なみだの暗渠
海辺へ向かうバスは花の香りでいっぱいだった。間違ってビニールハウスに乗りこんでしまったのかと疑うほどに。
乗りあわせた老人たちは色とりどりの花束を大切そうに胸元に抱き、車窓を流れる新緑の景色を見つめていた。カーブのたびに大げさなほど揺れる車体。つり革に体重を預けて目を閉じていると、中学生のとき社会見学で訪れた植物園を思い出した。クリーンセンターの隣に建つ、ゴミ焼却炉の熱を利用して花の蕾を温めている園だった。
「百六十年前の開園当時、温室は今の約三倍の広さがありました。戦後、ゴミの排出量が大幅に減ってしまったため、現在の規模に縮小されたのです」
そう説明するガイドさんの口紅は、ハイビスカスのように鮮やかだった。その赤が今もくっきりと脳裏にこびりついている。
知らない土地の朝は澄みわたり、わたしの情緒は乱れていた。寝不足、バス酔い、古い思い出……そういうものが混ざりあって、感情のバルブが緩くなっていたのだと思う。悲しかったわけではないのに、ふいに一滴、涙がこぼれた。
涙とともに小魚が一尾、右目の端からすべり落ちた。おそらくニシンの稚魚だろう。朝日を受けてきらりと光る鱗の碧がみずみずしい。わたしは目元をぬぐうふりをしてハンカチでそれをキャッチすると、あらかじめハンドバッグの中に広げておいたジップロックに放りこんだ。
「大丈夫? ここ、おすわりになる?」
目の前に座っていた老婦人が腰を浮かせて、気遣わしげに声をかけてくれた。
「ありがとうございます、大丈夫です」
わたしは会釈を返すと、背筋を伸ばしてつり革を握り直した。小魚には気づかれなかったと思う、たぶん。
(朝ごはんを抜いたのはよくなかったな)
今さらながらに後悔する。低血糖で心がワレモノになっている。
現地でどのくらい時間を使うか皆目見当がつかなかったから、できるだけ朝早く家を出た。特急と路線バスを乗り継いでの長旅だ。明日も仕事なので、遅くなるのは避けたかった。
ハンドバッグに手を差しこむと、ジップロックの微かな震えでニシンの稚魚が跳ねているのが伝わってきた。ごめんね、と声には出さずに謝る。その隣、昨夜届いた封筒に指先が触れた途端、わたしの胸に波音が満ちた。
ざざあ、ざらざら、ざらざらざざあ。
ざざあ、ざらざら、ざらざらざざあ。
波浪のような胸騒ぎのわけは、期待なのか不安なのか。
判別がつけられないまま、わたしは朝を駆けるバスに揺られていた。
*
その手紙を受け取ったのは、残業を終えて帰宅した金曜日の晩だった。差出人が書かれていない浅葱色の長3封筒。宅配ピザと不動産屋のチラシに混じって、郵便受けで待っていた。
心当たりのない便りに首をかしげつつ、わたしは「親展」と朱書きされた封筒の口を破った。
橋本 みう様
突然のご連絡失礼いたします。
このたび当方の手違いで、あなたの涙腺が太平洋とつながっていることが判明いたしました。ご不便をおかけして大変申し訳ございません。無償で修理・交換させていただきますので、ご都合のよろしいときに下記の住所までお越しください。
※日曜・祝日は定休です
海の神
ほのかに磯くさい手紙をためつすがめつ眺めながら、わたしは台所のシンクで泣いた。まぶたの端から四十センチほどもある回遊魚がこぼれ落ち、尾びれで流し台をリズミカルに叩いた(そんな大物はずいぶん久しぶりだった)。
疲れきった頭で何度も文面を読み返し、咀嚼しようと努めたが、際限なくあふれる雫が邪魔をしてうまく考えがまとまらなかった。
うまれつき、自分でもあきれるくらい涙腺が弱かった。ほんの少し心が揺れると涙はすぐに氾濫した。わたしの歴史は水害との闘いだった──思春期を過ぎるまではとくに。
心はなみなみと水の張られた小さなコップだ。両手で囲って、真っ暗な廊下をつまづかないよう慎重に歩かなくてはいけない。部活の帰り、坂道を登りきったら紫色の夕焼けが見えたとき。家を出てから靴下の左右が違っているのに気がついたとき。大好きだったキャラクターの手帳を大嫌いな先輩が愛用していると知ったとき。喜怒哀楽のすべてが涙の引き金になった。
周囲からは弱い子だと思われていたに違いない。無理もない。無理もないが、それは誤解だ。
(弱いのはわたしの涙腺で、わたしじゃない)
三十を迎えた今ならそんな開きなおりも言えるが、当時はまだ、生きづらいという言葉さえ手に入れていなかった。
書面の末尾に印刷されたグーグルマップとおぼしき地図は、解像度が粗くてガビガビだった。地図アプリを開いて記載の住所を打ちこむと、片道三時間半と出た。サムネイルには無人の砂浜が写っている。かたわらに松林に囲まれたオートキャンプ場があるが、今の季節は営業していないらしい。
(涙腺の修理って、いったいどうやるんだろう?)
