潮の間に漂う

 まるで煙を充満させたかのように空はどんよりと中途半端な白さを残して、所在なさげに今日もある。煙草を携帯灰皿にしまい込んで、煮えた湯に顆粒のコンソメと野菜の切れ端、ベーコンと油揚げを入れた。クルトンがないからその代わりに入れた油揚げは思っていたよりも好評だった。よくよく考えれば、スープに入れてはいけないものなんてそれほど多くはないのだ。音楽や小説だって、おそらくは「具」よりも重要なものがいくらでもあるのだろう。
 音楽プレーヤーには店の中に流すプレイリストがいくつかある。ぼくは「アコヤガイ」を選んだ。今日は、ふたりが帰ってくる――いや、ふたりがぼくを訪ねてくる日だった。喫茶店の中では煙草を吸えないことになっている。だからぼくは軒先にブリキの缶でできた灰皿をおく。潮間のひとであることがわかるように。ぼくらがもう、潮間にいることがわかるように。
 プレイリストには昨日ダウンロードした新しい曲を追加した。聞き手を海の底に引きずりおろすような曲でデビューしたふたりの次の曲は、むしろ海から陸にあがっていくような風景の、決然としたまま明るく進む曲だった。神聖さがかいまみえるギターのコードたち、ハヅキの感性が弾けるドラム、そして三島の、まばゆいほどに清浄なボーカル。そうでありながら、ところどころに滲ませるどんよりとした雰囲気がかれらを象徴していた。ふたりのページがウェブ百科事典にあがっていたが、そこにも、公式ページにもかれらは「千歳県出身」としか書かれていない。きっと潮間に来たことがないひとが書いたのだろう。だからぼくは潮間のひなびた喫茶店でこれほどに若く澄んだ曲をかけようと思うのだ。ふたりは自らの意図に反して、このまちでは絶対に受け入れられるだろうから。
 喫茶店を開いてすぐに三島に手紙をおくった。SNSのメッセージでもよかったけれど、せっかく万年筆を新調したから、その手でかれに言葉を届けたいと思ったのだ。あの日送りつけられなかったのこりの言葉をぼくはいっしょに書きつけた。しばらくして三島は長文のメッセージを送ってきた。ファーストアルバムの制作に取りかかっていて忙しく、ひと段落したら絶対に行くと書いてあった。のこりはぼくにあてられた言葉だった。だいたい思っていたとおりだった。ただひとつだけ勘違いしていることがあったから、会ったときに教えないといけないだろう。
 市役所から海に続く閑散とした大通りを眺める。たいていの海は明るく、碧く、どこまでも遠くまで続いているように見えていた。ぼくも故郷にいたときはそうだとばかり思っていた。ここ、潮間の海は暗く、灰色で、遠くというよりは深く底がないような色をしている。年中同じ景色で、にたような空気だからともすれば今がどの季節なのかを忘れてしまうくらいだ。かつては真珠のまちだった潮間は、いつのまにか発電所ができてまちのなかにはなにもなくなってしまった。発電所に勤めていたことがもとで、ぼくはそんなまちに「祭り」を作った。その最後を飾ったのが、「アコヤガイ」だった。ギターボーカルの三島祥太はぼくと同じ発電所で、ドラムコーラスの市川ハヅキはここにほどちかい「うらぶれた」スナックで働いていて、どちらも潮間で生まれ育っている。ふたりのバンド名であるアコヤガイはむろん、このまちのかつてのシンボルである真珠をつくりだす貝の名前だ。だからふたりはふたりだけの音で真珠をかたちづくっている。その澄んだ音色と跳ね回るリズムの中に、どうしようもない若さとそれに似合わないしめっぽさがあって、そんななんともいいようのない、この潮間というまちを象徴するようなふたりの音楽がぼくは大好きだった。だからぼくは必ず、ふたりに届けられるような言葉を伝えようと決めたのだった。いつになるかはわからないけれど、きっといつか。
 ガラスの引き戸が開かれる。
「不思議なところ」
 女のひとの声とともに男女が入ってきた。
 ふたりでなかったことにいささかがっかりしながらも、よくよく考えれば三島は午後に来る予定だったことを思い出して、ぼくはいらっしゃいませと極めて平坦な声を出した。
「あなたのふるさとにもこんな喫茶店があるなんて」
 女のひとはにっこりと笑った。ふわりとした装飾の多い服を着ている。潮風でへんな匂いがつかないか他人事ながら心配になった。男のひとは灰色のポロシャツに色のくらいジーンズを着ている。彼がおそらく潮間のひとなのだろうとぼくは思う。
 真珠が水をくんでもっていく。ぼくがぼんやりしてしまったことにすこしだけ腹を立てているかもしれない。
「ここのおすすめってなんですか?」
 女のひとが楽しそうにたずねた。
 まじゅ、と声をかけようとして、真珠ならなんていうだろうかと少し気になった。
「ランチセットはどれもおすすめですよ。わたしはナポリタンが好きです」
 そうとは知らなかった。こんど作ってあげよう。
 しかし、ナポリタンが好きなのはおそらく真珠の本心だったとして、女のひとにすすめるのはよくないだろう。装飾の多い服はとても白っぽいので、ソースが飛んだら困るはずだ。もっとも、それはこちらが考えることでもないような気もするが。少なくともぼくだったらナポリタンとは言わずにオムライスにするし、そう勧めるだろう。
「ぼくはオムライスで」
「わたしナポリタンにします」
 女のひとの低い声でどきりとした。何かを狩る時の独特の声音だ。ぼくはどうしたらいいのだろう。それがわからなかったのでとりあえず煮立てていたコンソメスープをよそった。ベーコンも油揚げも、小松菜の切れ端も均等にふたつのマグカップに入っていった。
「ばーか」
 キッチンに入ってすれ違いざま、肘でこづきながらそういわれた。夕飯は真珠の苦手な激辛カレーにしてやろうと思ったが、それこそ思うつぼのような気がして、やっぱりナポリタンにしてやろうと思った。
 ピーマンやたまねぎは実際のところ朝にはいい塩梅でカットされていて、ぼくがここでやることはナポリタンの素とほんのすこしのバターをフライパンにいれ、カットされたそれらを炒めながら、真珠のゆでたスパゲティにからめていくだけだった。塩加減もゆで加減も、いまや真珠にはかなわなくなってしまった。
「固ゆでにするんじゃねえぞ」
 ちいさく声をかけると、
「したことないだろ」
 と真珠はぼそりと言った。男女は談笑していて声が漏れることはたぶんない。
 ソースがからまってきたところでいったん火を止めて、もう片方のフライパンに冷凍したご飯とナポリタンの素を入れて、ミックスベジタブルと刻んだウィンナーを加えた。そう、実のところオムライスもナポリタンも、おおもとは同じ味なのだ。両方を頼むひとはいないだろうし、オムライスには玉子が、ナポリタンにはピーマンその他の具があるから気づくことはないし、気づいたとしても何かを思うことはない。実際両方食べてしまえば少なくとも逆に取り違えるということはないくらいには違う味だ。その証拠にオムライスもナポリタンも、それなりにオーダーがある。
 キッチンタイマーの音とともにぼくはナポリライスを皿にあけ、真珠が作ったオムレツを載せて包丁で開く。最初からそうであったかのようにオムレツはぴったりとナポリライスを包んだ。真珠は手際よくスパゲッティをすくいあげ、ナポリタンのフライパンにあける。オムライスを真珠に渡し、ソースをからめてナポリタンを仕上げる。珍しく暑いと感じた。煙草が吸いたいが客がいる。
 ぼくはたぶん無表情だったのかもしれない。男のほうが軽く会釈をした。知り合いではなかったが、どこかで近しいものを感じた。
 男女はほぼ無言で昼飯を平らげ、ぼくが想定していた惨事は起こらず、涼しい顔で女のひとが会計を払った。
「すてきな店ですね、また来ます」
「それはどうも」
 社交辞令かどうかぼくはわからなかったので、曖昧に返しておいた。

