七竈

 春だ。
 長く冷厳に続いた極夜も終わり、目に見えて雪融けが進む。時化で唸ってばかりいた海は凪ぎ、風が緩む。朝晩ことに耳と鼻と指先を痛ませたきつい冷えこみもほどけ、久々に息が白くない毎日が日常となり始める。もう間もなく、南へ逃避していた白鳥たちも帰ってくるだろう。
 町の食堂も、春先の活気で盛況だった。まだ暖炉の火は欠かせないが、漁師も狩人もみな、朗らかな顔で冬の終焉を喜びあっていた。
 ベルガはここで変わらず勤めている。店の看板娘として親しんでくれる常連客とも、足かけ四年のつき合いになる店主夫婦ともうまくいっていて、談笑しながらの接客も清掃も、これまでずっとそうだったように好きな仕事だった。
「ベルガちゃん、今日もごちそうさん。うまかったよ」
「ありがとうございました。あ、おじさん待って、これ忘れてる」
 椅子から忘れものを取って追いかける。出入口で慌てて振り向く客へ手渡せば、「助かったよ、ありがとう」笑顔の礼に自分もほっとした心地になる。
 表は、和らいだ空気の匂いと弱い陽射しに暖められて、じきに草木も芽吹きそうな様子だ。少し前まで、この軒で毎日つららを割ったり、店主が屋根の雪下ろしをするのを手伝ったりしていたのが嘘みたいだと思う。
 建物のそばにはななかまどが伸びているが、この木はこの時季が一番寂しい。白い花を頂き緑葉の光る初夏、赤い実がつく秋と葉は喪うが樹氷で装う冬のいつより、萌芽を待つだけの今その細枝は、枯れ木さながらに頼りない。
 早く葉が茂ったらいいのに、と木を見上げ、ベルガは視線を外した。ここで働きだしてから見ない日はないこのななかまどは、ここの仕事と等しく、ずっと好ましいものだったのだが。
「ごちそうさん。ベルガちゃんお勘定いいかい」
 店内からの声に急いで向かう。眼裏へ焼きつくななかまどの残影を振り払った。

 振り払おうとしても、本当にそうできたことはなかった。
 あの木のそばで、ダヴィドと出会った。昨年の初夏、町で記念祭があった日だ。
「地元のひとかな」
 勤めはもう上がっていたが、ベルガは用で食堂へ寄り、食事を終えたダヴィドからそう話しかけられた。彼はその翌日も来店し、
「昨日ここで食べた料理がおいしかったのでまた来ました。羊の煮込みと杜松の実のジュースをもらえるかな」
 そう注文をした。食堂の他の常連らが品書きを必要とせず、「いつもの」を決めているのと同じく、その日からそれがダヴィドの「いつもの」になった。
 初めて彼の名を知ったのも、ななかまどの下だった。彼は盛りの白い花のもとで横笛を指へ遊ばせ、
「申し遅れていたかな。ダヴィドといいます。お見知りおきください」
 木漏れ日を受けて名乗った。その優美な微笑と風雅な動作を、もう一年近くも経つというのに、ベルガは今でも克明に思いだすことができる。
 夏至祭の話をした時のことも覚えている。
 この町で、記念祭に次ぐ大きな行事である夏至祭について、
「もうすぐなんだけど、夏至祭の日は一日じゅう大きな焚火をたいて、みんな踊ったりするの」
 ベルガが説くと、ダヴィドは「いつもの」料理を食べる手を止め、
「それは風流だね」
 そううなずいていた。
 彼は旅人としてこの町を訪れていたが、ここが気に入ったといって滞在を延ばし、昼を食堂で食べ、あれこれ話すようになっていった。
 もっとも、あの時分の会話はあまりに他愛のない、旅人と地元の者とのちょっとした交流にすぎなかった。ベルガ自身、ダヴィドと喋ることを日々の楽しみにしてはいたが、それはそんなのっぴきならない類の感情ではなかった。
 潮目が変わったのは、彼から手紙を送られた頃だ。
 毎日店に来ていたダヴィドが姿を見せなくなって、気を揉んでいた折。夏至祭を次の日に控えた夕方、思いがけないかたちで受けとったその文面を、ベルガはいまだに忘れることができない。
 ──無理を承知でお誘いします。夏至の日の子夜、町の人魚像の前に来ていただけませんか──
 手紙を秘め、白夜の下を馳せたあの時間も。誰にも言えないが胸の底では今も、疼くように鮮やかだった。

