雨降りの後は

 ――バンッ。

 勢いよくリビングの扉が開き、思わず肩を揺らす。何事かと目を丸くして振り返ると、鬼の形相で仁王立ちする妻がいた。
「……ど、どうしたの?」
 恐る恐る声をかけるも、彼女は無言を返すばかり。そして、擬音を付けるならドスドスがぴったりな風に距離を詰めるなり、目の前にあるものを突き付けてきた。
 よく見るとそれは、記憶の彼方に置き忘れてきたもの。そして、今となっては不要なもの。
 いずれにせよ、懐かしさのあまりに、場の空気にそぐわぬ温もりを胸に宿らせていた。
「……何、これ」
 物語風に言えば、『殺気が体を貫く』といったところだろうか。妻の冷たく低い声が鼓膜を震わせる。
 そうだ。今は彼女を宥めることが先決だった。
「えーと……」
 とはいえ、何と言葉をかければいいものか。下手なことを言おうものなら、聞く耳持たずでマシンガンの如く怒りをぶつけられるに違いない。
 そんな沈黙を、『やましいことを隠し、言い訳を探している』と取ったのだろう。より一層、彼女の目が吊り上がる。
「だ、か、らっ! これは何かって聞いてるの!」
「えーと……手紙……?」
「それは見れば分かるわよっ! 私が言いたいのはそんなことじゃなくて……! あなたの名前が封筒の裏に書いてあって、『鈴木さんへ』って書いてあるってことは、あなたが『鈴木さん』に宛てた手紙ってことよね? 誰よ、その女」
「女って、読んだの?」
「……しょうがないじゃない! 押入れの整理をしてたら後生大事に仕舞ってある箱があって、蓋を開けたら書きかけの手紙が見えちゃったんだから……! しかも、『鈴木さんへ』って封筒が箱いっぱいに入ってるし! 結婚してるのに、他の女に宛てたラブレターが山のようにあるなんて思わないじゃないっ!」
 ……あ、人の手紙を勝手に読んだことは、悪いと思ってるんだ。言葉の前に沈黙が入ったのがいい証拠だ。
 いや、今はそんなことはどうでもよくて。書きかけの手紙を読んだのなら話は早い。
「開けてみてよ」
「……は?」
「だから、その手紙。開けて読んでみてよ」
「な……なんで私が他の女宛ての手紙を読まないといけないのよ」
「いいから。読めば分かるよ」
 僕の顔と手紙を交互に睨みながら、渋々封を開ける。そして、手紙に目を通し始めた。
 手紙の向こうの瞳が左右に揺れる。その往復を繰り返すうちに、だんだんと表情が変わっていく。
「えーと……?」
 最終的に彼女は手紙から視線を外し、伺うようにこちらを見る。気まずそうに声をひそめながら。
 してやったり。しばらく、顔から笑みを引けそうにない。
「分かった?」
「分かった、っていうか……えっと……」
 みるみるうちに顔が染まっていく。忙しなく視線が泳ぐ。良かった。先ほどまでの怒りを忘れてしまったみたいだ。
 その代わり、言葉にならない声を上げながら、口をパクパクしている。放送中のサスペンスドラマが佳境に入って気になるけど、ここで彼女を放置するのも可哀想だな。もうしばらく待っていよう。
 それから数分後。思ったよりも早く、彼女は顔を跳ね上げた。
「でも、だって、これ……!」
「そう。あれは全部、高校生の頃に君に渡そうと思って書いた手紙だよ。まあ、結局は一度も渡せなかったから、あんな山になってるんだけど……。旧姓は鈴木なのに、気付かなかったの?」
「す……! 鈴木なんてありふれた苗字で、わ、私宛てなんて、分かるわけないでしょー!? それに、高校の時のラブレターなんて……!」
「まあ、僕もそう思うんだけどね……どうしても捨てられなかったんだ。なんか、あの頃の気持ちまで捨てちゃうような気がして。ずっと持っていたい、とても大切な気持ちだから」
 ……あれ。どうやら、今ので最後の一線を越えちゃったみたい。耳まで赤くなったまま、ぐうの音も出なくなっちゃった。
 しばらくして、彼女は目を伏せたまま、ばつが悪そうに「……ごめん」と素直に謝る。そしてすぐさま、リビングから出ていってしまった。
 僕は、彼女の指から抜け落ちた手紙を拾い上げ、およそ二十年ぶりに目を通す。そうしていると、あの頃の若かった自分の想いも蘇ってきて、懐かしい気持ちでいっぱいになった。

