AnotherAspect ~霧の空色~
本当は画家になりたかったというのに、軍人になれという父親と大喧嘩の末、反発するように警察官になったニール――ニール・メイスンは、とはいえ趣味として絵を描くことまで放棄したつもりは毛頭なかった。
画材屋巡りはニールの休暇における楽しみのひとつだ。
訪れる度に新商品が入荷されているというような類の店でもないし、現に前回訪れた時と寸分変わらぬ品揃えではあったのだが、あまり扱ったことのない画材を手にしてみたり、それぞれ紙質の違う画帳を眺めているうちに、まだ見ぬ名画が描けそうな気がしてくる。
実際にはそんな気がするだけで、実際に描いた絵を見てがっかりするまでがワンセットだったりするのだが、そんな風に頭の中のカンヴァスに想像の絵を描きながら店内を物色して回るのはとても刺激的なのだ。
その場所に、『彼』が佇んでいた。
嗅ぎ慣れたテレピン油の匂いが漂う店内の、油絵の具の陳列棚の前にいつもの『彼』がいたのだ。
すらりとした長身。物憂げな表情で絵の具のチューブを眺めている整った顔立ちは、それだけで一幅の絵画のように感じられ、彼の顔の対称性を唯一崩している左頬のホクロも、むしろ彼の美しさを際立たせる為に女神ミスティアが羽根ペンで記した句点ではないかとすら思えてくる。
ニールは、決まって青い絵の具ばかりを買うその青年を、密かに『青の人』と呼んでいたのだ。
だが、毎度お決まりの青絵の具を籠に入れて精算に向かおうとしていた時、彼は服の裾を引っ掛けて、引き出しごと絵の具を勢い良く床にばら撒いてしまったのだ。
「あっ……」
思いの外間の抜けた声とは裏腹に、盛大な音と共に散らばる絵の具を慌てて拾おうとした彼は、屈んだ拍子に隣の台に置いてあった精油入りの瓶をなぎ倒してしまいそうになっていた。
その直前で、ニールは青年の肘に手を添えて瓶を守り、今にも踏み潰しそうになっていたチューブ入りの絵の具を素早く拾い上げ、店内崩壊大連鎖を未然に防ぐことに成功したのであった。
「手伝いますよ」
「あ、ありがとうございます」
もしかしなくてもこの青年、実はとてもどんくさいのかもしれない。
しばし二人で無言のまま床に散らばった絵の具を拾い集めていると、おもむろに青年が口を開いた。
「空は、何色だと思いますか」
「えっ?」
青年の唐突な問いに戸惑いが隠せない。空は万物の根源たる魄霧の色、白に決まっているだろうに。
ああでも、と、青年の方を見る。真っ白な空を広大なカンヴァスになぞらえるならば、どんな色を塗ってみたいかと青年が問うているのだとニールは思ったのだ。
「そうだなぁ、空の色か」
拾い集めた色とりどりの絵の具を棚に並べなおしながら想像してみる。
赤は何だか血の色を連想させて好みではない。黄色……悪くは無いが眼に痛そうだ。緑だったら木々の葉と混ざって綺麗かもしれない。
そう答えようと顔を上げた時、青年の双眸が目にとまった。アメジストを嵌めこんだような綺麗な……
「紫色、かな」
思わず口をついて出た言葉にニール自身が驚いた。
「そうですか。俺には青い空が見えるんです」
「青……青い空か」
この青年が青い絵の具ばかりを買っているのは、もしかしたら空を青く塗りつぶす為なのではと思えてきた。
「すみません唐突にこんな話をして」
「いや、良い話を聞かせてもらった。君が見ている青い空というものを、俺も見てみたくなったよ」
「そうですね、俺もこの目でいつか必ず」
青年は一礼すると、落とした時に潰れてしまった絵の具のチューブを籠に入れ、そのまま精算カウンターの方へと去って行った。
家に帰ってから、ニールは手持ちの画帳に窓から見える風景をざっと描き、そこに青の絵の具で色を塗ってみた。青い空に覆われた街の絵は、見ているとぞわぞわと妙に落ち着かない気持ちになったので、ページを破いて捨ててしまった。
次に会った時にその話をしてみようと思っていたが、あの時以来、画材屋に『青の人』が姿を現すことは無かった。
サークル名:手羽先隔離病棟(URL)
執筆者名:サンレイン
一言アピール
魄霧に覆われた架空の世界に生きる人々のお話を綴っております。