痛いのだろうか。麻酔はしてくれるのだろうか。
(……神さまだから奇跡みたいに一瞬かな?)
以前テレビで声を失ってしまった歌手のドキュメンタリーを観たことがある。その人は首をまるごと樹脂製の義首に交換して新しい歌声を手に入れた。二度目の声変わりをした気分、とにこやかに語っていたっけ。
物思いにふけっているうちに、気がつけばシンクの魚は消えていた。涙とともに飛び出してくる海産物は厄介だが、しばらく目を離すといなくなる。泡になって空気に溶けたか、ここは海ではないと気づいて元いた場所へと帰ったのか。そういうものだと慣れてしまって、いまさら疑問に思うことも減ったが。
まさか、太平洋とは。
缶チューハイを一本空けて風呂に入ると、いくらか気分が落ち着いてきた。母に電話をかけて明日のランチをキャンセルしたいと伝えると、「仕事?」と訊かれた。
「違うよ。どうしても行かなきゃいけない用事ができて。ごめんね」
これは本当だ。
「そうなの、いいけど。仕事は順調? 続けられそう?」
「順調だよ、大丈夫」
これは多少嘘が入った。
その後、しばらくとりとめのない話を聞いた。父のこと(毎日飲んでる)、弟のこと(毎日ギター)、近所に新しくできた整骨院のこと(院長がイケメン)。母のアドレスに銀行を騙るフィッシングメールが届き、危うくカード番号を入力しそうになったこと。
三通りくらいの相槌をローテーションで打ちながら、わたしの視線は食卓に広げたままの手紙に吸い寄せられていた。その中身について、どう話そうか決めかねているうちに──
「ところで、最近水まわりの調子はどうなの?」
母の口から何気なく出た「水まわり」という言葉に、わたしははっと息を飲んだ。
子どもの頃、母は嫌がるわたしを引っ張って、眼科、内科、耳鼻科と様々な病院をはしごした。大量のサプリメントや死ぬほど苦い漢方薬も飲まされた。もちろんわが子を思ってのことだとはわかったが、反抗期にさしかかり棘が生えたわたしは、次から次へと新しい療法を勧めてくる母にうんざりしてこう言った。
もうお節介はいいよ! 病気じゃないし。水まわりのトラブルみたいなものだから。
忘れていた、今の今まで。そんな言葉を吐いたことなど。
「変わりないよ、ありがとう」
わたしたちはおやすみの挨拶を交わして電話を切った。
わたしが何を忘れても、それは消えずに残っていて、縫い目のひとつになっている。世界はまったくややこしい。そりゃ神さまだってミスくらいするよなと、布団をかぶって空が白むまで考えていた。
*
バスは住宅街を離れ、山手をなぞる国道を走った。木々の隙間から時折のぞく遠い海は、淡く光って凪いでいた。道が蛇行するたびに、その存在感が少しずつ大きくなってゆく。
老人たちの一団は、わたしが降りるひとつ手前の停留所で下車した。個性的な抑揚のアナウンスが「ドアがひらきます、ご注意ください」を連呼する中、穏やかな顔の乗客たちは運転手に一礼してゆっくりと退場していった。
目の前の老婦人が席を立つので、わたしはつり革から手を離し、体を引いて通路をつくった。次の瞬間、一輪の白いデイジーがわたしの手の中で咲いていた。
「どうぞ。ごきげんよう」
子守唄のような声でそう言うと、花束を抱えた老婦人は残り香だけを置いて去った。お礼を言いたかったけれど、わたしの言葉は間にあわなかった。
数分ののち、わたしは片手に白い花を、片手にスマートフォンの地図を持って目当てのバス停に降りた。無人になったバスを見送り、目的地までのナビを開始する。鞄の中で折れてしまうのが惜しくて、花は手に持ったままにした。
