ランチボックスガール


 中本さんのお弁当箱の中身を見た人は、誰もいなかった。

 中本さんは、昼休みが始まる12時になるとすぐ、机の下から大きな保冷バッグを取り出す。腕時計やパソコンの時計があるとしても特にチャイムが鳴るわけでもないのに、はかったようにぴったり12時。毎日そうだ。
 保冷バッグは赤いギンガムチェックの柄だ。ぱつんぱつんに膨らんだそこから、お弁当箱を取り出す。ファンシーな袋に似合わない、紺色の真四角のお弁当箱。
 取り出すと同時に、鋭い眼差しでさっと周囲を伺う。そして、右手側に保冷バッグとお茶のペットボトル、左手側には書類を入れるプラスチックのケースなどでバリケードを作る。さらにお弁当箱のフタを箱に対してちょうど九十度になるように立て、その上に突っ伏すような姿勢になって、食べる。
 中本さんの机には、いつも大量の書類が載っている。それの影になって、少なくとも斜め向かいの私の席からは、いいとこ彼女の頭ぐらいしか見えない。だから、こちら側からのことだけを考えれば、別にバリケードは作る必要もないんじゃないかと思うんだけれど。食べ始めると長い髪がすだれのように隙間を覆い、中本さんのお弁当箱の中は、どの角度からも、もう見えない。
 食べ終えると保冷バッグにお弁当箱を仕舞う。お弁当箱とバッグは明らかに大きさが合っておらず、ぐっぐっと押し込むかたちになる。保冷バッグを机の下に戻すと、今度はどこからか菓子パンを取り出す。日によって甘いパンであったり、サンドイッチやウインナーパンだったりする。それを食べ終えると、あとは昼休みが終わるまでずっとお菓子を食べる。お菓子は日によってチョコパイや饅頭であったり、ポテトチップスやじゃがりこ、うす焼きせんべい、その他のスナック菓子であったりした。そして、決まって最後にミックスナッツの小袋をひとつ食べ終えると、ちょうど13時になる。歯みがきは、たぶんしていない。

 会社には社食があり、近くにお店も結構あるから、自席で昼食を摂る人は少ない。二週に一度か二度回ってくる電話番の日ぐらいだ。私も、電話番がなければ中本さんのお弁当のことには気付かなかったかもしれない。
 中本さんは電話番に当たらない。中本さんは毎日自分の席で食べるけれど、食べているから、絶対に電話は取らない。

 数人しかいない経理課の女子社員には、苗字に「本」のつく人が多い。本という字が「ぽん」と読めることから、「○○ぽん」と呼び合う。誰かが冗談で言っていたら定着してしまった。私は加賀本かがもとだから、かがぽん。先輩の桐本さんは、きりぽん。本谷もとやさんにいたってはひっくり返して「たにぽん」と呼ばれ、本のつかない西野さんまで、なぜかにしぽんと呼ばれている。
 でも、中本さんだけはずっと中本さんだ。わざと仲間外れにしているわけではない。歓送迎会の席で、なかぽんって呼んでもいい、と訊いた先輩に、嫌です、と真顔で、きっぱりと言ったからだ。

 「ね、あのお弁当なに入ってると思う?」

 言ったのはきりぽん先輩だった。吹けば飛びそうな社食のテーブルを囲んでいたとき。社食のラーメンはつゆに入った麺と皿に入った具が別々に供され、スープは薄くぬるい。
 一年後輩のすぎぽん(お察しのとおり杉本さんである)が真剣な面持ちで、ほんと謎ですよね、と言った。ぬるいラーメンをすすっていた手が止まる。私がいままでひそかに不思議に思っていたことを、皆、同じように気にしていたようだった。

 「だよね、なんで隠すんだろ、あんなにして」
 「お米だけだから、とか?」
 「まさか、戦時中じゃあるまいし」
 「戦時中じゃお米も無理でしょ」
 「麦飯?」
 「あんなふうにお弁当隠して食べる人、昭和のドラマとかでしか見たことないんだけど」
 「そんなドラマ見たことないですよ」
 「わるかったわね昭和生まれで」

