雨裡の路地に花の咲く
──書けない。
力の抜けた指から筆がはたりと、真っ白な紙に落ちていく。投げ出された墨色の飛沫がじわじわと広がっていくのを、ただぼんやりと私は眺めていた。
硝子窓の向こうでは、黴雨が幾日も続いている。トタンを穿つがごとき音もなく、じっとりと降る雨を感じながら、詰めていた息をゆるゆると吐き出す。
──如何したことか。
これでもう二ヶ月あまり、私は物語の端緒すら書けずにいた。
巷間に名の知れた文書きではなくとも、年に数度は心惹かれる文華集の企画に参加することもある。ことに今回、黒猫を徽章にあしらった版元の企画したそれは、若手から練達の書き手が数多、想像の翼を思うさまひろげることを是としたものであり、私もまた沸々と滾る血の音を感じたからこそ、意気揚々と筆を取ったのだ。
それなのに──
煙草の脂に染まった歯を軋らせたところに、ぼうん、ぼうんとくぐもった柱時計の鐘の音が届く。いたずらに墨滴の飛沫に穢された紙は、さながら白い蕾が花開く刻を待つように、かさついた畳のあちこちに投げ出されていた。
──もう咲くまいよ。
呟きかけた言葉のあまりな実の無さに、自己嫌悪がずきりと胸を抉る。
そんな折に届く、降る雨のじくじくとした細やかな気配。
──夏の雨ならもっと景気よく、ざあざあじゃぶじゃぶ音立てて降れッてんだ。
ふいに腹立たしくなった私は、歯のちびた下駄を突っかけ、下宿を飛び出していた。
手入れの行き届かぬ生け垣の鬱蒼とした陰が路に張り出す傍らで、雨に濡れた紫陽花の青味の強い色だけが目にあざやかだ。その色味の強さに目を逸らせば、塗りたくられたペンキの剥げた電信柱が視界に飛び込んでくる。そんな電信柱の地皮がふと、蠢く小さな黒い虫の群れに見えてしまい、怖気だった私はそっぽを向くなり、さらに細まった路地へと足を踏み入れていた。
山梔子と栗の花の入り交じった香は、路の塵を払わぬ雨と相まって、重く纏わりつくように周囲に満ちている。くらい路地の奥へ、奥へと私は歩を進め──視線の先に、鬼灯と熟柿を混ぜ合わせ、煮詰めた色の提灯に気がついた。
あたたかく灯る光へと吸い寄せられるように近づけば、そこは場末の小料理屋めいた木造二階建ての小さな家屋があった。粗悪な曇り硝子の格子戸に、毛羽立った壁を前に立ち止まった私の眼前で、かろかろと格子戸が引かれるなり、若い女が顔を出す。
「あら、珍しいこと……ねえ、ちょいと寄っておいきなさいよ」
年の頃は二十三、四か。粋筋で見かけるような結い髪はすこしくずれ、薄藍色に口紅と同じ色の帯を締めた、ちょっと婀娜っぽい女だ。
「生憎と持ち合わせが無くてね」
久しぶりに出した声は低くしゃがれ、言葉の形を成しきれてないのを恥ずかしく思う私に、
「いい声ねえ。今宵にぴったり」
女は微笑むなり「ねえ」と首を斜め後ろへと傾れば、誰かのうなずく気配が返される。
「……いえね、あたしたちも雨夜の品定めにも厭きましたので、たまにはちょいと向きを変えて──こう、背筋がすこうし涼しくなるような話でもしてみようかって」
「かと言って男がひとりというのは、どうにも決まりがつかぬ気がするがね」
やんわりと辞意を示した私に、女はしなだれかかるなり、口の端を大きく弓形にそらした。
「あら、おにいさんがいてくれたほうが心丈夫というもの」
そんな女の声に、
「そうねえ、いざというときに抱きつく殿方がいたほうがいいかもしれないわねえ」
「あけすけにも程があるぞ、翠花」
良質な笛の音にも似た声と、硬い絃楽器を想起させる声の答えが返る。
「リリィちゃんは相変わらず真面目ねえ。でも、殿方がひとりいたほうが、いつも見慣れた顔相手に話をするよりずっと熱が入る気がするわ。どう思って? お千代さん」