蜜を求めてはしゃぐハナアブ。頭上でうたうトビの声。初夏の田舎道は命の気配に満ちていたが、あたりに人の姿はなかった。みんな呪いで虫になってしまったのかもしれない。
古くから拓かれていた土地なのだろう。区画割りは複雑で、道は曲がりくねっていた。ナビがなければ大変だったに違いない。数分ほど歩き、小さな川の石橋にさしかかったときにはもう、来た道の記憶すら曖昧になっていた。
欄干から身を乗り出すと、町の地下に潜りこむ配管の黒いあぎとが見えた。そよ風のふりをした臆病風がさあっと吹いて、わたしは急に弱気になった。
(こわいな。やっぱり引き返そうかな)
そんな思いが頭をかすめる。水路を見ると心がぐらついてしまうのは、きっとわたしの自己憐憫だ。感傷をふりきって顔をあげると、スマートフォンの電源が切れていた。
(どうして?)
一瞬、頭が真っ白になる。
バッテリーはまだ六十パーセントくらいあったはずなのに。再起動を試みるが、縦長の闇は狼狽したわたしの瞳を映すだけで、何の反応も示さない。
慌ててハンドバッグにしまっていた手紙を取り出す。粗い地図をどうにかして判読しようと目を凝らすが、そもそも現在地すらあやふやなこの状況では、たいして役に立ちそうもなかった。
行くか戻るか、しばらく逡巡した後で──
(とにかく、もうちょっと歩いてみよう)
ふりきったばかりの弱音に白旗を上げるのが癪だった。それなら、行けるところまでは行ってやろうと腹をくくった。
わたしは川沿いの道を選んで下流を目指した。海辺にさえたどり着けば、案外すぐに目的の浜辺が見つかるのではという目算があった。ところが、すぐにそれが甘い考えだったと思い知る。ほどなくして道は水路から離れ、自分勝手に枝分かれを始めたのだ。方角を見失い、わたしはいよいよ本物の迷子になった。だれかに道を尋ねようにも、すれ違うのは車道を行き交う自動車ばかり。
ブラウスの背中を汗がつたう。陽が高くなっている。バスを降りていったい何分経っただろうか? 時計がないので時間も知れない。まぶたの裏に熱い波が押し寄せてくるのを、今度はもう止める術がなかった。
思わず空を仰いだ。
すると、花畑が見えた。
車道のむこう、倉庫のトタン屋根と生い茂る木々の間に、色褪せた看板がわずかに顔をのぞかせていた。何か文字らしき跡も見えるが、かすれていて読み取れない。わかるのは、大胆なタッチで描かれた白い花畑。あの花は──
(デイジーだ)
握っていた花を掲げると、看板の絵とぴったり合った。まるでジグソーパズルみたいに。
ガードレールを乗り越えて、わたしはその場所に急いだ。近づくにつれ、松林に隠されていた建物が姿をあらわす。周囲の景観を完全に無視した、おとぎ話のお城のようなデザイン。あろうことか外壁はオレンジで、窓にはストライプの日よけが取りつけられている。剥がれかかった看板も、すぐそばでなら読むことができた。
〈平和と愛のHOTEL デイジー〉
錆びついたシャッター、叩き割られた部屋番号の内照パネル。建物を飾るひとつひとつが、年老いた皮膚に浮かんだ皺のように、廃業してからの年月を雄弁に物語っていた。
ホテルの脇に松林を通る小径を見つけた。脛まで伸びた下草に、空き缶や吸い殻が散乱している。入り口は薄暗く、道の先は見通せない。言葉にならない予感に背中を押されて、わたしはおそるおそる足を踏み入れた。一歩ごとに濃密な潮の香りが鼻先をくすぐる。
松林を抜けると、おもむろに視界がひらけた。足を止め、肺いっぱいに海風を吸いこんで確信する。間違いない。目の前に広がる砂浜は、昨日の夜、サムネイルで見た風景そのままだった。
ざざあ、ざらざら、ざらざらざざあ。
ざざあ、ざらざら、ざらざらざざあ。
