あの子なりの実践的過去改変理論
「涼夏、マリちゃんのお引っ越しって今日よね」
テーブルの向かいに座るスーツ姿のお母さんが、テレビの画面を横目で眺めながら少し眠そうに言う。トーストの最後の一欠片をつまもうとしていたわたしの指先が、一瞬だけ動きを止めた。
「マリちゃんとは仲良かったわよね。よくお家にもお邪魔してたし」
「……うん」
トーストを飲み込みながら、こくりと頷く。
「ちゃんと、忘れずにお見送り行ってくるのよ?」
「大丈夫、忘れない」
短く言ったわたしの声は、普段と何も変わらない、いつも通りのわたしの声だったと思う。
「じゃあ、そろそろ行くから。お留守番よろしくね。知らない人が来ても出ちゃダメよ」
「分かってるって。もう小学生じゃないんだから」
「まだ中学生ってわけでもないでしょ」
食器を手早く片づけたお母さんは、一回、二回とわたしの頭を優しくなでると、ダイニングを出て行った。
階段を上り、自分の部屋に入る。ベッドのそばまで歩いて行き、壁にかけられている制服に手を伸ばした。校章入りのブレザーと真っ白なブラウス、大きなリボン、そしてプリーツスカート。どれも生地がすべすべとしていて、何となく身が引き締まるような不思議な香りがする。あと数日もすれば、この制服を着て学校に通う日々が始まる。そのことが、わたしにはまだ、何かの冗談としか思えなかった。
時計を見る。マリちゃんと家族は、十時に車で家を出るそうだ。先週の日曜日に、お母さんが電話でマリちゃんのお母さんから聞いたらしい。マリちゃんのお母さんは、わたしに見送りに来てもらいたいのだろうか。わたしが見送りに行ったら、マリちゃんは喜ぶのだろうか。
出発の時間までは、まだ二時間以上あった。
マリちゃんとは、三年生のときに初めて同じクラスになった。
マリちゃんは、一言でいえば変わった子だった。マリちゃんは本を読むのが好きだった。それも、クラスメイトたちが読んでいるような本ではなく、もっと分厚くて字の小さい本を読んでいた。何を読んでいるのか聞くと、いつも早口で嬉しそうに、本の内容を端から端まで説明してくれた。マリちゃんは、超常現象や超能力、魔術やおまじないに関する本が特に好きだった。古代人の予言。海外の超能力者。魔法陣の描き方。他の子が絶対にしない話の数々に、わたしは夢中になった。
けれど、マリちゃんは、友達が多いタイプの子ではなかった。マリちゃんは、自分の好きなことにはこだわる一方で、そうでないことには全く興味を示さなかった。中でも運動が大嫌いで、体育の授業は見学ばかりしていた。係や委員会を決めるときにも、やりたい仕事を他の子に取られて泣き出し、慌てた先生になだめられることが何度もあった。宿題や持ちものを忘れることも多く、いつも叱られていた。けれど、わたしにとっては、どれもささいな問題だった。わたしの家とマリちゃんの家は同じ道に面していて、遊びに行くのは簡単だった。わたしは毎日のように、マリちゃんの家に通うようになった。
玄関のチャイムが鳴り、わたしはびくりと身体を震わせた。階段を下り、インターホンのモニターを確認してから、玄関のドアを開ける。
「おはよう、涼夏ちゃん」
数か月ぶりに会ったマリちゃんのお母さんは、前と変わらない柔和な笑みを浮かべながら、頭を下げた。
「おはようございます。あの、すみません、お母さんはもう出かけちゃって……」
「いいのよ。涼夏ちゃんに用事があったから」
首を傾げたわたしに向かって、マリちゃんのお母さんは四角い缶を差し出した。
「これ、いつか涼夏ちゃんにあげたいって、前にマリが言ってたから」
缶を受け取りながら、わたしはたずねた。
「……マリちゃんは、いつ頃そう言ってたんですか?」
「確か、夏頃だったと思うけど……。涼夏ちゃん、この缶に何が入ってるか分かる? マリが全然教えてくれなくて」
「マリちゃんは」
つぶやくように答える。
「この缶のこと……時間旅行装置だって、言ってました」
「あら――そうなの?」
マリちゃんのお母さんは、愛想の良い笑顔のままで、少し呆れたように言った。
「ごめんね。困ったでしょ、涼夏ちゃん。マリったら、昔から変なことを言うのが好きなの」
部屋に戻ったわたしは、缶を学習机の上に置いた。紫色の大きな四角い缶。元は、クッキーか何かが入っていたのだと思う。
わたしは缶のふたを開け、中にぎっしりと詰め込まれた原稿用紙の山から、一枚を抜き出して読んでみた。
『二〇〇八年九月三日のマリへ』
『保健委員になってはいけません』
『今日の保健委員の活動中に、転んでケガをしたからです』
『二〇〇八年九月十五日のマリより』
『P.S.図書委員になるのがいいでしょう』
マリちゃんがこの缶をわたしに紹介したのは、五年生の終わり頃だった。マリちゃんは缶を時間旅行装置と呼び、手紙を書いてこの中に入れれば、過去の自分に送ることができると言った。
けれど、わたしはもう、昔のように目を輝かせたりはしなかった。高学年にもなると、わたしだって、マリちゃんの話の大半があやしげなオカルトだということに気づいていた。知識の量も友達の数も増えたわたしは、マリちゃんの話を本気で楽しめなくなり、一緒に遊ぶ日も減り始めていた。
