想像の原資
科学は人々が想像できる未来を作る力を持つという。
その裏には誰も想像がつかないような未来は妄想と同じだという考えがある。
――ならば私は妄想の世界に立っているということに
と楓は高楼に囲まれた帝都のただ中で足をすくませるのであった。むろん周囲の人間はそんなふうに思ってはいないようで、駅舎に吸い込まれたり吐き出されたりしている。
楓にとって想像もつかない、妄想のような世界。
それがここ〈蒸気都市〉帝都であった。
誕生してすでに一世紀を数える蒸気機関は、いまやこの世界のあらゆる産業になくてはならぬ存在だ。わけても帝都は世界で最も蒸気機関が普及した都市であり、その発展と恩恵により、都市ひとつで大国に匹敵しうる経済力を誇っている。
蒸気機関と結びついて帝都の発展を支えているのが科学技術だ。最新の科学や発見こそ欧州の地に一歩及ばぬものの、帝都はそうした最新科学の技術への転用、改良、工業化に長じていた。国家政策としても科学技術や産業の振興が執られている。
いずれにせよ最新の科学技術が集う帝都は、およそ現代において想像可能な一歩先の未来が具現化したような都市であった。もちろん帝都の人々はそれに慣れきっているので、普段からなにか特別な感慨をいだいて過ごしているわけではない。彼らにとって帝都での生活はあくまで日常に過ぎないのである。
しかし楓は違った。彼女は蒸気機関がいまだ普及しきらぬ地方の出であり、ましてや現代科学とはほど遠い世界で生きてきた身だ。要するに現代から見ても一歩ほど遅れている人間であるから、二歩先の未来である帝都はもはや想像がつかない――妄想と同じような――ものであった。
――や、私が疎いのを差し引いて、妄想の世界に立っているのは考えすぎだとしても、未来に足を踏み入れているのは間違いない
彼女にそう思わせたものは数多いが、自家用自動車の普及と、洗濯機などの一個人の家庭に置ける家庭用蒸気機関の存在が大きかった。
楓は帝都に来て、自動車が実用品であり工業製品であるのを目の当たりにした。故郷では公的機関を除けばごく一部の素封家だけが保有するもので、しかもそれは応接間にさりげなく飾る掛け軸や陶器のような、人に見せることも価値に含むある種の工芸品のような趣さえあったほどであるが、ここではありふれた存在として無数の煤煙を吐き散らしながら専用の道を走っている(そもそも故郷では自動車だけが走る道というものが考えられない)。
家庭で動く家庭用蒸気機関も彼女に大きな驚きを与えた。といっても彼女が見たのはまだ洗濯機と乾燥機ぐらいである。
家庭用蒸気機関は圧縮蒸気により作動する蒸気駆動の機械の総称で、多数の商品が開発、販売されている。これらは固有の罐を焚いているわけではないので厳密には蒸気機関とは言いがたい。しかし帝都では一般的に蒸気機関の一種と捉えられている。
圧縮蒸気は市街各区の蒸気機関で発生させており、専用の蒸気管により各戸に備えられた蒸気栓に届けられている。機械の管を栓に差し込むと圧縮蒸気が通じて動かせるようになる仕組みだ。
――きっと帝都の誰かがそんな機械がある未来を想像したのだろう
少なくとも洗濯や乾燥を機械にゆだねるなどという未来は、楓の故郷では妄想と言われてもおかしくはない。だが帝都ではそう言われないだけの積み重ねがあり、思い描かれた未来を現実とするだけの科学があり、叶えられる技術者がいるのだ。
――こんな未来を見せられてしまっては、自分の想像とはなんとちっぽけなものだったのだろうかと思わされてしまう。思うに私がした想像のうちで最大のものといえば……
二つの大陸が交わる北の果て、北天中の更に北に広がる北洋の彼方(かなた)。
大陸の東に巍々として連なる天嶺を越えた先。
南溟をはるかに下った嵐生まれる海にあるもの。
こうした世界の果てを夢想したことはあった。しかしこれらは遠くにありすぎて想像もおよばぬ地という抽象的な意味合いでしかなく、あくまで自分が住む世界の、さらにそのずっと先にあるという漠たる果てでしかなかった。従って言葉の上では想像ではあっても、具体的にその場を思い描いていたわけではない。
見たことがないという点では海も同じである。しかし曖昧な世界の果てと違って、楓は海というものはある程度まで具体的に思い描けていた。というのも、彼女が知る最も広い水の集まりである湖をさらに広く、波もさらに高く、水は汗のように塩っぽくて、と手がかりとなるべき情報が身近にあったからである。
そういう点では、子供のころに想像していた紙芝居の続きの展開も似たものかもしれない。幼い彼女はその日に見た紙芝居の内容を思いだし、次はどうなるだろうかと夢想しながら床に就くのが好きであった。この想像とはまったく突拍子もないものではなく、この日までに見た内容、筋運びなどから組み立てられたもので、正確には予想とでも呼ぶべきものであった。子供ながらの想像の飛躍はあったかもしれないが、紙芝居のこれもやはり海と同じく、身近な経験を手がかりとしていた。
――私の想像はすべて現実の延長線上のものでしかなくて