わたしの中の透明な波が高くなる。
バッグの奥で眠っていたスマートフォンがおもむろに目覚め、メロディーを鳴らして宣言した。
『目的地に到着しました。ルートガイドを終了します』
*
砂浜への入り口は、腰丈に張られた虎縞ロープでさえぎられていた。くぐり抜けて浜辺に立つと、さあっと世界が遠ざかっていく感覚に襲われた。せいぜい幅三百メートルほどの海岸。砂から波へ、波から空へと引き継がれてゆくグラデーションに息を呑む。
見回すと、海岸の端、消波ブロックの上に釣り人がいた。季節外れの防水ベストが暑そうな、小太りの中年男性だ。
「すみません」
声をかけて歩み寄る。こちらを向いた顔は、まるでハコフグのようだった。
「ちょっとお尋ねしたいのですが、このあたりに海の神さまという方は……」
わたしが言い終わらないうちに、男性は見た目よりもずっと高い声を発した。
「海の神はわしだけど?」
その言葉の意味を飲みこむには、若干の努力が必要だった。
(イメージと違う……)
では、どんな姿なら海の神さまらしいのか、と聞かれても答えに困るが。少なくともキャップを後ろ前にかぶって長靴を履いたおじさんだとは予想していなかった。
「ちょっと待ってな」
男性は緩慢な動作で消波ブロックから降りた。尻を置き、両手で体重を支えてから、片足ずつ順番に砂へと下ろす。その立ち居振る舞いは、神さまというより動物園のナマケモノを連想させた。
「ああしんど。で、どしたん?」
「あの、これ……」
例の手紙を差し出すと、彼はそれを鼻先に触れるほど近づけて、まじまじと眺めた。
「ははあ。あんた、だまされたんだなあ。今年に入ってもう三人目だよ。この手紙を持ってきたのは」
「だまされた?」
予想だにしなかった言葉に、おうむ返しをしてしまう。
「詐欺だよ詐欺。ほら、人間社会でも流行ってるでしょ? なんだっけ、あの本物っぽいメールとかハガキを送ってなりすますやつ」
「……フィッシング詐欺、ですか?」
「そうそうそれそれ。フィッシング的な」
釣り竿を振るう仕草でにやりと笑う。
「まあ、こんなことやったって何の利益にもならんから、おおかたヒマを持てあました悪魔のいたずらだろうなあ。あいつら人間の悪事を真似るのが好きだし、神を騙るはもっと好きだもん」
はあ、と気の抜けた返事が口から漏れた。
時間をおいてもう一回。
はあ。
呆然自失のわたしに、訳知り顔のおじさんは、人差し指を左右に振って訓示を垂れた。
「いいかいお姉さん。古来から、神は大事なことを郵便で通知したりはしない。直接夢枕に立つんだ。覚えておくように」
太陽は天頂近くまで昇り、海面は降りそそぐ光を浴びて、宝石よりもきらめいていた。もしもこの世の平和や愛がすべて経年劣化で朽ちたとしても、この場所だけは永遠に輝きつづける、そう思わせるほどの美しさがここにはあった。
にも関わらず、わたしはひどく戸惑っていた。砂浜の美はわたしの混乱をよりいっそう深くした。
「えっ、じゃあ修理、涙腺の修理は……?」
「あのね。そもそも何を修理するっていうんだい? 人の涙腺はぜんぶ海のどこかにつながっている。今はそれがふつうじゃないか。そしてだね、そうしてくれと頼んだのは、お前さんたち自身なんだよ」
おじさんは、ひと言ひと言、噛んで含めるような口調で語った。
「昔、この国の人間たちは三十三年間におよぶ激しい戦争をやっていた。その結果、人々の涙は一滴残らず枯れてしまった。そりゃそうだ、愛するものが次から次に死んだんだから……。そこで生き残った連中は、わしのところにやってきて『涙を貸してほしい』と頼んだ。同情したわしは、目には見えない配管で人々の涙腺と海をつないで、好きなだけ泣けるようにしてやったんだよ」
