わたしたちの呪術的思考活用入門

真莉まり!」
 帰りのあいさつを終えてすぐの教室。近付いてきた涼夏すずかが、シャーペンをこちらに差し出した。
「ありがと。おかげでノートがとれたよ」
「落書きが出来たの間違いじゃなくて?」
「あ、それもちょっとだけ」
「素直に認めるな」
 一応突っ込んでから、涼夏と並んで教室を後にする。
「にしても、いきなりシャーペンが壊れるなんて思わなかったよ。今日は占いも一位だったのに、こんなオチってひどくない?」
「まあ……悪い出来事って、大抵は予想もしてなかったときに起こるし」
「えっ、そういうものなの?」
 意外にも、わたしの適当な返事に涼夏が食い付く。
「わたしがそう思うってだけ」
 目を丸くする涼夏に戸惑いつつ、靴を履き替える。
「悪いことが起きそうって思ってると案外何とかなったり、良いことが起きそうって思ってると大したことなかったり。そういうことって、多い気がするから」
 丁寧に説明したつもりだったが、涼夏の反応は鈍かった。
「へー、考えたことなかったかも。そう思うのって、たとえばどういうとき?」
「たとえばって言われても……。不安だったテストが高得点で、いけそうな気がしたテストが微妙だったり。楽しみにしてた遊びの約束がトラブル続きで、そこまで乗り気じゃなかった約束がすごく楽しかったり。そんな感じ?」
「なるほど」
 涼夏が、わざとらしく神妙に頷く。
「分かった?」
「あんまり」
「やっぱり」
 声を上げて笑った涼夏につられて、つい吹き出してしまう。悔しい。
「わたし、不安になることってあんまりないからさ。テストのときも毎回、まあそこそこ出来るんじゃないかなって思ってるんだよね」
「元から出来る人間はこれだから」
「そんなことないって。そう言う真莉の方が成績良いのは知ってるからね」
 実際、どの教科のテストでも、わたしが涼夏に負けたことはない。けれど、今から二年前、入学してすぐ知り合った涼夏に、なぜこの学校へ入ったのかと聞いたときに返ってきた答えを、わたしは今でも覚えている。
 ――家から近いし折角だから受けてみたらって親に言われて、そのまま合格しちゃった。
 この学校は、一般的な公立中学ではなく県立の中高一貫校だ。わたしを含め多くの生徒達は、小学生の頃から塾に通い勉強してきた。そんな環境に棚ぼた式に飛び込んで、普通にやっていける涼夏は間違いなく頭が良い。授業中に描いた落書きをわたしに披露するくせをやめれば、わたしの成績に容易く追い付くだろう。
「それに、約束は全部楽しみだし。というか、楽しそうだから約束をするんじゃない? 真莉の言ってるような心配なんて、実は最初からしなくて大丈夫なんだよ。多分!」
 得意げに言い放つ涼夏に向かって、わたしは曖昧な表情をする。
「涼夏は能天気過ぎ」
「ひどっ! じゃあ聞くけど、真莉はわたしと遊びに行くときも、実はあんまり乗り気じゃなかったりするってこと?」
「え……」
 思わぬ方向からの返しに、わたしは身体を強張らせる。
「いや……そういうつもりじゃなくて。ほら、たとえばの話だし。実際に思ってるってことじゃなくて、その……」
 頭の芯が不気味に冷え、言葉がしどろもどろになっていく。きちんと否定しなければいけないと分かっているのに、焦る思考は一向にまとまらない。路面に目を落としたわたしが途切れ途切れに発していた声は、やがて、涼夏の言葉に断ち切られた。
「そっか。なら、今週の日曜も遊びに行かない?」
「え?」
 視線を上げ、涼夏の方を見た。涼夏は呑気な調子で続ける。
「映画館行きたいな。それに、新しいシャーペンも買わなきゃ」
「……はあ」
「どしたの?」
「何でもない。行く」
「やった!」
 底抜けに明るい涼夏の声を聞きながら、わたしは溜め息交じりに小さく笑った。

 日々は何事もなく過ぎ、約束の日曜日が訪れた。
 朝食、着替え、身だしなみ。最後に洗面所で髪を整え、この時点で出発まで後三分。わたしは慣れた手付きで洗面所の扉を閉め、鍵を掛けた。
 よし。
 わたしは鏡に映った自分を見つめながら、今日、これから起こるかもしれない悪い出来事を想像する。用意したわずかな時間を使って、出来る限り細部まで想定していく。
 確認はしたけれど、それでも忘れ物をするかもしれない。外で持ち物をなくすかもしれない。待ち合わせに遅れるかもしれない。急に体調が悪くなるかもしれない。予定通りの場所へ行けなくなるかもしれない。涼夏とケンカをしてしまうかもしれない。もう、涼夏と一緒に出掛けられなくなってしまうかもしれない……。
 こんなものだろう。深呼吸をして、心の中で自分に言い聞かせる。大丈夫。悪い出来事は、予想もしていなかったときに起こるものだから。身構えているところに想像通りの出来事がやってくるなんて、そんな単純な世界にわたしは住んでいないから。だから、少なくとも、今想像した範囲の出来事に関しては――わたしは、大丈夫だ。
 わたしは洗面所の扉を開け、玄関へ向かう。

