桃源郷の仙人


 扉を叩く者がいた。
「御免下さい、御免下さい。」
 二人のきょうだいが、骨の音を頼りにやってきたのだ。また少しだけ扉を開けようとして―――すわ、彼は驚いて扉を全て開け放った。
「ここに、骨の楽器を持つ印度人がいらっしゃると聞きました。貴方がそうですか。」
「………―――?」
「?」
 彼は何がしかを言いかけたが、きょうだいには何のことか分からなかった。彼はじろじろと二人を見て、尋ねた。
「お前達、きょうだいか。」
「全て故郷に棄てて参りました。」
「この先にいらっしゃる仙人様は、私達のような者の為に楽園を整えておられると、旅のふうふから聞いたのです。」
「………。お前達、名は。」
 二人は首を振った。だが彼から見れば、男の方は石工のようであったし、女の方は弓使いのようであった。彼はじっと二人をもう一度見つめ、小屋に入るように言った。
「長旅で疲れているでしょう。あつものを用意しますので、召し上がって行ってください。」
 彼は早鐘のように打つ胸を手で押さえながら、竈の残り火に息を吹きかけた。
「ねえ、先生。この骨は何?」
「こら、そう人様の家のものをじろじろと見るんじゃない。」
 女の方は年若く、まだ知らない事も多いようだった。男の方は壮年とまでは行かないが、落ち着いている。ただそれは早熟ではなく、年相応に落ち着いていると言っていいだろう。女はその骨が気になるようで、触れないように、色々な方向から見つめて観察している。
「…持って行きなさい。」
「え、なに?」
「その骨は、鳴り物の楽器です。叩くと顎骨と歯が振動して鳴る。貴方に差し上げます。」
「わあ、嬉しい! ありがとう!」
「こら止めなさい!」
 女は無遠慮に、無邪気にその楽器を手にとり、早速打ち鳴らした。
 カーン、カーン。
 カーン、カーン、カーン…。
 音程も何もない、滅茶苦茶に振り回しているだけのその音に、彼は聞き入って、あつものを温める鍋が噴きこぼれる寸前まで、その様子を見ていた。慌てて鍋を火から離し、椀に入れて二人に出した。女は席に座っても楽器を手放さず、上機嫌に片手で鳴らしながら、無作法に椀を啜った。男は頭を抱えて溜息を吐きつつも、上手だね、と、頭を撫でる。
「世が世なら、旅芸人になりたかったのだもの。」
「そう言う事を、お言いでないよ。」
 それを聞いて、彼は言った。
「私がお前達を、楽園の仙人の所まで導きましょう。」
「良いのですか。」
 男は豆鉄砲を喰らったかのように目を丸くした。
「構いません。私が貴女方を連れていかないと、ともすると仙人はお前達を間違えて殺してしまうかもしれません。」
「それはまた、どうして。」
「貴方方が、唯の男女に見えてしまうからです。何の憂いもない男女が、蜜月の旅行に、仙人の楽園を訪れたと勘違いしてしまうのです。」
「何か、供物が要ったのでしょうか。」
「要りません。強いて言うなら、その者が双子であることが条件です。」
「…???」
 二人は何のことか分からないようで、顔を見合わせた。彼はそれ以上は何も言わず、あつものを勧めた。

