拝啓、沈める都の海の魔女へ
むかしこの海にはそれはそれは美しい翠の国があって、一夜にして海嘯の底へ沈んだ。
そんなことを語りながら、先生はたびたび瓶入りの手紙を浜から海へと流した。或いは船で漕ぎ出した洋上から、はたまた飛沫の散る崖の上から、何度も、何度も。
青い海のなかにあって、蝋引き紙を詰めた瓶は否が応でも目立った。先生の弟子という立場を得たばかりだった僕は、先生が瓶を放ったのと同じ数だけ、飽きもせずに瓶のゆくえを眺めていたものだ。
同じように瓶のゆくえを眺めながら、先生はこんなことも言っていた。
かつて栄華を極めた王国には不死の魔女がいたが、彼女だけは愛する王国と同道することもできず、今なおはるかな洋上をあてどなくさまよっている――ここまでくればもはや眉唾もいいところだな、と今なら思う。
けれども当時の僕は、それを本気で信じていた。
瓶のなかに込められた手紙は、いつでも不滅の魔女に宛てたものであったから、当然の話であると思う。会えもしない魔女の口伝は、当時の僕の信奉を得るにはじゅうぶんな材料を持っていたのだ。
手紙を書く没食子のインクの匂いや、蝋を引くために蝋燭を削る音は、今でもよく思い出せる美しい思い出の一片である。
同じものを使って手紙を書いてしまうのは、たぶん僕の感傷なのだと思う。
海の魔女が陸へ上がったという話を聞かぬまま、先生はぽっくりとお亡くなりになった。先生の遺した海辺の研究所は、先生に育てられた僕が引き継ぐことになった。
なんでも先生のご家族は、先生の研究をあまりよく思っておられなかったそうだ。となると、先生と親しかったのは赤子の時点で先生の養子にされた僕ひとりになる。研究所を引き継ぐはめになったのも、さもありなんという感じだ。
参列者もまばらな葬儀の後、はじめて先生の研究机に向き合った僕は、そこでようやく先生が海へ流していたものの正体を知った。――瓶の中身は手紙だけではなかった。
机上で蝋引き紙に包まれていたのは、海流測定用のトラッカーである。コイルを埋めた樹脂は透き通るような美しい翠と見せかけて、ほんのりと霞がかったような曇りがあり、四桁の番号が彫ってあった。
偏屈でロマン家だったあの人らしいな、と僕は思った。でも、そんな先生もひと皮剥けばちゃんとした研究者だったらしい。
そういえば、洋上から瓶を流すときは、いつもなにかの計器と睨めっこしていたっけ。今思えば、あれは船舶についた金属探知機でトラッカーを探していただけなんだろう。
幽霊の正体見たりなんとやら、というやつだ。なんだか無性におかしくて、その日は珍しく酒を呷って、研究所で丸くなって眠った。翌日からは大型船舶の動かし方についてよく学んだ。
インクの匂いが鼻先を掠めるたびに、あるいは蝋に塗れて光る指先を見るたびに、僕はここにはいない先生のことを思う。翠の染料を入れ、樹脂を練り上げるときも同様だ。そこにひとつまみの粉を落とすときには、一入に。
蝋を引いた手紙には、ここ最近の研究記録が書いてある。先生の書いていた手紙に較べるとロマンが足りないのだけれど、それについてはご容赦願いたいなと思う。もちろん、最初から届く宛てなどないのだけれど。
先生も、そのまた先生も。これからも、これまでも、僕らは海底へ沈んだ王国を探す。離散したかけらを集めて、いつかその存在を証明したいと思っている。
証明の先に何があるかは知らないけれど、人間の研究なんて大抵そんなものなのだ、たぶん。
僕が弟子か養子を取ったら、僕の手紙も不滅の魔女に宛てた手紙に変わることもあるかもしれない。そのときに変に緊張しないよう、僕は必ず研究記録をこう書き出すことにしている。
――先生、お元気ですか、と。
サークル情報
サークル名:月燈文庫
執筆者名:結月彼方
URL(Twitter):@ml_bunko
一言アピール
「『ここではないどこか』の物語を、『いつも』のことばで。」をモットーに、いろいろな世界のお話を書いている集団です。