 その日から、中本さんのお弁当箱の中身を想像するのが、私たちの日課になった。

 「逆にものすごく豪華とか?ビーフステーキかキャビア丼」
 「だったら別に隠すことなくないですか?」
 「ギョーザとかレバニラとか臭い系だからじゃないですか?」
 「でも、同じ部屋にいても無臭だよ」
 「確かに」
 「あ、もしかして、あれ、虫系、イナゴの佃煮とか」
 「えー、でも地域によっちゃ普通に食べるもんだし別に」
 「イナゴだけなんですよ、全部イナゴ」
 「え、ちょ、まってやだそれ」
 「やめてよ気持ち悪い」
 「ハチノコとか」
 「やめてってばー!」
 「実は中本さんはアンドロイドで、オイル飲んでる」
 「ありえそうでウケる!」
 「でもパンとかも食べてるじゃん」
 「それは嗜好品なんじゃないですか?」

 同時に電話番の人が、どうにかして中本さんのお弁当箱の中身を見ることができないかチャレンジすることになった。
 しかし、当番が二周しても成功者は現れなかった。中本さんのバリケードは鉄壁だった。後ろや横から覗き込もうとするなどのスタンダードな手はもちろん、さりげなく話しかける、わざと音を立ててびっくりさせる、電話をわざと放置して鳴りっぱなしにするなど、さまざまな作戦が、保冷バッグとペットボトルと書類と中本さんの身体で築かれた高い壁を越えられずに、玉砕した。
 
 想像は日に日に大きくなっていった。全部ヨーグルト、全部ようかん、という一品スイーツ説から、大葉のみ、ネギのみという薬味説、あの中にもパンが入っているというダブり説、果ては、中本さんは実はパンダで笹を食べているとか、実はスパイであの中には通信機が入っているとか、魔界に通じているという説まで生まれた。でも、誰も真相に辿り着くことはできなかった。

 「でも、よく考えたら一時間食べ続けるって結構きついよねえ」
 「テレビの大食い見ててもさ、45分勝負とかだもんね」
 「え、もしかして大食い選手で、日々練習してるとか?」
 「えっウケる」
 「でもありえるそれ」
 「次の試合に出るメニュー、研究して食べてるんじゃない?」

 「っていうか普通になに入ってるかって訊けばいいんじゃないですか?」

 真っ赤な唇にエビピラフを運ぶ手を止めて、言ったのは凛々子だった。凛々子は同期で、人事課で採用担当をやっている。珍しく社食が混んでおり、私たちのテーブルにひとつ空いた席に彼女は座っていた。凛々子の口紅は、どんな脂っこいものを食べても剥げない。
 一瞬、沈黙が降りた。まあ、ねえ、うん、だって、ねえ。それぞれに言って、皆、顔を見合わせたり、からあげやお米を口に運んだりした。

 「あんたの部署のヤバイ人のことやろ?」

 凛々子は私をまっすぐ見た。大阪出身の彼女は、大学から東京に出てきてそのまま就職した今も関西弁のままだ。

 「どんだけヤバイか知らんけど、人のことばっか言うて、気ぃ悪いわ」

 そう言って凛々子はさっとピラフの最後の一口を食べ席を立った。え、なにあの子、かんじわる、と、誰かが言った。

 私たちの仕事は単調だ。書類を作って印刷し、ハンコを押して右から左へ流すだけで、それでも一日は、一週間は、一か月は、それなりの速度で過ぎる。夏が過ぎ、秋になり、冬が来た。きりぽん先輩は産休に入り、にしぽんはカフェ経営という夢を追って会社を辞めた。それに伴って席替えがあり、私は、中本さんの隣の席になった。
 中本さんはずっと変わらない。請求書の金額を間違え、納品書の品目を間違え、課長に注意されても、部長に怒られても、無表情のままだ。毎日、12時ちょうどに食べ始め、13時に食べ終える。
 いつしか、誰も彼女のお弁当の中身を想像することをしなくなった。