  ***

「でも、今年は晴れの夏至祭でほんとによかったよね」
 夕食の席で、妹のマナはしきりにそう言った。
「そうね、去年は雨降りだったものね。おととしもその前もだったかしら」
 姉のデルフィナが鰊の酢漬けを皿に取って諾う。
 ベルガはうなずき、いつもの年なら「これで夏至祭も終わってしまった」としんみりしていた頃合いだと思った。夕飯に鰊を食べたらあとは寝るだけで、祭りが終わった寂しさと、この日を境に長い白夜も幕切れに向かう切なさが残るのみだ。
 だが、今年は違う。
 ある意味で、今年の夏至はこれからだった。今日を無事に終えるまではと、ベルガは密かに喉を震わせた。
(よし)
 子夜を迎えるわずかに前、寝台を軋ませないよう注意を払って身を起こす。
 家族は皆、寝静まっているようだ。そっとカーテンをずらし、音を立てないためあらかじめ開けておいた窓から身体を出す。靴を履いた足を躍らせれば、薄明の外へ影が落ちた。
 ベルガは裏庭の、土の柔い一隅に降りて歩きだした。息を殺して家をぐるりと回りこみ、通りに出る。自然と早足になった。
 広場の方角からは、まだ続く踊りの賑わいと焚火の匂いが伝わってくる。急いでいる間、頭は何かしら考えていたが、たどり着いた先できらめく鋭い双眸を見つけた途端、思念はすべて足元へ散った。ただ自分をここへ招いた手紙の言の葉だけが、めぐるように幾度も思い起こされて、ベルガは眼前を凝視した。
「来てくれたね」
 真昼めいて仄明るい天の下、人魚像を眇めていた濃紫の瞳に射抜かれる。冷たい夜風が衣服の裳裾をさらい、複雑な影が黒く伸びた。久々に聴いた声と目にしたその姿に、ベルガはすぐには言葉が出てこなかった。
「こんな時間に無茶を言ってすまななかった。でもこうでもしないと、落ち着いて話もできなくなってしまってね」
「忙しかったんだ、」
 やっと返せた声音に、安堵と混じって寂しさがにじんでしまったのを自認する。会えない間、「寂しい」と感じたことがあったのは事実だが、それをダヴィドに気づかせたくはなかったというのに。
 闇を知らぬ夏至の薄明が、ダヴィドの読めない表情を浮かびあがらせる。彼は手遊びに、人魚像の夜露に光る尾鰭を撫ぜて、それから花壇の脇へ腰を下ろした。
「……聴いてくれるかな」
「え?」
「皆にばれないように、抑えてだけれど。あのおじいさんに見つかったらまた帰してもらえないからね」
 ダヴィドは竪琴を抱いて言った。ベルガは食堂でその音色を耳にしたことはあるが今、彼がそれをいつから持っていたのかどこにあったのか、まるで思いだせなかった。
 だが、長い指先が秘めやかな爪弾きを始め、見えない星の囁きさながら音の波紋が拡がってゆくと、思惟は響きの内へ溶かされ、ベルガは我知らずダヴィドの隣へ座りこんだ。ゆっくりとかすかに奏でられる曲は、次の一音が待ち遠しく焦がれてたまらなくなるほどに、胸のまん中がぎゅっと咽ぶようなせつなさで織りなされていた。
「どうだった? ……」
 弦を離したダヴィドに覗きこまれた時、ベルガは曲が終わっていたことに初めて気づいた。未だ残る音の余韻が肌の上にも地面にもとどまって、その谺に浸され揺蕩う心地が続いていた。
「……とっても、……」
 応えようとしてもうまく言えない。
彼の爪弾きを聴いている間、その音色の他に何も耳へ入らなかった。風の巻く音も波も、遠くで祭りを切りあげる人々が交わす話し声も。そして、遅くに家を抜けだしてきたことも明日のことも、全てが消え落ちて響きの美しさだけが心を満たした。
「そう」
 何も言えていないのに、ダヴィドは汲みとってくれたのかうなずいた。
「これは遠い国の、遠い昔の、今となっては誰も知らない恋の歌でね」
 いつの間にか、彼の黒髪が睫毛に刺さるほどそばにあった。次いでその鋭利な双眼が、目の中へ入ってきそうに近く視線を注ぎこんでくる。腰が引けてしまう瞬間、ベルガは左頬を触れられて息をのんだ。
 さっきまで竪琴の弦を捉えていた長い指が、自身の頬に乗っている。指はあまりに優しく、距離はあまりに近く、離れなければ、せめて目をそらさなくてはと、出遅れながら頭は警戒を叫ぶが、沁み入るような音の余韻は深く濃い。
 目の前の瞳を見つめ返す。ベルガは今、朝が来なければいいのにと己が胸が願うのを、否定できないでいた。

  ***

 ダヴィドのことを思い返そうとする時、ベルガは他のどんな瞬間よりもあの、夏至祭の子夜に胸を衝かれる。その後だとて、季節が進むにつれいくつもの事象が積み重なっていったのに、あの時間の記憶は特別だった。
 勤務を終え、食堂を離れざまに振り返る。心細げなななかまどの枝は、丸裸で潮風に吹かれていた。
 この木が今年も新芽を育み、また葉を為し花を結ぶ頃には、抱えきれない記憶もいくらか薄れるだろうか。そうでなくてはならず、早く薄れてしまってほしいとも思う。しかし本当にこの思い出が己の内から滅んだとして、手紙を隠し持ったままの自分が抱くのだろう感情を、ベルガはひとつしか想像し得なかった。

サークル情報

サークル名:花月
執筆者名:猫宮ゆり
URL(Twitter):@yuri_neko_0

一言アピール
この「七竈」は11月新刊予定『凍露』の番外編で、ベルガと彼女が出会った旅人との話です(この七竈はセイヨウナナカマド)。*で区切った回想箇所は本編第二章抜粋です。『凍露』は北欧風ダーク寄りハイファンで、人魚の伝説が残る町に住む三姉妹の物語。愛や心情、ひとの気持ちに永遠はないことを表現するのが好きです。

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七竈” に対して2件のコメントがあります。

  1. ぶれこみ より:

     印象的な描写は、音楽の感動の表現の的確さから来るようにも思うが、エキゾチックというか、異国風でかつ時代が特定できないような、風変わりな小説世界が個性的で、面白みのある作品に思えました。
     ベルガとダビィドの関係が、どうにもぎこちない感じの思い出を作っているのも、個性的世界なのであまり違和感を感じさせないような気がします。
     ナナカマドニ結びつける必要があったのか、そこがすこし疑問ですが、印象付けるのにナナカマドの赤い実はちょうどだったのか、とか、いろいろ思いました。

    1. 猫宮ゆり より:

      こんにちは、このたびは丁寧にお目通しくださり、ありがとう存じました。
      ななかまどは、これが本編のある物語なのですが、その本編内で全体通してよく登場する木なもので、ここでも印象づけておきたくって、こうした次第です。
      たくさん読みとっていただきまして、御礼申し上げます。

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