刺繍


 彼が誉も高き法衣の刺繍師に任じられたのは、彼が国一番の職人であると同時に、敬虔な信徒であったからだ。朝晩と祈りを欠かさず、仕事場には必ず聖典を携え、清貧と実直を旨として暮らしていた。彼はその禁欲的な生活ゆえに、女を知らなかった。
「無垢なるものしか法衣には触れられぬのだ」
 大寺院に召喚された際、法衣製作を監督する事務官が彼にそう言った。
「たとえば、この白鹿の毛皮。これは未通の雄鹿で汚れを知らぬ。清らかな鹿の魂は法衣に宿り、法王の高潔と神の権威を示すであろう」
 白鹿の毛皮は、法衣の襟飾りに使われていた。彼はその毛皮に触れ、感嘆した。肉体から剥がされていながら、生きているかのような滑らかさと、瑞々しさを宿していた。このような美しい生き物と共に法衣を作り出せることを、彼は誇りに思った。
 法衣は、纏えば裾を長々と引きずるほど大きな衣装だ。これに神の無限の恩寵を意味する唐草模様を刺繍するのが伝統であった。真っ赤な天鵞絨は最高級の絹で織り上げられ、刺繍する糸は金糸と銀糸、法衣を彩るビーズは紅玉に緑玉、黄玉、真珠。樫の木の作業台に、煌びやかな糸や宝石たちが整然と並べられていた。そして彼の手で聖なる衣装に生まれ変わる瞬間を待っていた。
 法衣は新たな法王の就任を寿ぐ式典のために誂えられるものだ。式典は一カ月後。彼は寺院に泊まり込み、仕事にかかった。
 唐草模様は蜘蛛の巣の網目のごとく精緻を極め、それを法衣にくまなく刺繍するには、並外れた技巧と集中を要した。彼は寝食を忘れて仕事に没頭した。瞬きを忘れた目は兎の目のように真っ赤に充血し、動かし続けた手は腫れて、折れて使い捨てた針は千本を超えた。その鬼気迫る姿は、まるで悪魔に取りつかれたようだったと、後に彼の弟子は語った。
「少しはお休みになりませんと」
 弟子が言った。
「身体を壊しては、もともこもありません」
「神に近づきたいのだ」
 彼は一瞬も手を休めることなく答えた。
「刺繍は私を神へと近づける」
 普段から彼は言葉が乏しかった。弟子は彼の言葉が意味することを理解できず、ただ彼を見守ることしかできなかった。
 そうして時が経ち、式典の日が明日へと迫った。
 その夜は見事な満月であった。青ざめた月光に照らされて、天鵞絨に刺繍された唐草模様が、ぼうっと夢のように浮き上がっている。絡まりあう金糸銀糸は緻密かつ優美な曲線を描き、散らされた宝石たちは宇宙の星々を想わせた。白鹿の毛皮は月光を吸い込み、あわあわとした輝きを帯びていた。
 ひと月の間、彼の手を借りた神の無限の愛が、完全な姿を現そうとしている。彼は一時の間手を止めて、法衣に見入った。針を持つ手はすでに感覚を失い、倦怠感が彼の身にのしかかっている。
 刺繍は私を神へと近付ける。法衣に刺したひと針ひと針が、彼の祈りであり、神への思慕だった。彼は刺繍が完成へと近づくほどに、自身が神へと近づいているのを感じていた。そして針と糸を越えて、より神の許へと昇りつめたいと欲した。
 ふいに、奇妙な気持ちが彼の中で起こった。
 この糸や宝石や白鹿のように、自分自身を法衣に縫い付けることはできないだろうか。この肉体を糸や宝石に変えて、法衣に捧げることはできないだろうか。それができたら、なんと素晴らしく、幸福なことだろう……。
 すると、たちまち彼の身に不思議なことが起こった。
 彼の両手が月光に包まれて、ぼうっと光を帯びた。そして彼の意志とは無関係に動き出し、針をとった。彼ははっと驚きながらも、それを黙って見ていた。
 輝く手は彼の髪の毛を引き抜き、針に通して法衣に縫い付けた。髪が尽きれば腕や胸の毛を、それが尽きたらさらに下の毛を。彼の体毛は唐草模様に縫い込まれていった。
 光る腕は針と鋏を操り、彼の体を次々に法衣へと縫い付けた。引き出された神経や血管で裾を縁取り、爪や歯、骨は真珠や貝殻のように飾り付けられた。皮膚は縫い合わされて裏地となり、あふれ出した血は生地に浸み込んでより深い赤へと変貌させた。眼球は碧玉となって襟元を飾り、切り開かれた陰茎と睾丸の皮は、襟首にあてがわれて毛皮の一部となった。彼の肉体と魂は、法衣の隅々にまでいき渡っていった。
 彼は法衣に縫い付けられながら、恍惚としていた。飾り付けられた眼球から涙があふれ出し、それすらも法衣に吸い込まれていった。己の腕に宿った神の存在と、白鹿の息遣いとぬくもりを感じた。
 そうして夜は更けていった。仕事部屋には静けさだけが満ちていた。
 
 翌朝、弟子が仕事部屋に入ると、出来上がった法衣が朝日を浴びて輝いていた。
 澄んだ光の中に浮かび上がる法衣は、まさに聖人がまとうにふさわしい気品と美しさを体現していた。真紅の大海のように波打つ天鵞絨に、奇跡の技としか言いようのない唐草模様の緻密さ、一面に散りばめられた宝石たちは七色の輝きを帯び、春の花々のような馥郁たる香りさえ漂わせていた。襟元にあしらわれた毛皮の白さが、目に染み入るようだった。
 法衣の美しさに、弟子は一瞬我を忘れた。そこには師である刺繍師の姿がなかったが、彼は法衣を抱えて急ぎ法王のもとへ向かった。
 法衣は新たな法王が控える衣裳部屋へと運ばれた。お付きの者たちに法衣を着せかけられた時、法王は人ひとりを背負っているような重みを感じた。分厚い生地の奥深くに、人肌のようなぬくもりすら感じる。しかし、その肌触りはため息が出るほど柔らかく、誰かに強く抱きしめられているような心地がした。彼は重みを法王としての責任と受け取り、かたく襟ひもを結んだ。鹿皮の襟飾りが、その首元を包んだ。
 万雷の拍手に迎えられて、法王を乗せた輿は寺院から大通りへと進み出た。薔薇の花びらが宙を舞い、大通りに集まった無数の信徒らは、聖なる衣を纏う法王の姿を讃えた。その燦然と輝く姿は、神の奇跡として後の世にまで語り継がれたという。
 信徒らの群を粛然と眺める法王とともに、刺繍師はその光景を見下ろしていた。傍らには白鹿が寄り添い、糸のように絡まり合いながら、かたく結びついている。彼はもはや孤独ではなかった。神と聖なる鹿と彼とは、ひとつだった。
 歓声と祝福はいつまでも絶えなかった。彼は幸福に包まれていた。


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サークル名:ヰスタリア会(URL
執筆者名:矢口水晶

一言アピール

関西圏の某大学文芸部OGで結成された文芸サークル『ヰスタリア会』です。大阪、京都の同人誌即売会を中心に、創作同人誌『由-yukari-』を頒布しています。
今回はテキレボ委託初参加です。私たちの表現が誰かに届きますよう、関西から祈っています!


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