黎明のフローラリア

 ――その神殿は、鬱蒼とした森の奥に、ひっそりと佇んでいる。石とレンガを積み上げて作った神殿は、一面だけ壁が存在しない。代わりにむき出しの柱が何本か立っていて、まじないの文字が刻み込まれている。
 まるで檻のようだな、と思っていた。
 この辺りは常に濃い霧に包まれている。晴れることはあまりない。
時折吹き抜ける湿った空気に乗って、溺れてしまいそうなほど深く濃厚な花の香りが運ばれてくる。
 少し目をこらせば、乳白色の世界に咲き乱れる色とりどりの花たちを視認できる。

ネモフィラの青。
カランコエの黄色。
キンセンカのオレンジ。
ミヤコワスレの紫。

 ――その神殿は、「花の神殿」と呼ばれている。
 花に囲まれているから、というだけではない。
 ここに住まう主そのものが、『花』だからだ。
「ミュトス様、いらっしゃいますか」
 一人の男が、神殿を前に両ひざをついて首を垂れている。少し癖のある黒髪に、水底を思わせる双眸を携えた、齢二十を超えた頃の青年だった。
 彼が、毎日麓の村から通いで来る、僕の世話係だ。
名前は――まだ、知らない。
「…………」
 彼の声に応えるように、柱の陰からそっと顔を出して、檻の外の大地を踏みしめる。
 病的なほどに白くなめらかな肌が、まだ未発達の、成長の過程にある身体を覆いつくしていた。肩のあたりで編みこまれた髪は、目の眩むような銀髪。鮮やかな花冠と、編目にさした花飾りは、真っ赤な花で作られている。僕を“花嫁”にするのに必要なものだ。
 “花嫁”は銀髪に赤い瞳で生まれてくるはずなのに、僕の瞳はアイスブルーだ。僕には「赤」が足りないのだった。
「よかった。まだお眠りの時間だったかと思って」
「…………」
 僕が首を横に振ると、彼は小さく笑った。あまりに力ない微笑みだった。
どうしたのだろう。
彼はもともと表情が乏しくて真面目くさった顔をしている。けれど、今日はどこか、言い知れぬ不安と焦燥が滲んでいるのが見て取れる。
「参りましょう、ミュトス様。身体を清めなくては」
 立ち上がった彼に頷いて、おとなしく水場へと向かった。
 彼の大きな手に引かれて歩くのは、すごく、好きだった。

 水辺にはたくさんの動物たちが集う。可憐に囀る色鮮やかな小鳥や、キツネにシカ、それから、花から花へ舞い踊る蝶たち。
 ここはまるで楽園だ。どこかの異教の言葉で、神の住まう世界は、何の苦しみも存在しないのだ、という伝承があるのだそうだ。
 いいな。誰も何も苦しまずにいられるなんて、きっといいことだ。
「足を、失礼します」
「…………」
 泉の淵にしゃがみこんだ僕の足を、彼がそっと洗い清めた。つま先に触れられるのはくすぐったくて、つい笑ってしまう。
 何度も繰り返して慣れた行為のはずなのに、彼の手は、いつも、少しだけ震えている。
 いや――今日は特に、緊張しているのだろうか。表情も、動きも、なんとなく強張っている気がする。
「……ミュトス様」
「?」
「――ここから、一緒に、逃げませんか」
 僕は言葉を失って、彼の方を見た。真剣なまなざしが僕を射抜いて、はなさない。
「このままでは、あなたは」
 僕はどうしたらいいか分からなくなって、曖昧に笑って、首を何度も横に振った。
 彼がまた何かを言いつのろうとして、けれど僕の意志が揺るがないことを悟ったのだろう、痛ましげに顔をしかめて、俯く。

 ――儀式の日が、決まったのだな、というのはすぐに理解できた。

 僕は神に捧げられる『花』として生を受けた。銀髪がその証だったけれど、僕の瞳は青くて、不完全。だから捧げるまでに、たくさんの時間を要した。
 そしてやっと今、完全なものへと近づくことができたのだろう。
「けれど――あなたはまだ幼くて、こんなの、あんまりです……!」
 嗚咽を堪えようとする彼に与えるべき言葉を、僕は持たない。
「分かっておられますか? あなたは贄なんです。神に、ささげっ……死んでしまうんですよ!?」
彼の慟哭に、何よりその姿が痛々しくて、僕まで泣きそうになってしまう。こんなにも感情を露わにした彼の姿を見たのは、初めてのことだった。
「……すみま、せん。いえ、差し出がましいことを、俺は」
「…………」
彼はいつも、憐れむような眼で僕を見る。今もそうだ。僕は不幸なんかじゃないのに、いつも暗い顔をして、僕に首を垂れる。
 そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
 生まれてすぐ神殿で暮らすようになって、麓には一度も下りたことがない。
 外の世界のことは、何も知らない。
 朽ちかけの神殿と、たくさんの花と、森と、彼――それが僕の世界のすべてだ。
 それでよかった。
 閉ざされた世界で、安全に、平穏に、あなたと居られたのならば、きっとこれ以上の幸せはない。
 だって僕は、この一瞬一瞬、あなたという人を独り占めできていたのだから。
 ああ、泣かないでほしい。お願いだから泣き止んで。
 ――思い返せば、彼の笑顔を見たのは、両手で数えられるほどだけだった。
 そしてそれは僕に向けられたものじゃなかった。綺麗に咲いた花や、エサを求めてやってきた獣たちを見て、目元を和ませるのだ。
 ――楽園は、存在するのだろうか。
 それとも魂は巡るのだろうか。
 すべて、肉体ごと消えてしまうのだろうか。
 僕は何も知らない。
 今わかることは、もうじき、僕が死ぬということだけ。
 彼と、離れ離れになってしまうということ――それだけだった。
「……ミュトス様。髪を、洗っても?」
「……」
 僕の背後にまわった彼が、髪から萎れ始めた花を一輪、一輪、ゆっくりと引き抜いていく。 
まるで何かを名残り惜しむかのように。
もしかすると彼は僕の見えないところで、役目を終えた花に、労いの微笑みを手向けているのかもしれない。
 ああ、それは少しだけ、寂しいな。
「……ミュトス様?」
 僕の視線に気づいた彼が、頬を濡らしたまま首を傾げる。
 僕は何度か口を開いては閉じて――やめて、小さく首を横に振った。
「…………」
 最後に愛の言葉を吐こうにも、喉は潰されて声なんて出ない。
 あなたの名前を知ったところで、呼ぶための声がない。
 会話も出来ない僕との時間は、つまらないのかもしれない。だから、笑わなかったのかもしれない。けれど、花には、微笑みを見せる。
 教えて。
 物言わぬ花と僕、何が違うの。
 ――もし生まれ変わるなら、本当の花になりたいな。よわくてもろい、彼を慰める、彼だけのための花に。
 忍び寄る“終わり”を前に、僕の心は、ひどく穏やかだった。
 夜が近づく。闇が色濃さを増してゆく。

 僕の運命が変わることがありえないのと同じように、この森の霧が晴れることは、ない。


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サークル名:朱に咲く(URL
執筆者名:朱暁サトレ

一言アピール
BL、NL、GLを問わず恋愛なラノベを書いています。メリバ村生まれハピエン村育ち。

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