クラスでのマリちゃんの評判も、前よりずっと悪化していた。マリちゃんは相変わらず、わがままや不注意でしょっちゅうトラブルを起こしていた。そして、時間旅行装置の話も、そんなトラブルに対する言い訳としか思えなかった。保健委員についての未来からの手紙を見せてくれた日、マリちゃんはじゃんけんに負けて保健委員をやらされそうになり、大泣きして他の子から図書委員の座を奪っていた。それをマリちゃんは、未来からの警告に従うために仕方なかったの、と上機嫌で説明してみせた。わたしは、ただあいまいに相づちを打つだけだった。
六年生の十一月。マリちゃんは風邪で学校を休み、わたしから理科のノートを借りた。次に理科の授業がある日に返してくれるという約束だった。けれど、約束の日、マリちゃんはノートを忘れた。先生に注意されていら立っていたわたしに対して、マリちゃんは謝罪の言葉一つ口にしなかった。いつもの調子でわたしを家に呼んだマリちゃんは、時間旅行装置から取り出した原稿用紙を見せ、得意げに語り始めた。もしも今日ノートを持って行っていたら、登校中に川に落としてなくしてしまっていた、と。未来の自分からの手紙を見てそれを知り、わざと持って行かなかった、と。
そのとき、わたしは初めて、マリちゃんの言葉を正面から否定した。ちょっとは大人になってよ、と叫んだ。マリちゃんはわたしの中で、変わった子ではなく、ずるくて弱虫な子になっていた。驚きうろたえるマリちゃんを置いて、わたしは家に帰った。ケンカのことは誰にも言わなかった。多分、マリちゃんも、わたしと同じようにしたのだろう。
そのまま土日に入ってしまい、日曜日の夜、中学受験の話が出た。近所に県立の中高一貫校があって、結構人気らしい。ダメ元で受けてみたら、というお母さんとお父さんの提案に、わたしは頷いた。マリちゃんと気まずい状態のまま同じ中学校に通うのが、怖かったのかもしれない。
結局のところ、それは余計な心配だった。マリちゃんは卒業まで、二度と学校に来なかった。一方のわたしは、大して受ける理由のない試験を受け、そして、まぐれで受かってしまった。
やがて、マリちゃんが引っ越すらしいという噂が流れてきた。あの子、頭にショーガイがあって、そういう子のための学校に行くらしいよ。そんな意地の悪い噂を信じているクラスメイトも、少なくなかった。
わたしは何となく、棚から新しい原稿用紙を一枚引っ張り出し、机の真ん中に広げてみた。
そのまま鉛筆を手に取り、マス目を埋めていく。
『二〇〇五年四月一日の涼夏へ』
『クラスメイトのマリちゃんと仲良くしてはいけません』
『あの子は、ずるくて弱虫な子だからです』
『二〇〇九年三月二十七日の涼夏より』
『P.S.』
追伸がまとまらない。書いては消してを何度か繰り返していたわたしは、突然、自分のしていることのバカバカしさに気づき、放り出すように鉛筆を置いた。
書き終えた手紙を缶に入れ、ふたを閉める。はい、終わり。手紙は過去に飛んだりせず、缶の中でじっとしているだけだ。
お腹の底から、急に怒りがこみ上げて来た。マリちゃんは、こんなことを続けていて本当に楽しかったのだろうか。缶のふたを開け、入れたばかりの手紙を乱暴につかむ。書きかけのまま放置されていた最後の一文が、わたしの目に飛び込んで来た。
『P.S.でも、もしも、あなたが本当に強くて優しい人なら、』
原稿用紙の上の方を両手で持ち、勢い良く縦に引き裂く。そのとき、遠くから車の音が聞こえ、わたしは反射的に時計を見た。十時、一分過ぎ。低いエンジン音がだんだんと近づいて来る。破った手紙を両手に持ったまま、身をかがめた。音は家の前を通り過ぎて徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
立ち上がり、窓越しに家の前の道路を見下ろす。車はいない。人もいない。穏やかな春の日差しだけが、そこにあった。ほんの数分前までわたしの家とマリちゃんの家をつないでいたその道路は、マリちゃんが新しく住む家にも、マリちゃんが新しく通う学校にも、決してつながっていないように思えた。
わたしは真っ二つになった原稿用紙を缶の中に入れ、再びふたを閉じた。缶を持ち上げて軽くゆすると、もうどこにも届かない手紙たちが互いにこすれ合い、かすかな音を立てた。
ベッドにあお向けに寝転がる。真新しい制服が、視界の隅でわたしを見下ろしている。故障してしまった時間旅行装置を胸にきつく抱えたまま、わたしはゆっくりとまぶたを閉じ、それ以上は何も考えなかった。
サークル情報
サークル名:虚事新社
執筆者名:田畑農耕地
URL(Twitter):@SoragotoShinsha
一言アピール
作家・編集・デザイナーの3人組文芸サークル、虚事新社です。執筆担当の田畑が、草思社・文芸社W出版賞文芸社金賞を受賞した『壮途の青年と翼賛の少女』で8月に商業デビューしました。今回のテキレボEXには既刊のショートショート集が各種あります。