女が三人寄れば──と思いなした私の痩せ腕は、
「ねえ、あなた。そういうことだから」
千代、と呼ばれた女のむっちりとした腕に絡め取られ、嫌も応もなく引き寄せられていた。
通されたのは、カウンター席がふたつばかりと小上がりの卓席がひとつきりの、小料理屋風の一間。それでいて酒の匂いも料理の気配も感じられない空間に、三人の女がこれまたてんでばらばらの衣装で佇んでいる。
「これは、あたしの話なんですけどね」
おもむろに千代、と呼ばれていた女が口を開いた。
「あたしがずうっと前にいた見世では夏になると、真四角な紙の真ん中に描かれた、まっさらな蓮の絵目がけ、摘みたての蓮の花片をひとひら投げかけて、恋の行方を占う座興がありましたのさ。花片を手にしたひとも、絵の四隅を抑えるひとも皆、紅絹の布で目隠しをしてね。
あたしも、意中のひとと結ばれますように、って願いを込めて、まだ水気の残る花片を扇投げの要領で指先から離したの。そしたら──その花片は先刻まで絵があったはずの、すり切れた畳の上に落ちてましたのさ」
「そりゃおねえさん、朋輩にいじわるされたのと違うか? あんたの恋なんて成就しなけりゃいいなんて、妬み嫉みは日常茶飯事だったろうに」
返し言を口にしていた私へと、千代は曖昧な笑みを浮かべ、唇を結んでしまう。
「……次は私の番だ」
部屋の奥、リリィと呼ばれていた娘が口を開く。豪奢な金の髪に、晴天の青を転写した色の目。紛うかたなき美少女だが、銀の胸当てに細い剣を履いた姿はまるで軽騎士か、冒険小説の女主人公のような出で立ちだ。
「私は海洋の果て、『白百合の騎士団』と称される娘子軍の騎士だった。私の生まれ育った国は今時分の季節ともなると、王宮の庭や郊外の丘に白百合の花が咲きほこる、それは美しい国だった。
だが、私の愛し、守りたかった国に──東の国が攻めてきた。
雪に比すべき白い花の咲く美しい国と温和な王に誓いを立てた私は戦ったが、敵はとうとう王城近くにまで迫ってきた」
戦の凄惨を、その華奢で美しい身に受けることになっただろうリリィの結末を予測した私の視線は自然と彼女から外れる。
そんな私へと、リリィは謎めいた笑みを浮かべた。
「だが──私の運命は虎狼の手に堕ちて決したわけではなかった。何故だと思う?」
リリィの問いに、私は思いついたままの言葉を返す。
「そうだな……間一髪、王家にのみ伝わる抜け道から脱出できたか、はたまた、滅びゆく国がきみに魔法をかけ、一輪の白百合に姿を変えていた──というのも悪くないかもしれないな」
はは、と笑った私に、リリィは先刻までの笑みを貼りつかせたまま押し黙った。
また黙りを決め込むとは。これでは背筋が涼しくなるような怪談噺とは程遠いではないか──と興醒めしかけた私の視界を、ひらりと舞う翡翠色の薄衣が遮った。
「わたくしの話も聞いてくださらないの?」
翠花と呼ばれた女が、艶な笑みを浮かべる。先刻の蓮っ葉な物言いゆえに酒楼の女かと思いきや、その手は三人のなかでもいちばん荒れて乾いていた。私の無遠慮な視線に気づいたのか、翠花はほ、ほと笑いながら、袂の奥に手を隠す。
「わたくしは蘭灯作りの職人の家に生まれましたの。自らも娘ながらに竹を撓め、絹の帳を貼り──そうは言いましても、二八の娘が手に成る、季節の花の絵を四隅にあしらった蘭灯は、巷じゃちょいとばかり人気のありました品とおぼしめしくださいな」
「……たしかに酒楼でいい気分に酔った目に、きれいな娘の売る蘭灯は幾倍も魅力的な品と映ったろうな」
そう私が笑えば、「あら、お上手」と翠花は私の肩をきゅっと抓った。
