彼女との日々、そして消息

 正月明けに舞い込んだ、1枚の年賀状。
 ありふれた写真付き結婚報告の裏面に、見覚えのある筆跡──丁寧な、けれどほんの少し丸っこい文字。
『元気ですか』
 その一言を書くのに、彼女は何を思っただろう。
 少なくとも自分は、耳によみがえった声とともにそれを読み、懐かしさとともにつぶやいていた。
「元気そうだな」
 花嫁衣装とベールに包まれた笑顔。混じりけのない幸せそうな表情。

「演習の実験、一緒にやらない?」
 それが、初めて話しかけられた言葉。彼女──旧姓、小河貴美子おがわきみことの、個人的なやりとりの始まりだった。
「なんで?」
 純粋な疑問だった。理学部で女子が少ないとはいえ、同じクラスに何人かはいるのに。
「その子たちなら、もともと友達っぽくて、もう組んじゃってるのよ。ひと組3人までって決められてるでしょ」
「だからって、なんで俺と?」
 その頃、大学に入りたての自分といえば、とにかく地味に目立たぬようにして、息をひそめ毎日を過ごしていた。中学と高校時代に半ばいじめのような扱いを受けており、人付き合いがすっかり苦手になってしまったためだ。男子も、ましてや女子など、好きこのんで自分に寄ってくるはずがないと思っていた。
「だって、高森たかもりくんもひとりでしょ、どうせ」
 ほら、こんな調子だ。自分が一人でいることを当たり前だと、彼女も思っている。ひねた思考でそう考えた。
 だが小河貴美子はこう続けた。
「それにこないだのレポート最高得点だったでしょ、確か」
「……よく知ってんな」
「教授とたまたま話して聞いたの。質問があったから」
 すごいわよね、と貴美子は心底から感心しているようだった。
「あの教授の課題の出し方、ちょっと意地悪いじゃない? わざと参考文献の少ないテーマ出したりして。それであれだけの内容書いた高森はなかなかだ、って言ってたわよ。君たちも見習えとも言われたけどね」
 だから見習わせてよ、と貴美子は微笑んだ。
「私、理学部卒を腰掛けにする気はないの。卒業したら院に行って、いつか教授になるつもりだから。そのためには学べることはなんでも学ばせてもらうわ」
 その、心意気があふれた笑顔は悪くないと思った。正直に言えば魅力的で、惹きつけられた。
「リケジョの鑑だな」
「その言い方はちょっと微妙ね?」
 今度は、こちらのからかいを逆に茶化すような、にやりとした笑み。そういう表情も似合う女子だった。

 演習の実験は、思った以上に充実した時間になった。いつか教授に、という貴美子の発言は伊達ではなく、彼女は頭が良い上に運も持っているらしかった。思うような結果を出せないと周囲がぼやく中、予想よりも良い結果が出て、レポートは会心の出来に仕上がったのである。
「ありがとう、助かったわ」
「いや、こっちこそ」
 クラス内で最高評価を取り、演習で教授の指名を受けての発表を二人でおこなった後。偶然どちらも空き時間だったので、構内のカフェで慰労会を開いた。互いに「おごる」と言ってしばらく譲らなかったため、結局、どちらもが相手の分を支払うという形に落ち着いた。
「これじゃ意味ないわねえ」
 注文したカフェモカを飲みながら、貴美子は笑った。呆れたような困ったような笑い方なのに、どんな表情も魅力的に見える女子だ。興味深い、と思った。
 直後、自分のそんな考え方に内心苦笑した。こんな、何でも学問みたいに考える性質だから、女子受けどころか人間に受けないのだ。昔からそうだし、この先もたぶん、変わらないのだろう。そう考えていると。
「それで、物は相談なんだけど」
 今度の発表テーマをどうするか迷ってる、とでも続きそうな口振りで貴美子が切り出した。
「ん? 何」
「私たち、付き合わない?」
「…………………はい?」
 あまりの意外さに思わず、ドラマの登場人物みたいに問い返した。よくよく見ると、そう言った貴美子の頬は、うっすらと染まっているようでもあった。
「ほら、気が合うって大事だけど、そういう相手いるようでなかなかいないじゃない。私たち、考え方似てると思うし、勉強好きなのも同じだから、うまくいくんじゃないかなって思うの」
 早口で貴美子はまくしたてた。
 ……最後の一文が自分たちに、というか自分に当てはまるとは、とっさには思えなかった。だが内容の前半は、確かに彼女の言う通りだと思ったし、似ている点も同意だった。
 何より、そう言われて自覚した──貴美子に、同期生に対する以上の感情を抱くようになっている自分を。

 自分にとって、貴美子は初めての「彼女」だった。
 そして貴美子にとっても自分が初彼だと知って、驚いた。彼女は美人タイプではなかったが充分に可愛らしかったし、闊達な性格だから恋愛にも困らないと思っていた。
「そうでもないのよ。物をはっきり言いすぎる、って男子には敬遠されてた。男子より成績がいいのも気に入らない人が多くて。友達はそれなりにいたけど」
 自分の疑問に、貴美子はそんなふうに説明したものだ──初めて夜を二人で過ごし、目覚めた後のこと。当然お互いに初体験で、何度思い返してもぎこちなかったけれど、すごく満たされた気持ちになったこともよく覚えている。
 二人とも勉強が好きだったから、一緒にいる時はベタベタするよりも、調べ物をしたり推論を論じ合ったりすることの方が多かった。そんな調子でも雰囲気の違いは伝わるのか、というよりずっと人付き合いを避けていた自分が特定の女子と連れ立っているのが目立ったのか、付き合っていることはほどなく学部内で広まった。担当教授にまで「仲いいな」とからかわれたりした。
 照れくさい思いもしながら、何事も手探りで測りながら、けれど幸せに過ごした、初めての恋人との日にち。
 その幸福にヒビが入り始めたのは、いつだったろう。