「たぶんあのひと、小説書いてる」
 だれもいなくなった店のなかで真珠がつぶやいた。
「ああ、女のひと?」
「男のほうだよ。女はむしろ男の『それ』に心底惚れちゃってるあわれなほう」
「ふうん」
 本人より見た目がよさそうな女のひとを見ると、真珠は機嫌が悪くなる。じぶんを起点としている上にその要素は多岐にわたるので、結果潮間の女のひとでなさそうな女のひとが来ると真珠はほぼ確実にむくれる。どうしてそうなるのかわかれば少しは「対策」がとれるかもしれないが、なんとなくそうしないほうがいいような気がしてほっておいてしまっている。
「あの自信なんなんだろうな」
 確かに、女のひとはかなり自信に満ちた立ち居振る舞いだったように思う。文字通り「色気のない」まちに、あれだけ装飾のたくさんついた服を来てやってくるというだけでもそれはうかがえた。そして、男のひとの方はどこか「近しい」ものを感じた。真珠が言った「小説書いてる」はぼくが感じた「近しい」ものを的確に言葉にしたものだった。直感めいた真珠のものいいは時折こうして極めて正確にぼくを撃ち抜いていくことがあり、そのたびにぼくはどこか居心地がわるくなってしまう。ぼくができなかったことをとがめられているような気がしてくるからかもしれない。

