク感が薄い(定型文)。関連作の宣伝をします。
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『路地裏の花は人知れず』『また咲く日を恋う』は「小説家になろう」にて公開中。
少年少女の行方は折を見て書きます。頒布時期未定。