 きっかけは、卒業後の進路を話している時だったはずだ。
 自分は当初、学部の4年が終わったら一般企業に就職する予定でいたが、卒論担当の教授に研究室入りを勧められて、院に進んで修士、そして博士課程を修めるつもりになっていた。
 貴美子もそうするはずだと、信じて疑っていなかった。
 だが彼女の答えは。
「就職?」
 薬品会社か化粧品会社の研究部門に就職するつもりだという。
「うん、今やってる研究は、卒論でひと区切りつくし。外の会社で違う研究をするのもいいかなあって」
「なんでだよ。教授を目指すって言ってたじゃないか」
「…………あったね、そんなことも」
「そんなこと?」
 貴美子らしくない物言いに、首を傾げる思いだった。
「年月経てば考えも変わるのよ。研究職じゃ何かあった時、収入面とか不安でしょ。普通に就職した方がまだ、貯金とかそれなりにできるだろうし」
 そんな、ぼかしたことを言うのも彼女らしくない。つい最近まで、卒業後も今の研究を続けられたらいいな、と言っていたはずだ。
 ──何か、あったのだろうか。
「貴美子、他に理由があるんじゃ」
「ないわよ、本当にそう思ったから選んだだけ」
 打てば響く、というよりも機先を制するような、素早すぎる返答。それ以上聞くつもりも答えるつもりもない、と言っているかのようだった。
 彼女とまともに話をしたのは、結果的に、その日が最後になった。以降、こちらからの電話にもメールにも、だんだんと折り返しては来なくなり、構内で会った時でも避けられることが増えていった。時にはあからさまに。……そうして、卒業式が近づくにつれて、顔を見ること自体が減っていき、別れの挨拶もきちんと交わすことなく、貴美子との付き合いは終わった。
 卒業後は実家に帰ったという、彼女の事情の真実を知るのは、修士課程に進んでしばらく経ってからのことだ。
「……パワハラ?」
「らしいぞ。それで今年は、女子が院に来なかったって」
 1年上の、ゼミの頃から知っている先輩は、そう語った。
「誰がそんなこと」
「それがなあ──どうやら、うちの教授だって」
 言葉が出なかった。ここの卒業生でもある担当教授は確か60過ぎ、温和な性格から、おじいちゃん先生として学生に親しまれている。その人が?
「院に行きたいって女子、何人かいたんだよ。定員を超えるくらい。それで、口を利いてやる代わりに自分の言うことを聞けって、こっそり言ってたらしくて……それで結局、全員が残るのをあきらめたって話」
 それはどちらかというとセクハラ、もしくはアカハラというやつではないだろうか。
 いや、呼び方はどうでもいい。肝心なのは、そのハラスメントの犠牲に、貴美子もなったらしいということだ。先輩は名前を出さなかったけど、院に今年行きたかった女子ならば該当するはず。最後の会話をした少し前までは間違いなく、彼女は院試を受けるつもりでいたのだから。
 ──ひどく、意気をそがれた気分になった。おそらく貴美子もこんな幻滅を味わったのだろう。……だが、教授の元に残るつもりでいた自分には、伝えなかった。同じ幻滅を味わわせないためか、男である自分には言いにくかったのか。あるいは両方かもしれない。
 いずれにせよそれ以降、教授の指導下での研究に身が入らなくなったのは、必然だった。
 それでも修士の間は努力した。就職を望む両親に無理を言った進学だったこともあり、中退の形にはしたくなかったのだ。できる限りバイトをして学費と生活費の何割かを負担しながら、表面上は淡々と研究を進めていった。
 そして2年後。論文が通ったのを機に、ひそかに受けていた教員採用試験の合格通知を盾にして、院を卒業した。
 教授を訴えることも考えないではなかったが、憤りを感じつつもそうはしなかった。実行に移せば、貴美子が語らずにいたことも表沙汰になると思ったからだ。彼女が何も言わずに去ることを選んだのなら、今さら引きずり出して嫌な思いをさせるのは望ましくないと考えた。
 元彼として、結果的に彼女の力になれなかったことを無念には思ったが──いや、だからこそ、傷に塩を塗り込むような真似はすべきではないのだ。
 だから彼女の携帯にも、聞いて知っていた実家にも、連絡を取ることは控えた。消息報告としての年賀状を除いては。

 ……それから、7年。
 一度も返ってくることのなかった、貴美子からの年賀状。それが今年初めて届いた。
 ようやく、あの頃の出来事を過去にすることができた、ということだろうか──自分とのことも含めて。
 それでいい、と思った。
 新しい人生で、新しい相手と、幸せになってくれるなら。
 貴美子の門出を見届けた今、自分もやっと、彼女について思い煩わない人生を歩んでいくことができる。
 憂いのない笑顔の写真をもう一度見つめ、心からそう確信した。

サークル情報

サークル名:さふらわー部屋
執筆者名:まつやちかこ
URL等:なし

一言アピール
個人サークルです。
現代日本or架空世界を舞台に、大学生~30歳前後の男女が主人公の、恋愛小説を中心に書いております。不器用ながらも誠実に歩む恋愛模様が特徴。
年齢1桁兄妹育児中の現状、オンライン活動が主。
『彼女との日々、そして消息』は、既刊と関係ない単発作品です。よろしければご感想をお聞かせください。

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