つまるところ楓にとっての想像の原資とは、現実を手がかりや足がかりとしたもので、これに接していない想像というのは本質的にあり得なかった。帝都にある様々な科学技術をまったく想像できていなかったのもそれが原因だ。目覚ましい技術の数々とこれまでほとんど接点がなかった彼女にとって、帝都にありふれる科学技術の結晶とはどういうものか、という考えがそもそも浮かばないのである。彼女にとって蒸気機関といえば蒸気機関車や汽船、帝都では旧型となった自動車ぐらいのもので、これらを原資とした彼女の想像は、より速く走るとか、より大きいとか、精々そういった形でしかなかった。
――帝都に住まう人にとっては、ここにある現実が少し前までの想像の延長線上にあったものということにも
帝都の科学はやはり帝都で想像された結果の産物であり、生まれるべくして生まれてきたものなのだろう。同時にそれは楓の故郷では逆立ちしたって生えてこないことも意味している。
――では、帝都の人には想像がつかなくて、私にならば想像がつきそうな未来もあるのでしょうか
帝都と故郷を引き比べ、それぞれ無縁なものを考えて、楓はふと自然を思い浮かべた。
この街に自然と呼ばれるものはないに等しい。街路樹はどれも形式的、画一的なもので、しかもその木々は蒸気と煤煙でしおれきっているし、河川は鈍い色をしており、とても泳ぎたいと思える状態ではなかった。街に花の香りはなく、排煙の臭いが鼻をつく。空に青はなく、曇天のように煤けた空が茫洋と広がっているばかりだ。いちおうは郊外に自然公園があると聞いているが、街の中がこの状態では、帝都において想像される自然もなんとはなしに全体が見えてくる。
――緑が多いとは聞いていますが
都民にとっては憩いの場所ではあるのだろう。しかし自然は穏やかな一面ばかりではない。
故郷では自然は人だけの場所ではなかった。人ならざる者のほうが多く息衝く、神聖にして野蛮、親しまれ、畏れられるべき領域であった。人は辛うじて立ち入りを許されているだけの存在でしかなく、そうした空間にあっては人などちっぽけで儚い。
翻って帝都はどうだろう。自然に足を踏み入れるとは、死に接する状態に踏み込むのと同義であるなどと考えられていないのではないだろうか。豊かな恵みをもたらす大地や山林、河川が、ときに大きな災いをもたらすという想像はありそうもない。
そもそも帝都の人は死を想像しているだろうか。むろん犯罪に巻き込まれるなどして危機に瀕すれば、自分は死ぬかもしれないと考えはするだろう。しかしそれはそのような状態におかれて初めて想像しうる、直面している現実を足がかりにしたものだ。
楓は身近なものから死の想像をめぐらしてしまい、慌てて振り払うことがしばしばあった。自身であまり考えたくはなくても、つい考えがおよんでしまうのだ。何もない平穏な状態のときに限って特に陥りやすかった。そうなってしまうのは、普通に生きていてもある日あっさりと振るわれるのが死であるという考えに起因している。死は危機的な状態になって初めて近づいてくるものではないのだと。
自然の中にあっては特にそうで、死という落とし穴は日常のそこかしこに空いている。それを感じながら育った彼女だから、つい身近に死の想像をめぐらしてしまう。あべこべに自らが危ういときにはそこからどう脱するかに思考が傾く。危険な状態で死ぬのは難しいものではなく、その当たり前をどうにか回避しようと必死で考えをめぐらすのだ。
服の上からそっと腹をなぞる。背と腹が疼いていた。疼きはかつてあったかもしれない、またこれからあるかもしれない死への予感と想像だ。自分はいつ死ぬかわからないという、底のない不安にも通じている。
いきなり自動車が飛びこんできたら。通り魔的に襲われたら。蒸気機関が爆発したら。そのように想像しだすときりがない。しかし帝都も自然に負けず劣らず死の未来が多いのは事実だ。いや、そんな未来がない場所など存在しないのだろう。
――またこんなことを考えて……
想像には天性が現れる。自然の中で培われ、自然を離れたこの帝都でもよぎる死の想像は楓にとって身近なもので、しかし一歩先の未来で叶う現実とはしたくないものである。
――帝都で過ごして文明に染まれば、少しは明るい想像もできるだろうか
幸か不幸か、とても想像のおよばなかった帝都で過ごす時間は短くはない。その間に見聞きしたものによって、知見を広げていけるとよいが。
――自分は帝都でどんな生活を送るのだろう
まずはそこから考えてみたい。それがいまの楓にも可能な、帝都における現実を手がかりにした想像であり、未来でもあるのだから。
サークル名:蒸奇都市倶楽部(URL)
執筆者名:シワ(蒸奇都市倶楽部)
一言アピール
想像の原資とは現実における経験であり、未来とは想像によりもたらされる結果である。――シワ
蒸奇都市倶楽部はスチームパンク「風」の世界設定を舞台に作品を発表しております。
テキレボ新刊は『暗翳の火床』(文庫判)となる予定です。本作の楓が主人公となります。
どうぞWebカタログでご検索を。