 そう、あれは確か、入学式の時。壇上で新入生代表の挨拶をした姿に、一目惚れをしたのが最初だった。
 そんな彼女とは偶然にも、同じクラスになった。そこでの彼女は、委員長としてグイグイと皆んなを引っ張っていく割には、軽く天然が入ったおっちょこちょいで。失敗して恥ずかしくなると、途端にぶっきらぼうになる。その後は、そんな態度を反省したのか、いつもより少しだけ優しくなる。まるで猫みたいな気紛れさは苦手だったはずなのに、そのギャップが何故か可愛らしかった。
 残念ながら、彼女と同じクラスになれたのは、その一年だけだった。そしてそのまま時間は過ぎ、地味で目立たなかった僕は彼女と個人的に話をすることが無いまま、卒業してしまったんだっけ。彼女への淡い憧れを胸に秘めたまま。

 そういえば、どうして僕たちはこんな関係になったんだっけ?
 確か、三十手前で交通事故に遭ったんだ。救急車で運ばれて入院した病院に、たまたま彼女が看護師として働いていて。それには驚いたけど、もっと驚かされたのは、高校生の頃から僕の存在を忘れていなかったことだ。彼女曰く、接点が無かったからこそ、余計に印象に残っていた……らしい。普通、逆のような気がするけど。
 そうそう、逆と言えば。あの頃の彼女は仕事や恋愛のことで悩んでいて、よく愚痴を聞いていたっけ。交通事故に遭った僕を慰めてくれる訳でもなく。そんなあべこべな関係に、「普通は逆でしょ」って思いながらも、それが何故か居心地が良かった。

 そうして記憶を辿っていた僕の思考を現実に引き戻すように、オープンキッチンから彼女の声がかかる。
「夕飯の買い物に行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
 少し遠くで、玄関の扉が閉まる音がする。それを背にして僕は、サスペンスドラマの次の番組がCMに入ったのを眺めていた。

 オープンキッチンからは、夕飯のおかずの匂いが漂ってくる。今日は煮物系の甘い匂い。この匂いを嗅いでいるだけでお腹が空いてくるほど、僕の大好物だ。
 彼女が味噌汁を作る傍ら、ダイニングテーブルに食器を並べる。そうこうしているうちに、炊飯器からは米が炊けた匂いも漂い、いよいよ腹の虫が鳴りだした。
 二人分のお碗に味噌汁を入れる隣で、彼女が圧力鍋の蓋を開ける。刹那、湯気と匂いが一斉に広がっていく。その流れに逆らい、僕は鍋の中を覗き込んだ。
「……豚の角煮?」
「そう。好きでしょ? 豚の角煮」
「そりゃあ、まあ……好きだけど……。でも確か、脂っこいから苦手って言ってなかったっけ?」
 記憶の限り、豚の角煮が食卓に上がったことは無い。
 というのも、日々の食事は調理した人が食べたいものを作るのが、我が家のルール。普段は帰りが遅くなりがちな僕ではなく、町のクリニックに転職した彼女が作ることが多いため、我が家の食卓はほぼ、彼女がその日に食べたいもので占められている。逆を言えば、彼女の苦手なものは並ばないということだ。
 にも関わらず、今日のメニューは彼女の苦手な豚の角煮。どういう風の吹き回しだろう。
「……別に、深い意味は無いわよ。たまにはいいかなって思っただけ」
 肉を皿に移しながら、彼女はつっけんどんに答える。口を尖らせる。
 ああ、なるほど。そういうことか。
「……ありがとう」
「……何が?」
「分かってるくせに」
「知らないわよっ」
 あくまでもとぼける気だ。
 でも、今日は深く突っ込まないでおこう。こういう時に下手にイジると、余計に拗ねてややこしくなるだけだから。
 我が家の食卓に並ぶ豚の角煮に感動を覚えながら、優しく箸を入れる。力を入れずとも肉がほぐれる様は、何とも言えない幸福感を与えた。
 その感情が半減する前に、肉を一口。数回ほど噛んで、喉に流し込む。二口目は、白米も一緒に。
 そうやって噛み締めるように頬張る僕を見て、彼女がそっと笑みを浮かべた。それを見ていると、口の中に幸せの味が染み渡る。
 結婚してからというもの、僕が豚の角煮を食べるのは、彼女が例の病院で夜勤に入る時だけだった。スーパーの惣菜で買ってきては一人で食べていた。
 もちろん、スーパーで売っている豚の角煮も美味しい。だけどやっぱり、彼女と食べる豚の角煮に勝るものは無い。
 大騒動になりかけたけど、あの手紙を捨てなくてよかった。僕は心の底からそう思った。

サークル情報

サークル名:旭文芸喫茶
執筆者名:藤道 誠
URL(Twitter):@makoto_f_hikari

一言アピール
剣と魔法のファンタジーが大好きな個人サークルですが、アンソロ1本目は取っつきやすいように現代物で書いてみました。手紙が波乱を起こし、手紙で仲直りする夫婦です。紹介本も短編集もファンタジー一色ですが、短編集に掲載する物語の雰囲気の参考にはなるんじゃないかなと思います。

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