 彼は二人を伴って、小屋を出た。厳重に鍵をかける事もせず、笠を一つだけ被り、外套すら纏わなかった。薄くなった太陽の光が彼を照らすと、その瞳は兎のように赤かった。
「ねえ、あの人は龍なの? 瞳が赤いわ。」
「そうだとして、何になる? この方が何者であろうと、私達がどこへ行こうと、今更どうでも良い事だろう?」
「それもそうだった。」
 カンカン、と、女は短く楽器を鳴らした。ふと彼が足を止める。無言で女に手を差し出すので、女は骨の楽器を返した。彼は何も言わず、カーァン、カーァン、と、殊更大きく、長く鳴らした。何かに呼びかけているようだ。
「………。」
「………。」
「………。」
 カーァン、カーァン、カー………ァァン―――。
 山の間を、一匹の鯉が滝を登るように、音が昇って行く。応えるものはない。彼は何かをじっとりと考えた後、女に楽器を返し、歩を速めた。男は女の手をしっかりと握り、いきり立つ死の渓谷に彼女を浚われないようにしている。それを視線の陰から見やり、彼は益々、あの方にこの二人を合わせようと、逸った。
 沈みゆく太陽を追いかけ、地平線の向こうへ歩く。いつの間にか、山合いの雲に色がついてきていた。険しい岩肌を、二人はしっかりと手を繋いだまま歩く。
「ここです。」
 漸く、彼は歩みを止めた。ずっと狭い登り道だったが、目の前には、緩やかな坂が始まっている。黄金色に実った田園、逞しい大樹、四季折々の花が咲き乱れる小道のある、見事な里が目の前に広がっている。そこにある道は、全て黄金の太陽が姿を変えたと思しい、異国情緒溢れる宮殿に繋がっている。
「わあ…わあ…! ここが、楽園…! ここが! すごいわ、きれい!」
「ばか、良く見なさい!」
 走りだそうとする女の手を引きとめ、男が抱きすくめる。坂と足元の間に、人が漸く一人通れそうな、ぼろぼろの橋がある。その橋は剣山のような突き出した岩々の上に合って、踏み外したらしい男女が幾重にも折り重なって死んでいた。
「案ずることはありません。私が行けば、貴方方はそこへは入らない。」
 来なさい、と、彼は橋を踏み越え、青く光る坂に立っている。男はそっと女の背中を支えて、前を歩かせた。
「貴方も一緒に。」
 女が振り向こうとすると、ビシッと激しい音がして、橋が唸った。
「ほら、駄目だよ。先にお行き、わたしはすぐ後に行くから。」
「う、うん…。」
 恐々と手を離すと、女は一歩、二歩、三歩と歩き、対岸に渡った。それを見届け、男も後を追いかける。ふわりと風が吹くと、どこからか鳥の羽が飛んできた。
「おめでとう、貴方方は招かれました。安心して、あの宮殿に向かいなさい。そこに貴方方を解放し、新しく支配する諸王の王がおられます。その方は貴方方の婚姻を祝福し、式を執り行うでしょう。この坂を下りた所の湖に、鳩使いや漁師達がいるから、まずはその人に会いに行きなさい。」
 彼はそう言って、宮殿を指差した。二人は再び手を繋ぎ、走りだした。すると、何処からか歌が聞こえてきた。
 それは恋の歌だった。神に祝福された神の愛し子達が、命を慈しみ、自然を愛おしみ、大いなる愛の抱擁の中で、お互いを愛でる為の詩作に励む歌だった。歌は、愛を祝福し、せいなるものを祝福し、それに伴う全ての行いを赦していた。空には白い翼と長い髪、逞しい胸を持った楽師が舞い、地上にさざめく昆虫や獣がそれに応える。
 そこは正しく、言い伝えに在る通りの武陵桃源であった。

