ふと漏れたため息は、室内が静かなせいか、やけに大きく響いた。私は傍らに置いた小瓶のひとつに手を伸ばし、その蓋を外して顔を寄せる。
 爽やかで、少し苦みを含んだ香りが鼻腔をくすぐった。同時に、一枚の葉が水面に落ちて波紋を作り出す様が脳裏に浮かぶ。
 香水店が発行する小冊子の挿絵を手掛けてほしい。版画作家を名乗る私がその依頼を人づてに受けたのは、先月のことだった。
 依頼内容は小さな版画絵を二十ほどで、複雑なことは求められていないものの、気分は暗くなるばかりだった。その原因に、私は恨めしい視線を送ってしまう。
 机の上に並んだ小瓶の正体は、制作の参考にと店からもらった香水の試供品だ。その数、十九本――ひとつだけ足りない。決して私が失くしたわけではなく、最初から渡されなかった。
「一番特別な香りなんです」
 打ち合わせで件の店を訪った際、店主の唇が意味ありげに曲線を作ったのを思い出す。

 夏の昼下がりという時間帯は、空の青も雲の白も木々の緑も、全ての色を鮮やかに引き立てる。ついでに、蝉の鳴き声も。
「ほら、見えてきましたよ」
 落ち着いた低い声が、私のまぶたにかかっていた重力を奪った。車に揺られているうちに眠りかけていたらしい。
 運転席でハンドルを握るのは、品のいい老紳士だ。店舗はかなり辺鄙なところにあり、最寄り駅からでも車が必要だった。
「あの丘の上にあるのが、私どもの店でございます」
 彼の言うとおり、小さな建物がぽつんと佇んでいる。風変わりな香水を商うらしいが、その店構えは古くも上品なものだった。意外と普通だ、と私は拍子抜けしながら、店内へと足を踏み入れた。
 夏の世界を支配していた蝉しぐれが、扉を境に途切れる。無音の中、少しばかりの芳香が鼻孔をくすぐった。
 店の壁に据えられた木棚には、小さな瓶が所狭しと並んでいる。その光景に圧倒されていると、店員と思しき女性が老紳士に代わり、店の奥へと案内してくれた。
 通された小部屋はさらに静かで、妙に緊張させられた。どうにも口の中が渇き、出された茶でこまめに口を濡らしていると、間の抜けた足音が聞こえてきた。
「このたびはご足労いただきまして、ありがとうございます」
 姿を現したのは平凡な顔立ちの青年――彼が今回の依頼主だった。彼は四代目店主とのことで、店の歴史はなかなか古いようだ。
「今回、定番商品を紹介したカタログを作りたいと思いまして」
 私にはよくわからない世界だが、香水には二十の分類があり、その中からひとつずつ商品を選んで掲載するのだという。
「祖父の形見で古いのですが、これを参考にと思っています」
 差し出されたのは、古びた小冊子だった。表紙をめくると、小さな絵と短い文面が謄写印刷で記載されている。私は少し粗めで簡素な絵を見て、手間がかからなそうなことに内心安堵した。
「具体的に何を描くか、詳しくお話しいただけますか?」
「作風は既に承知しておりますので、お任せいたします。原稿と実物の香水を十九本お渡しするので、感じたまま描いていただけますか?」
 頷きかけた私の首が止まる。
「十九? 紹介する香水は二十ですよね?」
「ええ、ひとつは非売品でして……」
 店主は視線を一瞬外しながらも、口の端に笑みを乗せた。
「それでも、あの分類の香水をひとつ紹介するなら、それしか考えられないのです。紹介文はきちんとお渡しいたしますから」
 その表情と口ぶりが意味深に思え、私はわずかに身を乗り出す。
「文章だけでも制作は可能ですが、せっかくなので少しだけでも実物を確かめさせていただきたいのですが」
「すみませんが、私もめったに蓋を開けることはないんですよ」
 店主は弱々しく眉を下げるが、譲歩する様子は見せなかった。
「それなのに、カタログに載せるんですか?」
「ええ、当店にとって一番特別な香りなんです」
 もったいぶった口ぶりのせいか、私はその二十本目の香水が気になって仕方なかった。
「何という香水なのですか?」
「……『最果ての風』です。原稿はもうできているので、お持ちしますね」
 店主は席を外すと、紙の束を携えて戻ってきた。そして紙の順番を並び替えながら、指で静かに示す。
「これですね。風が息絶える瞬間にしか採取できない、貴重な香りです」
 私は首を傾げた。
「風が息絶える、匂い……?」
「ええ。風が死ぬときに一瞬放つ匂いを香水にしたものです」
「そういう想像のもとに作られた香りということですか?」
「いえ、本物です。本当に、風の絶命に立ち会って採集した香りですよ」
 確かに変わった香水を扱うと聞いたが、私は予想外の説明に瞠目した。
 慌てて原稿を全て確認すると――
「地下宮廷の時間、銀色海岸の波音……」
 どれも私の知る香水像からはかけ離れたものばかりだった。
「こんな香水が存在するんですか?」
「もちろん。そちらは試供品をご用意しております」
 店主はどこかから飴色の木箱を取り出す。その蓋を開けると、とても小さな香水瓶が十九本きっちり収められていた。
 そこからは具体的に、工程の確認や印刷方法、納品形式について話し合った。珍しいことに、わざわざ使用人の誰かが私の仕事場まで直接原稿を取りに来るという。
「今どき、ですか?」
「ええ……このとおり世間から遠のいているような店ですので」
 まったく呆れがなかったとは言えない。けれど、私もその頃にはすっかりこの浮世離れした店の雰囲気に馴染んでしまっていた。むしろ、前時代的な方がこの店らしいとさえ思ってしまっていた。
「楽しみにしております」
 そんな店主の言葉で打ち合わせは終わり、窓の外を見れば景色はすっかり夕焼けに染まっていた。
 十九の香水瓶を持たされた私は、往路と同じく老紳士の運転で店を離れた。茜色と藤色が織りなす空に、逆光の大木と洋館が影絵のように浮かび上がっているのが、しばらく心に残っていた。