「こんにちは」
 ずいぶん静かにガラス戸が引かれ、身体に似合わない少し高い声が響いた。
「いらっしゃい。待ってたよ」
 ハヅキの後ろで三島はひとなつっこい笑顔を浮かべた。白を基調とした淡いグラデーションのワンピースと真珠色の髪。どこか巫女らしいと思ったが、どうしてそう思ったのかはわからない。いまだにこのまちはわからないことばかりだ。その影かと思うほどにかれの服装は真っ黒だった。どこか宣教師を思わせるようなゆったりとしたシンプルな服装。新曲のテーマを「祈り」としたこととどこかしらでつながっているのか。たぶんそうだろうと思いつつもぼくは一瞬だけ疑ってしまった。かれは白が好きで白があまりにも似合っていたから。あまりにもこの時代が好きすぎるようだったから。
 真珠がすねを蹴った。ぼくは一歩ひきさがってコーヒーサーバーをあけわたした。
「石本さんお元気でしたか」
「まあ、ぼちぼちだよ」
 真珠とくらべてしまえば「ぼちぼち」なんてことは言えないかもしれないが、ぼく自身の浮き沈みだけでいえば、どちらかといえば「浮いている」ほうだろうし、ふたりにもそう見えているにちがいなかった。
「すっかり真珠ちゃんと仲良くなってるね」
「いや、そこまでではないです」
 ハヅキの無邪気さにふたをするように真珠は言葉をぴしゃりとかぶせた。このふたりはたぶん仲がいいのだろうと思う。この前メッセージでやりとりしていると三島から聞いた。同じ年頃だからだろうか。ハヅキはぼくに苦笑いを向けた。そんなにおかしな顔をしただろうか、わからない。
「今日はアルバムを持ってきたんですよ」
 白く磨かれたコーヒーカップを片手に三島は遠くを見つめた。このときほどカメラを持っていなくて損だと思ったことはなかった。写真家の気持ちがほんのすこしだけわかったような気がした。
「わーすごい」
 真珠はすこし大げさに声をあげた。もっとも大げさだと思ったのはぼくだけだろう。たぶん、いや、間違いなく。
 ぼくは焼けたばかりのスコーンにまだ凍りかけのクリームをのせてふたりに差し出した。もちろん凍りかけなのはわざとで、スコーンの熱でちょうどよくなることをねらっている。こういうことは真珠にはできない。
「石本さん、かけてください」
 なにを、と聞きそうになってこらえた。ジャケットを見てぼくは一瞬固まった。
 浜辺を背に、海からあがってきたかのようなふたりが並んでいた。写真全体を覆う湿った質感。そして浜辺に並んでいる丸くて、粗いつぶ。
 あの浜辺で撮ったものだった。
「なんだ、来てたなら言ってよ」
 そのひとことにハヅキは予想外に目を丸くし、三島はばつが悪そうな顔をした。
「ほんとうはそのときに寄りたかったんですけど、開業の支度してるときだったのと、あと『ここ』を使うのは秘密にしたくて」
 急に雨に降られた子犬のような目でかれがほんとうのことを言っているのは痛いほどわかったし、別段だからといってなにをどうするわけでもなかった。それらしいことをそれらしく言うこと以上のことは、ぼくにはできない。
 音響設備につないだコンポに円盤を入れると、間髪入れずに音楽が流れ始めた。海の底を思わせるその曲はふたりのデビュー作だ。
 ぼくは曲のリストを眺める。最後の曲だけ、見覚えがなかった。その横にある数字をコンポに入力する。
「震える真珠」が流れた。

 浜辺に流されてきたぼくのまわりには、真珠のなり損ないのつぶだけが並んでいた。だからぼくは歌った。次第にいろいろなものが流れついた。海藻、アメーバ、帆立の貝殻、そして見覚えのある歯車。

 その歌詞をぼくは知っていた。見たことも聞いたこともないし、かれの言葉だけれど、そのおおもと、この「ぼく」はまぎれもなくぼくだった。
「読んでくれたんだ」
「はい」
 かれは静かに答える。
「これがぼくの答えです」

 そうしてぼくは歌い続ける。
 声の届く限り、いつまでも。

 かれの力強い歌声と表情豊かなドラムだけが、店にひびきわたっていた。

サークル情報

サークル名:日本ごうがふかいな協会
執筆者名:ひざのうらはやお
URL(Twitter):@NGK_info

一言アピール
新刊「震える真珠」の追補短編のうちのひとつです。今回書き下ろしです。ひざのうらはやおの純文学小説集「震える真珠」ほか、様々なジャンルの作品を揃えております。どうぞご覧ください。

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