「あれは夏の盛りの夕刻、季節ものの白芙蓉を一輪描いた蘭灯へとわたくしが火をいれたところに、身なりも清げな白面の青年が訪れましたの。
いつもなら酔っぱらいばかりがひやかす店先で、『この花姿が目について』と、青年はいい値以上の銀を置いて蘭灯を購っていきました。たった、それきりの──でも、貴公子の風采もふるまいも、わたくしのこころを奪うに十分でした。
朱夏へと至る端境に知り初めし想い。それに身を委ね、わたくしは白芙蓉の描かれた蘭灯を手に取る貴公子のあとをつけていきました。
あの方はいったいどのような殿方で──そして、わたくしの作った蘭灯を手に赴く先は何処なのかしら、そんなことを思いながら」
謎かけを挑む翠花の視線に、
「はっは、貴公子の正体はおおかた、冥府のものといったところかな。そうでなければ、かれの忍ぶ恋路の先に待つのが、幽冥相別つ美女か」
私は膝を打って笑いながらこう答えた後、一座の女たちを眺め回した。
「しかし三人が三人とも、こうも落ちの読めてしまう話で怪談とは──背筋をすうっと涼しくさせるには、いささか物足りないな」
──とはいえ、何の興趣もない雨宿りだったかと言えば、嘘になるがね。そう口にして私が席を辞そうと身体を起こしたのと、ほとんど同時だった。
「──……そうまで思うがままの想像がはたらくのなら、どうしてそれを存分に思うさま紙片に綴り、あなた自らの手で、わたしたちに結末を与えてくださらなかったの?」
私をぐるりと取り囲み、三人の女たちは口々に囁く。
「あたしは朋輩の誰も疑いたくないのに、それでも消え失せてしまった蓮の絵への疑惑と、かなわぬ恋路と突きつけられた花片にぐるぐる思いを巡らせたまま、立ちすくんだっきりで」
背に縋った千代の、眦に涙をにじませたきつい視線を感じ、
「たとえこの細剣が折れようと。その覚悟をも喰い尽くそうとする恐怖を背に、私は眼前に迫る敵を目前に放り出されたまま」
右手を取るリリィの、手甲の冷たさに息を飲み、
「あの御方の手にある蘭灯だけをたよりに、わたくしはただ暗闇のなかをずっと、ずっとさまよい続けるばかり──」
左腕に巻き付くように抱きついた、翠花の重みに私は目を閉じる。
そんな私へと、和した三つの声が問いを放つ。
「物語のなかで、結末を与えられずに放り出された女たち──それを哀れと思し召すなら、どうぞ、あなた、責任を取ってくださらない? かつてあなたが放恣な想像の赴くままに生み出しておきながら、感興が褪せたと知るや途中で放り出し、投げ棄てていた女たちに」
終わりを、と望む声が、身体の奥底深くにまでこだまする。
私が書き散らしきることさえできず、文箱の奥底へと押しやられた物語のなかで行き暮れてしまった三人の女たち。長き蕾の時を持て余していた花々を、今度こそ咲かせてみようと足掻くのもまた一興か──たとえそれが、どんなあだ花であろうとも。
さあ、どんな終わりが望みだ?
問いかけようとしてかすれた声に、女たちのさざめきと、じくじく降り続く雨音が和し──意識も思考も、ぼんやりと輪郭を滲ませていった。
『編集子後記』
黒猫印の文華集に寄稿されたこの一話のために献本を郵送したところ、宛先不明と返された。ならば、と住所録に記載された町に向かったが、本作中に綴られた路地の景色ばかりか、書き手たるかれの姿もついぞ発見できなかったことを、蛇足と知りながら申し添えておく。
サークル名:絲桐謡俗(URL)
執筆者名:一福千遥
一言アピール
絲桐謡俗では、一福の気の向くままに書かれた、すこしあまくてせつない不思議な物語を、和風・洋風・中華風とりまぜて置いてます。お気が向かれましたら、お手に取ってごらんになってみてください。