 例のニ十本目について、もっと詳しく聞いておけばよかった。話題を戻さずにいたことを、帰ってきてから後悔してももう遅かった。
 実物を渡された香水は、それも匂いをかぐだけで面白いほど図像がはっきりと思い浮かんだ。そのおかげで、十九枚の下絵がもう完成している。
 あとはこの香りだけなのだ。仕方なく、店主からもらった原稿を読み返す。もう何度もそうしているのだけど。
「風は自分の死を意識されることを嫌う……。けれど、たった一人にだけ、許すこともある」
 その香りが具体的にどんなものか、まったく書いていない。ただ、あの店の初代が香水を商うきっかけになった、と――。
 私は眉間に深い皺を作る。いったいどんな匂いなのだろう。
 その香りの分類は、絶望。とても苦しくなるような匂いなのだろうか。でも、たった一人に許すと言うなら、少しは温かな感情も混じるのだろうか。
 どんなに想像を膨らませても、その絵だけはまったく浮かんでこない。何度も描き直しているうちに、こうして下絵の締切当日を迎えてしまった。あと一時間で、香水店の従業員が原稿を取りにくる。
 私はこの仕事を受けるまで、自分は器用な人間だと思っていた。何も想像できないというのは、芸術家としての矜持が許さなかった。けれども悲しいことに、本当に何も浮かばなかったのだ。
 半端なものを作りたくないのに納期は迫る。品質へのこだわりよりも期日を優先させよ、とかつて教えを受けた私は、予備の図案をあらかじめ完成させていた。シンプルな曲線で風を表したものだ。
 結局は無難なものが好まれると自分に言い聞かせていても納得できず、最後の最後まで粘った。けれども、無情にもインターホンが鳴り、私は予備を昇格させて渡すしかなかった。
 数日後、再びやってきた従業員曰く、店主は全ての絵に満足だったそうだ。いっそのこと駄目だしをしてくれたらよかった、と恥を承知で思った。
 彼の綴った紹介文が、心の中で旋回を繰り返す。絶望の香りの中で、選ぶとしたらこれしか考えられないのだという。初代が香水店を開くきっかけになった香りだ。特別なものに違いなかった。
 私が用意した予備は、当たり障りのない絵だ。こうではない、こうではないはずなのに……。そんな思考になってしまう自分が嫌で、私は無心で版木を彫り、二十枚の絵を制作した。完納させた頃にはすっかり疲れ果てていた。
 そして冬が近づいた頃、冊子完成の知らせと実物が送られてきた。最後のページを見ると複雑な思いになるけれど、依頼主がよしとした以上、私自身も納得するしかない。数日かけてそう結論づけた。
 不思議な仕事だったが、これもいい経験になった。報告と感謝を伝えようと、仲介してくれた人に連絡を取ろうとしたところで、ふと気づく。
 そういえば、私にこの仕事を紹介してくれたのは誰だったのだろう、と。
 心当たりを全て確認しても、私がこの仕事の打診を受けた証拠は見つからなかった。それどころか、打ち合わせに関するメモ書きまで忽然と消えていた。
 私は呆然とした。店の連絡先を記録していたつもりになっていたため、冊子が送られてきたときの封筒はうっかり捨ててしまっていたのだ。
 わかるのは店の名前と店主たちの――顔はもう思い出せない。
 夢でも見ていたのかと首を捻るが、当の冊子は目の前に実在している。しかし、店舗が発行したものであるくせに、店の情報がまったくない。
 私は慌てて棚に追いやった木箱を開けた。瓶はどれも空っぽだ。元々少量だった上に、制作の過程で何度も匂いを確かめていたせいで、何も残っていない。
 奇妙な喪失感が心を満たしていく。何か、大切なものを忘れてしまったような……。
 なんだか息苦しくなって、私は窓を開けた。もう長いこと閉めきっていたような気がする。
 冷たい風が室内に忍び込み、机の上に置いた紙を一枚舞い上がらせる。白地図のようなそれは、数秒ほど弧を描くと、音もなく床に落ちた。


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サークル名:砂水(URL
執筆者名:碓地海

一言アピール
自分の好きなままに幻想的な物語を書けたらいいな、とぼんやり思いながらマイペースに活動しております。


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