元暁異聞

一、

 旅装をした二人の僧が山道を下って行く。
「元暁どの、大丈夫ですか?」
 前を歩く若い僧が後を振り返りながら問い掛ける。
「ああ、平気だ。日も暮れ始めたことだし、空模様も怪しげだ、急ごう」
 元暁は力強く答えながら歩みを速めた。
 二人が山を下りきったところで、ぽつり、ぽつりと水滴があたり始めた。
「遂に降り出しましたね、どこか雨宿りを出来るところを探さねば…」
 二人は周囲を見回したが家一軒見当たらなかった。
「義湘どの、あそこに…」
 元暁が示すところを見ると洞窟があった。
「今宵はあそこを寝所としましょう」
 義湘の言葉に元暁は反対することもなく、二人は洞窟に向かった。
 彼らが洞窟内に入った途端、雨は本降りとなった。
「よかった、今回は幸先が良さそうですね」
 義湘が言うと元暁も同意した。
 彼らは唐へ向かう途中だった。彼の地へ行き仏教をより深く学ぼうというのである。
 十年前、国内での勉強に限界を感じた二人は先進国である唐への留学を思い立った。当時、二十三歳(義湘)、三十三歳(元暁)と若かった二人は意気揚々と北へと発って行った。
 だが、旅を続けることは出来なかった。半島の北方を支配していた高句麗によって行く手を遮られたのである。当時、彼らの祖国である新羅と高句麗の関係は良くなかった。敵対する国の人間を国内に通すわけにはいかない。二人の入国は当然拒否された。他に入唐の手段はなく二人は戻らざるを得なかった。
 彼らは諦めなかった。時期が来るのをじっと待っていたのである。
 そして、遂にその時が来た。
 新羅から唐へ行く最速の方法は半島の西側からの海路だが、これまでそこは百済の領土だった。だが、今は新羅の地になった。そのため、船に乗って行くことが可能になったのである。
 義湘と元暁は海路で唐に行くことにした。折よく、唐行きの船も来ているとのことなので、二人は喜び勇んで故郷を発ったのである。留学を志してから既に十年の歳月が流れていた。

 洞窟内は思ったよりも広かった。
「これですと、二人が手足を伸ばして寝ても十分余裕がありますね」
 こういいながら義湘は床に横になろうとした。一日中歩き続けたため疲労困憊していたのである。
「その前に夕方のお勤めをせねばなりません」
 元暁がこれを制した。二人は短めの経文を読み上げた後、身を横たえた。

「クッ、クククッ」
 突然、元暁の耳に不気味な声が入ってきた。
 驚いて身を起こした彼の周囲には何匹もの妖かしが飛び回っていた。
「餓鬼か…」
 骸骨に皮膚を被せたように痩せ細った身体に腹ばかりが膨れているそれは地獄絵に描かれている餓鬼そのものだった。それらは甲高い叫び声や笑い声を上げながら元暁に襲い掛かろうとした。まさにその時、元暁は目を覚ました。
「夢だったのか…」
 彼は身を起こすと周囲を見回した。雨は既に止み、月明かりが洞窟内をぼんやりと照らしていた。
 不快感は残っていたが、しょせん夢に過ぎないではないかと気を取り直した。その途端、喉の渇きを感じた。奥側を見ると白い碗が見えた。そちらに近寄って碗を手に取ると、水が入っているのが分かった。
「ありがたいことだ」
 こう呟きながら元暁は一気に飲み干した。水はまさに甘露そのもので、たちまち爽やかな気分になった。気持ちが落ち着いた彼は再び横になるとすぐに深い眠りに落ちた。

「元暁どの、元暁どの」
 義湘の声に起こされた彼はゆっくりと身を起こした。
「あそこを御覧下さい」
 元暁は義湘が示すところに視線を向けた。そこには白骨が数体あった。
「ここは墓だったようです」
 義湘が言うや否や元暁は吐き気を催した。彼が白い碗だと思っていたのは髑髏されこうべだったのだ。頭蓋骨内に溜まった水を飲んでしまったのである。
 しかし、彼はすぐに考えを改めた。
 昨夜は甘露だと思うほどに美味だった水が骸骨内の溜水だと知った途端、気分が悪くなったのは何故だろうか。同じ水であるのに拘わらず…。
 この時、元暁の脳裏に何かが閃いた。
 そうか、人間というものは、まず外見によって物事を判断してしまうのだ。
 瞬間、彼が長い間感じていた胸のつかえが一挙にとれていった。
「義湘どの、私は唐へ行く必要がなくなりました」
 元暁の疑問は唐に行かなくても既に解決したのだった。