海の神さまは言葉を切ると、わたしの目をのぞきこんで言い足した。
「こんな話、聞いたことない?」
「ありません」
「まったくなあ」
おじさんは深々とため息をついた。
「そういうことを、お前さんらは、どうして伝えていかないんだろうね?」
あきれた声でそう言うと、彼は手紙をするすると折り、紙飛行機につくり変えた。空中に投げ出された飛行機は雲に向かって一直線に飛びあがり、やがて放物線を描いて落ちた。水面に触れる直前で、それは白いイルカになった。
しぶきを上げて潜ったかと思うと、数メートル離れた水面から跳躍する。わたしを翻弄した手紙は、ダイブとジャンプを繰り返しながら遠ざかり、やがて水平線の向こうに消えた。
*
小学校三年生のとき、水泳の授業が憂鬱で、前夜に激しく泣いたことがある。わたしの涙があまりにたくさん流れるので、子ども部屋はたちまち水没し、小さなプールみたいになった。
溺れちゃう! と焦ったけれど、涙のプールは優しくわたしを抱きあげて、犬かきや平泳ぎを教えてくれた。消しゴムのペンギンやシャチもペンケースを飛び出して、朝まで練習につきあってくれた。
部屋を水浸しにしてしまい、母にひどく叱られはしたけど、これは泣いてよかった数少ない思い出。
*
「目から魚とかが出るんですけど」
「うーん。個人差あるからねえ。漢方薬でも飲んでみたら?」
「飲んだんですけど」
「大変だねえ。あ、そうだ、これをあげよう」
「なんですか、これ?」
「さっき浜辺で焼いたアジだよ」
「目に効くんですか?」
「いいや。でも塩加減が絶妙でうまいよ」
*
神さまは食べきれなかった焼き魚をホイルに包んで持たせてくれた。手さげがほしいと要求すると、スーパーのビニール袋を渡された。中身に対して大きすぎる袋をガサガサ鳴らしながら、バス停までの道をさかのぼる。無限のように感じられた道のりも、ナビを片手に歩いてみれば、拍子抜けするほど近かった。
(もう気絶しないでね)
と、スマートフォンに釘を差す。
(そろそろ替えどきなのかなあ)
老婦人がくれたデイジーは、心なしか萎れはじめているように見えた。帰ったらペットボトルに活けてあげよう。
振り返れば、思いもよらない荷物ばかりが手元に増えた一日だった。一方で、下ろせると思っていた荷はそのままわたしの中に残った。
ままならないなと唇を噛む。骨折り損といえばそうだが、不思議と心は凪いでいた。
バス停のベンチに腰かけ青空を見る。
田舎町の、高い高い空に広がる海原を、色とりどりの風船が舞っていた。行きのバスで乗り合わせた老人たちが降りていった方角だ。停留所の名前はたしか、戦没者記念公園前。
風に乗ってブラスバンドの演奏が流れてきたが、ここからでは曲名まではわからなかった。
帰りのバスはあと四十分ほど待たなければ来ない。
わたしは目を閉じ、体の中をめぐる水路と、太平洋に思いを馳せた。胸に手を当てて耳を澄ますが、波の音はもう聴こえない。
魚たちも、感情も、今は眠っているのだろう。
なにしろこんなにくたびれて、そのうえよく晴れた一日だから。
(おわり)
サークル情報
サークル名:おとといあさって
執筆者名:柊らし
URL(Twitter):@rashi_catwillow
一言アピール
本作が収録された短編集がEX2の新刊になる予定です。いま、進まない原稿を見つめながら、ぶじ出るように祈りを捧げているところです。おのれに。おのれに対する信仰心が足りないせいで、いつも願いがかないませんが、今回ばかりはほんとうに出るといいなと思っています。