 それは年度末の繁忙期に入る前の、嵐の前の静けさのような二月だった。
 請求書の印刷を終え一息ついたとき、隣からごそりと音がした。腕時計を見る。11時55分。音のしたほうを見ると、中本さんが机の下から保冷バッグを取り出したところだった。保冷バッグはだいぶ傷んで、端がほつれている。
 今度はパソコンの画面を見た。やはり、11時55分。静かに56分になった。中本さんは、保冷バッグの中からお弁当箱を引っ張り出した。そのころになると、室内の空気が、ひそやかにざわつくのがわかった。

 おいおい、まだ昼じゃないよ、と言ったのは課長だった。きつく咎めるような口調ではなく、おどろいた拍子のような、なんなら少し笑いを含んだような声だった。
 中本さんは、はっとしたように顔を上げた。その目が大きく見開かれた。細い縁の眼鏡の下の、化粧気のない目。唇がわなわなと震え、ヒイ、と木枯らしのような音が漏れた。
 こわもてだが人のいい課長は、中本さんの反応を見て、注意されて動揺したのだと思ったのだろう。まあまあ、と言って彼女の席に近づき、いつもお弁当だよね、なに入ってるの、と言って、既に築かれていたバリケードのうち一本のペットボトルを、ひょいと持ち上げようとした。

 「ギィャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 いつも電話でお客さんに、聞き取れないと苦情を言われている彼女の姿から想像もつかない、窓ガラスが割れるのではないかと思うほどの金切り声で中本さんは叫んだ。そして、勢いよく立ち上がる。その拍子にデスクライトに頭をぶつけ、ライトのほうがガコンと悲鳴を上げてあらぬ方向に曲がる。その勢いで、机の上の書類が雪崩れた。
 データで書類を作り、印刷したものを取引先や他部署へ渡すだけの私たちの仕事は、どう考えてもこんなにたくさんの書類を必要としない。しかし、誰も彼女にそう言う人はいなかった。
 紙の山が崩れるのに押されたお弁当箱が机から落ちかけ、同時に、それをキャッチしようとしたらしい中本さんの腕にぶつかった。

 中本さんのお弁当が、その中身が、宙に舞った。

 卵焼き、にんじんのグラッセ、プチトマト、ピーマンかキュウリらしき緑のもの。ごぼうのきんぴら、粉ふき芋、高野豆腐の煮たの、しいたけ。
 それは、あまりにも普通の、平凡なお弁当の中身だった。すべてが順番に床に落ち、そして、中本さんの机から流れ落ちた大量の紙が、そこへ降り積もった。なぜか、パンとお菓子も飛んだ。チーズ蒸しパンが課長の額を直撃し、サンドイッチがぐしゃりと音を立てて決裁済書類の箱へ飛び込んだ。いつも最後に開けるミックスナッツの小袋が今日はもう開いており、そこからカシューナッツやピスタチオやビッグコーンが、ばららばらばららら、と音を立てて落下した。ンイイイイイイ、と声にならない声を上げながら、中本さんは椅子を蹴っ飛ばし、それらの上に、ビタンと覆いかぶさるようにして這いつくばった。椅子は背後のキャビネットにずぐんと音を立ててぶつかり、キャビネットは、へこんだ。

 オフィスはしんと静まり返った。もうとっくに12時は回っているはずだったが、誰も動かず、誰も、何も言わなかった。扇状に広がった長い髪の間からごりりと音がして、中本さんが床の上に倒れた姿勢のまま、顔の下に落ちたナッツ、おそらくビッグコーンを、食べたのがわかった。
 私の足もとには、卵焼きがひとつ落ちていた。その中に、青海苔か細かく切った野菜らしき緑色のものがきれいに混ぜ込まれているのを見ながら、私は、ただ立ち尽くしていた。


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サークル名:つばめ綺譚社(URL
執筆者名:伴美砂都

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