 幸せになった恋人達を見送り、彼は更に山深くに入って行った。
「お久しぶりです。」
 彼がそう声をかけたのは、獣と糞尿の悪臭が立ち込める洞窟だった。その洞窟からは二本の川が流れていて、一つの川は良い薫りがする清涼な水で、もう一つの川は酷い悪臭が立ち込め、水も茶色く濁っていた。彼はそれらに怯むことなく、洞窟の中に入って行った。
 洞窟の中は腐乱した肉の張り付いた骨が転がり、それを食べたらしい鼠が死んでいた。凡そ、人はそこに住めるものではない。
 棲むとしたら、それは獣だけだ。
「お答えが無かったので、さいごの拝謁に参りました。」
 そう言うと、『それ』は唸って答えた。暗闇に慣れてきた目が、毛むくじゃらの猿のような生き物が倒れているのを見つける。
「貴方様に会おうと、貴方方のような恋人たちが、多くあの小屋に参りました。彼等の存在は、貴方様を慰めたでしょうか。貴方様の嘆きは、少しでも癒されたでしょうか。」
 猿は唸った。
「この地にまで流れ着きましたが、あの地のあの演説以降、貴方様に神が言葉を下さる事は無かった。愛しの君を胸に抱いて、それらを奪った不遜の輩を赦す時、貴方様を救う善神はいなかった。愛しの君を思い描いて、奪ったように奪い返した時、貴方様を満たす悪神はいなかった。人である事すら捨て、貴方が護ろうとした愛を、終ぞ理解する者はなく、今貴方はこうして死のうとしている。双子の男として産まれていたこと、それでいながら祝福されたこと、何もかもを忘れては、獣の道に落ちても、それでも貴方は幸せにはなれなかった。貴方の口から聞こえるのは、この世を呪う獣の雄叫び以外の何ものでもない。こうして死に瀕しているのに、その口からは生への執着が無い。あの方は間違いなく天の宮殿にいましているのに、貴方の心は肉に捕われて解放されない。……こんな結末を迎えて、貴方様は幸せな生涯でしたか。泡沫の団欒と幸福を得て尚、貴方様の生は惨めではなかったでしょうか。―――双子に生まれついた者が、死ですら別つ事のない二人を認め合った者が、その片割れを遺して逝く時、どうすればその者が幸福に生きるのか、愛を見出すのか、その問いかけに、私はあの小屋を設け、貴方はこの清流とその寝床にしている麻生を使った。それで、良い答えは見いだせたのでしょうか。―――桃源郷の幻を見た彼等は少なくとも、幸せそうな死に顔でした。この世の生を捨て、死に方を選んだ彼等は、最後に神に受け入れられたと喜んで、谷底に堕ちて行きました。けれど私は、その『神』が善神なのか悪神なのか分かりません。だって―――貴方様は救われていないから。唯一である筈の神に、貴方様だけが、救われていないから。」
 伸ばされた猿の腕を、彼はそっと拾い上げ、だにや蚤が飛び跳ねるその掌を愛おしげに頬に当てる。指先からは、この厭世者の激しい嵐のような人生が伝わってくる。その傍らにいつもいた彼、そしてある時現れ、心を癒し、人生に最も彩りを与えた者、その者への深い愛情―――。
 きっとその人は、どこまでも崇高に、畜生の生を選んだこの人を愛していたし、愛についてもずっとよく知っていたし、実践していたのだ。あの人こそは神の使い。どこぞでくたばったという職人とは違い、自分達を確かに導いた聖なる人。それでいながら、悪魔との戦いに―――否、戦わずに死んだ、罪深い人。
 ―――愛し合う事は罪ではない。愛し合う事を罪と定める事は傲慢である。自分の望む社会の為に、愛の秩序を乱してはならぬ。人間が人間を愛することを否定してはならぬ。神の前には男も女も、子供も年寄も皆平等に愛されるべき人間である。人間が人間を愛することは神の喜びである。―――
 全能の神よ、どうかこの獣に愛を授け給うた神よ、我が呪詛を受け入れ給え。
 汝が与え、汝が奪い給うたこの火が消えた時、その懐に控えた彼の妻を遣わし給え。

 その時こそ、我等は主従の限りを越え、汝が赦し給わざる大罪によりて、汝を奉らん。


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サークル名:いくそす。(URL
執筆者名:PAULA0125

一言アピール
令和のテキレボはどうなるのかな? 想像で胸が膨らみます。いくそす。は、テーマについて少し考えてみました。Imgagineという単語は、元々はラテン語の「imago」から来ています。「imago」とは、像、形という意味です。今回は「神の像」「神さま像の夢想」ということで、短編集収録作品の初稿版を投稿しました。


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