二、

 義湘と別れ、故郷に戻った元暁は、これまで読んだ仏典を再読した。疑問に思っていたことが次々と氷解していくのを感じた。
 だが、再読が一段落すると、自分自身に不足しているものがまだあるように感じるようになった。それが何なのかは分からなかった。
 そんなある日のこと、天気も良いこともあり、元暁は散策に出た。
 林を抜けて川辺に至ると女人たちの騒ぎ声が聞こえてきた。
「早まった真似をなさらずに」
「どうか、お考え直し下さい」
 ただ事でない言葉に、元暁は女人たちがいる方向へ駆けて行った。
 一人の高貴な女性の身体を侍女らしき女性たちが取り押さえていた。
「如何なされたか?」
 元暁が声をかけると
「あ、お坊様、よいところに御出でいただきました。実は…」
と侍女の一人がことの経緯を話し始めた。
 彼女たちの主人は瑤石宮の公主(嫡出の王女)だった。夫を亡くし、王宮の片隅にある瑤石宮で暮らしていたが、数か月前、王宮に忍び込んだ曲者に襲われ妊娠してしまった。このことを恥じた公主は生命を断とうとしたのであった。
 話を聞き終えた元暁は公主に向かって優しく言った。
「公主さま、どうかお住まいにお戻り下さい。私が何とかいたしましょう」
「お坊さまがこうおっしゃっているのです。とにかく戻りましょう」
 侍女たちに説得された公主はその場を去っていった。
 一行を見送った後、元暁は自身に足りないものに出会ったと思った。自分が出家したのは何故だったのだろうか、仏さまの教えでもって人々を救済するためではなかったか?そのために数十年の間、修養したのではないか。
 考えがここに至った時、この目の前の二つの生命(公主とその御腹の子)を救うことが自分の使命だと確信した。

 家に戻った彼は、乞食のようなみすぼらしい服に着替え、瓢箪を持って街へ繰り出した。そして瓢を叩きながら次のような歌を唄った。
「誰許没柯斧、我斫支天柱(誰か柄のない斧を貸してくれぬか、天を支える柱を斫りたいのだが)」
 すると子供たちが面白がって真似をして唄うので、この歌はたちまち都中に広まり、王の耳にまで伝わった。
 王は直ちに歌の主である元暁を連れてくるように命じた。
 役人に連れられて来た元暁に王は問うた。
「汝が天を支える柱を作ってくれるのか?」
「はい」
「そうか」
 元暁の答えを聞いた王は彼を瑤石宮に連れて行くように命じた。
 瑤石宮に入ると侍女たちは歓声を上げた。
「お坊さま、公主さまを助けに来て下さったのですね」
 彼女たちは元暁を主人のもとへ案内した。
「公主さま、あなたさまの御腹の子の父親は私です。どうか、恥じることなく堂々とお生み下さいませ」
 公主の前で元暁がこう言うと彼女は涙を流した。
「有難いことです、お坊さま」
 彼女は素性の分からぬ子供を産むのではなく、立派な僧侶の子を産むことになったのである。
「でもお坊さまにはご迷惑になるのでは…」
「そのようなことはお気になさらぬな。あなたの父上である王は天を支えるような立派な人材を求め、私はそれに応えるだけだ。公主さまの御腹にいる私の子は、将来、国を支える人物になるでしょう」
 この際、子供の本当の父親などは問題ではない、元暁と公主が自分たちの子供であると信じればそれでいいのである。重要なのはこのことなのだから。
 その後、元暁は瑤石宮で公主と共に暮らした。公主のために毎日仏さまの話をしたり、また彼女の身体に良いものを作らせて食べさせたりもした。
 外から見れば二人は仲の良い夫婦だった。そのため、公主の身近に仕える者以外は、元暁は破戒僧になったのだと噂した。
 歳月は流れ、いよいよ出産の日となった。元暁はずっと公主の側にいて不安がる彼女を力づけた。そして陣痛が始まると彼女のために経文を誦してくれた。
 こうしたなかで公主は無事に男の子を出産した。
 元暁はその子を聡と名付け、姓は自身の俗姓である“薛”氏を名乗らせた。
 その後、暫くの間、元暁は瑤石宮で公主母子と過ごした。そして、公主の体調が完全に回復した時、瑤石宮を出て行った。公主はもちろんのこと、侍女たちも元暁がこのままずっと瑤石宮で暮らすことを望んでいたが、敢えて口には出さなかった。彼が仏僧として生きることを望んでいるのを知っていたからである。
 瑤石宮を離れる際、元暁は書物の包みを公主に渡しながら言った。
「聡がこれから学んでいく上で必要な書です。相応の年頃になったら渡して下さい」
 彼は、この間、息子の学問に必要な書物を集めたのである。この中には自ら執筆したものもあった。

 瑤石宮を出た元暁は俗服を身に着け小性居士と自称した。世間的には破戒したことになっているので僧衣は纏わなかった。粗末な服装で各地を回りながら仏の教えで人々の心を励まし癒したのだった。

 元暁の“息子”薛聡は両親が望んだように国を支える人物となった。彼の周囲の者は誰も“真実”を告げなかったため自分は元暁の子供だと信じ、ずっと彼を慕い尊敬していた。ただ、幼い頃は、父親の不在を寂しく感じることもあったが、母親の公主や周囲の人々が、元暁がどれほど息子のことを慈しんでいたか繰り返し話してくれたので成長するに従いこうしたことも気にならなくなった。そして、父親が新羅の多くの人々に尊敬されているという話を聞くたびに誇らしく思うのだった。
 元暁が亡くなると聡は、その遺骨を砕いて塑像を作り、自宅近くにある芬皇寺に安置した。彼は時間さえがあればそこに行き、塑像を拝礼した。
 ある日、いつものように芬皇寺へ行き拝礼して顔を上げると塑像の顔に笑みが浮かんでいた。
“聡よ、立派になったな”
 どこからか父の声がした。
「父上!」
 聡は懐かしさと嬉しさで思わず涙を流すのだった。


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サークル名:鶏林書笈(URL
執筆者名:高麗楼

一言アピール
今回も新羅のお話です。元暁大師は韓国(北朝鮮でも?)有名な僧侶で多くのエピソードがあります。その中の二つを自分なりにアレンジしてみました。特に後半は「三国遺事」に収録されている内容とは大幅に異なった内容になっています。


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