 わたしが、毎朝のルーチンとなったこの奇妙なおまじないを始めたのは、小学五年生のときだった。
 クラスの女子数名によるわたしに対してのいじめは、四年生の頃から続いていた。わたしは仲間外れにされ、陰口を叩かれ、机を汚され、持ち物を隠された。けれど、わたしが学校を休むことはなかった。わたしの幼い頑固なプライドは、自分より劣った人間に屈することを許さなかった。わたしは彼女たちを軽蔑し、無視した。わたしの意地が、同時に彼女たちにも意地を張らせたのだろう。彼女たちの方も、諦めず執拗にわたしを攻撃した。もちろん、わたしのプライドは、誰かに相談するという選択肢も最初から拒絶していた。
 五年生のある日、ついにキレた主犯格の女子が宣言した。明日こそは、容赦なく、これまでで一番ひどい目に遭わせるから、と。今思えば明らかにハッタリだけれど、わたしもこのときばかりは本気で怖くなった。翌日は朝早くから洗面所で鏡を見つめ、仮病を使うかどうか悩んだ。最終的に、わたしは内心の恐れを押さえ付けて学校へ行き、主犯格の女子が風邪で学校を休んだことを知った。その瞬間、わたしは気付いたのだ。この世界の法則に。究極のおまじないの存在に。
 結論から言ってしまえば、そのおまじないは所詮おまじないだった。当然だ。わたしの考え一つで、世界を変えられるはずはない。上手くいった最初の一回は、ただの偶然。こんな儀式には、せいぜい注意力を高める程度の効果しかない。その事実を、わたしはほどなく理解した。
 それでも。
 おまじないが効いたときは満足し。想像から漏れた不幸に見舞われたときは、より気を引き締めておまじないに臨み。想像していた通りの不幸に見舞われたときは、予想していたおかげで対応が早かったと自分を納得させ。
 おまじないにすがって穴だらけの理屈をこねくり返していると、わたしは精神が落ち着いていくのを感じた。卒業まで続いたいじめに限らず、あらゆる悪い出来事に対する不安が、コントロール可能なものになったように感じた。そうして、わたしは未だにおまじないを続けている。教育熱心な両親の提案を受けて中学受験をし、地元の公立中学への進学を回避した今となっても。
 結局、わたしはこのくだらないおまじないが好きなのだろうか。嫌いなのだろうか。
 何度考えても、分からなかった。

 交差点に差し掛かり、わたしは赤信号の前で足を止めた。通りを車が絶え間なく走り抜けていく。携帯電話を取り出して画面を眺めていると、突然、近くにいた人たちが口々に不明瞭な叫び声を発した。
 反射的に顔を上げる。目前に、車線から外れた一台の車が迫っていた。車はこちらに正面を向け、真っすぐ歩道に突っ込んでくる。指先一つ動かす暇すらない。それ以上何も考えることが出来ないまま、全身を襲う衝撃とともにわたしの意識は途切れた。

 まず気付いたのは、身体中が痛んで上手く動かせないことだった。二つ目は、自分が病室らしき部屋のベッドに寝ていること。そして三つ目は……枕元に置かれた椅子に、誰かが座っていること。
 その誰かは軽く腰を浮かせてわたしの顔を覗き込み、一回、二回と瞬きをした。
「涼夏……?」
「真莉!」
 涼夏の瞳が、今にもこぼれ落ちそうな光と潤いで満ちる。
「どうして――」
「信号待ちしてた真莉のところに、居眠り運転の車が突っ込んだの。もう、目を覚まさないんじゃないかって、わたし……」
 かすれた声が、わたしと涼夏しかいない静かな病室にぽつりと落ちる。
「あ、えっと……真莉のお母さんとお父さん、今ちょうど外でお医者さんと話してるの。呼んでくるね」
「涼夏」
「な、何?」
「また涼夏に会えて、本当に良かった。……こんな目に遭うなんて、考えたこともなかったから」
「……うん」
 椅子から立ち上がった涼夏が、扉に手を掛けて立ち止まる。
「この前、真莉が言ってたよね。悪い出来事は大抵、予想もしてなかったときに起こる、って。覚えてる?」
「覚えてる」
「日曜日の朝に、急にその話を思い出したの。試しに予想してみたんだけど、わたしって能天気だし、考えるのも嫌いだから全然思い付かなくてさ。何とか出てきたのが、真莉が来る途中で車にひかれて死んじゃったら、すごく悲しいだろうなってことだけで。バカみたいだよね。……でも、今は」
 涼夏が振り返り、屈託のない笑顔が柔らかく咲く。
「あのときの自分に、感謝してるかも」
 扉が動き、病室は静寂に支配される。目尻からこめかみへと、熱いしずくが伝うのを感じた。
 きっとこれから、治療やら何やらで大変になるのだろう。けれど今は、何も想像しなくても、不思議と心が落ち着いていた。
 くだらないおまじないだって、きっと、くだらないだけのものじゃない。
 そんなありきたりな綺麗ごとも、今のわたしなら、心の底から信じられるような気がした。


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サークル名:虚事新社(URL
執筆者名:田畑農耕地

一言アピール
作家・編集・デザイナーの3人組文芸サークル、虚事新社です。既刊のショートショート集や南の島の異能力小説があります。


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