ジェミナイの山鳩

 雨が降っている。霧のようにしっとりと湿った、柔らかい雨だ。
 霧雨にけぶる緑の山を見上げていたヒューイが背負子しょいこを担いだ。中型の弓を肩に掛け、両腰に吊った鞘の金具を確かめてからふたたび顔を上げる。
 細く白いおもてに、表情はほとんどない。怒っているわけではなく、彼女はいつもこうだと承知していても、視線の平坦さにたじろがずにはいられなかった。
「行きましょうか、ジンクスさん」
「はい」
 ジンクスは頷き、先輩に倣って荷を担ぐ。蝋を塗った雨具は重いうえに蒸れる。着ているだけで消耗するが、体を冷やすわけにはいかない。得物の長槍は穂先に覆いをして、杖代わりに使うことにした。
 背負子に固定されているのは、ジンクスがどうにか抱えられるほどの大きな木箱である。中身は油紙で厳重に梱包された手紙や小包――つまり、両肩にのしかかる重みは、託された思いや言葉の重みに他ならない。背筋が伸びる。
 木箱の上に、野宿に必要な荷を詰めた袋と丸めた毛布を積んで出立の準備を終える。ひとつ頷いて歩き出したヒューイの華奢な背を追って、湿った土を踏んだ。このまま雨天が続けば、一帯が厄介な泥濘となるだろう。溜め息をこらえ、視界を覆う山を見上げた。
 大陸東部、南北にどっしりと横たわる大山脈を『背骨』とはよく言ったものである。
 地図上で仲良く横に並ぶレダ市、ジェミナイ市を隔てるのは、市と同名のジェミナイ山。険しく、魔物の頻発する峰を越えれば二日で隣の市に着くが、多くは南に五日ほど下ったシェスス山を越えて東西を行き来する。シェスス山は標高が低く、起伏も穏やかで馬車での往来が可能だから、ジェミナイ越えを企図するのはよほどの理由があるか、腕に自信があるか、腕に自信があると思い込んでいるかのどれかだ。
 レダ市からシェスス山を越え、ジェミナイ市までおよそ十日ないし十二日の道程だが、その距離、あるいはジェミナイという高山を隔ててなお、両市は古来より友好関係にあった。
 ジェミナイ市が魔物に襲われたと聞けば、レダ市の人々は手に手に武器を取り猛然と山を越えてジェミナイ市に駆けつけ、共に戦った。レダ市で大火事が起きたと聞けば、ジェミナイ市から急勾配を越え、救援物資が届けられた。
 両市の長の血は長い歴史の中で幾度か交わり、市民たちの中にもジェミナイからレダに嫁いできた者、レダからジェミナイに留学している者も珍しくない。『背骨』で分断されているがゆえに統一の動きこそなかったが、両市で共通の施策が取られたり、共同事業が行われたり、同じ行政機関が置かれたりと、交流は盛んで、関わりは深く篤い。
 だからこそ、手紙、物資、ときには人間そのものを素早く、安全に各地へと送り届ける手段は不可欠だった。交易局は、両市の共同事業により置かれた機関の一つである。
 危険は金になるから、古くは腕っ節に自信のある傭兵が運び屋を名乗り、ジェミナイ山を越えて行き来していた。しかし、荷の盗難や法外な料金請求など揉め事が絶えず、両市が迅速な交易を事業化したのである。
 とはいえ、山を越えるだけでも生半な体力ではなし得ないうえ、魔物がわんさと出る。帰らなかった者、重傷を負う者、心に傷を負って山道に近寄れなくなった者、数えればきりがない。交易局員、とりわけ実際に山に挑む『山鳩』は離職率が高く、いつも人手不足だった。
 それでも、木箱を背に敢然と山に挑む『山鳩』は子どもたちの憧れだ。時には高給に目が眩んだ傭兵や旅人、軍人崩れが流れてくることもある――ジンクスのように。
 行きましょう、と低く呟いたヒューイが先に立ってレダ市の門を抜け、山道への分岐路を進んだ。頭の後ろでまとめられた髪は冬枯れの森の色、雨の降りしきる灰色の世界によく似合う。
 雨足が強くないうちにと急いた様子の荷馬車を見送り、街道を逸れて山道へと向かう。見渡す限り、ほかに人影はない。
 ヒューイはつと足を止め、こちらを振り仰いだ。色眼鏡の奥の眼が『背骨』に移り、すぐジンクスに戻ってくる。変わらず表情は薄く、困難に挑む強い意志や決意、職務に対する真摯さが感じられるだけだった。過剰な気回しや、場つなぎの空疎なおしゃべりを好まないジンクスには、沈黙が心地よい。
「ジンクスさん、くどいようですがもう一度確認しておきましょう。あなたは今日が初めてですから」
「はい」
 薄暗い雨の日でも屋内でも、彼女は決して色眼鏡を外さない。どうしてだろうと場違いな疑問が頭をもたげた。
「私たちの任務はこの『背骨』を越え、荷をジェミナイ市に届けることです。『背骨』越えの経験があるのでしたらおわかりでしょうが、山中には」
「魔物が出ます。けっこうな大物も」
 ジンクスの答えに、先輩局員は顎を引いてかすかに頷いた。水滴が雨具の表面を転がり落ちてゆく。
「そうです。私たち『山鳩』――交易局員は命がけで、この荷を届けます。もしも道中、私が任務遂行に支障をきたしたなら、あなたは迷わず私をおいて、先に進んでください」
 木箱は、背負子に二つ積める大きさだ。それを一人一つずつ分担して運ぶのは、疲れを分散させるためであり、この重要な任務を確実に遂行するためでもある。『山鳩』が歩みを止めたときは、もう片方が荷を回収し、行程を消化する決まりだ。
 局員の生命より、任務の遂行を。非情を是とする者だけが、『山鳩』の制服を与えられる。局員たちは揃いの朽葉色の制服に覚悟を包み、得物を手に、木箱を背に、二人一組のつがいとなって、ジェミナイ山に分け入るのだ。
「ヒューイ先輩はもう何度も往復してるんでしょう。途中でだめになるのはきっとおれの方です」
 軽口には応じず、いいえ、と生真面目な様子でヒューイは首を振る。
「何が起きるか予測できないのが『背骨』です。困難な道のりですし、最近は魔物が増えていますから……。交易局員の心得というのがあるんですが、聞いたことは?」
「荷を届けるべし。想いを届けるべし。生き延びるべし」
 心得とは言うものの、交易局が触れ込んでいるわけではない。『山鳩』たちが自発的に唱える、自らを鼓舞するためのまじないだ。
「そうです。この荷には両市の人々の想いが込められています。それらは、何としてでも届けられるべき方に届けなくてはならない。そのために交易局が置かれ、私たちがいるのですから。……もちろん、むざむざと任務を放棄するつもりも、戦線離脱するつもりもありません。ジンクスさん、あなたに『山鳩』が何たるかを教えるのが私の役目ですから」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
 こうして互いに頭を下げるのも何度目か。顔を上げしなに目が合って、どちらからともなく淡く笑む。
「そういえば、ジンクスさんにひとつ謝っておきたいのですが」
「何でしょう」
 居ずまいを正したヒューイにつられて、ジンクスも背筋を伸ばす。これ、と彼女は雨具に包まれた腕を中空に差し伸べた。
「私、ひどい雨女で。どうしてか、ジェミナイを越えるときに晴れていたことがありません。だから今日の雨も私のせいなんです」
「そんな馬鹿な。だって、ヒューイ先輩は『山鳩』になって五年めだって、局長が言ってましたよ。五年間ずっと雨が降るなんてありえないでしょう、確率的に」
 ヒューイは口の端を曲げた。それでジンクスは、手練れの『山鳩』である彼女がまったくの新人である自分と組まされた真の理由に思い至ったのだった。荒天のジェミナイ越えを歓迎する者は多くあるまい。
「じゃあ何ですか、もしかして、番いが変わるのはしょっちゅう?」
「ええ。最近はこうして、新人さんの研修につくことが多いです。一度二度なら雨が続いても偶然だと言い訳できますから」
 彼女はけろりとしている。色眼鏡の奥の眼は落ち着き払っていて、怒りも悲しみも見出せなかった。
「別に、構いませんが。雨だろうと嵐だろうと。……おれはほら、こんなでしょう。陽射しがないほうが楽なんですよ」
 下手な慰めが逆効果であると痛いほどに理解しつつも、そう言わずにはいられなかった。歩きだそうとしていたヒューイが動きを止める。その表情は変わらない。
 けれども、彼女はジンクスの真っ白な髪と膚を、血に浸したかのごとき赤い眼を見た。真っ直ぐに、目を逸らさずに、見ていた。
 やがてそのくちびるが弧を描き、そうですか、と動いた。
 彼女の笑みは、ジンクスの心臓を撫で上げるよう。ふと夜空を見上げたとき、満天の星の煌めきに息が詰まる夜、鋼どうしがぶつかって飛び散る火花に目を奪われる一瞬に似ている。
「ジェミナイへようこそ、ジンクスさん」
 ヒューイに従い、ジンクスは『背骨』、ジェミナイ山に踏み込む。
 雨はまだ、まとわりつくように濃い。

サークル情報

サークル名:灰青
執筆者名:凪野基
URL(Twitter):@bg_nagino

一言アピール
男装の半精霊と記憶喪失の騎士(仮)の長編ファンタジー「インフィニティ」(完結済)の独立番外編「ジェミナイの山鳩」冒頭部分を編集したものです。番外編集「トリニティ」に収載しています。アンソロ1作め「星見先生とぶどうパン」ともども、作風や話の運びなどにピピピと来たらwebカタログをご覧ください。

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