星見先生とぶどうパン

 夕どきの鐘が鳴るころ、店内はしあわせのにおいに包まれる。
 うちの店はお城の表門やお役所がある大通りを折れてすぐのところにあるから、鐘が鳴ってしばらくすると戦場もかくやというほど忙しくなる。この時間はお勤め帰り、あるいは夜勤の方が主なお客さまだ。季節のおすすめ、りんごの甘煮を包んだパイをはじめ、すぐに食べられる惣菜パンや食事に合う塩パン、角パンを時間に合わせて焼き上げ、きれいに並べる。自家製ジャムや、つきあいのある農家さんから仕入れたバター、はちみつも。
 先生が来るのは決まって多忙の波が訪れる前、焼き上がったパンを並べ終える頃だ。先生は星見塔の学者さんで、これから出勤し、朝まで星や月を眺めるのが仕事なのだと教えてくれたのはお城勤めの方で、それまではどんなお勤めをしているのか、まったく謎の人だった。
 いかにも起きたばかりといった様子のぼさぼさの髪、膝丈の外套は文官の証しだが、くたびれた鞄を引きずるようにして、猫背ぎみに歩く姿はどうにも風采があがらない。
 私の自信作であるりんごパイには見向きもせず、戸口にいちばん近い棚からぶどうパンを選び、お釣りを受け取るのも上の空。不潔ではないが、不審ではある。私に耳打ちしてくれた衛兵さんも、「あいつは変わってるから」と含みを持たせた口ぶりだった。
 けれど私は、変人だと囁かれる先生の浮き世離れした眼差しが好きだ。種まきや刈り入れの暦は星見学者さんが決めるから、私とも無関係じゃない、なんてこじつけを大切にしてしまうほどには。彼の眼が焦点を結ぶのは天上ばかりだとしても、それもまあよし。星を見つめる先生を眺める私、というわけだ。
 私はここの三代目だ。休みは少ないし、きついし、忙しいけど、パンが売れるのはうれしいし、お客さんたちとひとことふたこと、他愛ない言葉を交わすと気持ちが明るくなる。父は客にヘラヘラするな、媚びるなと怒るけど、「愛想はただ」が持論の母は気にしたふうもない。私もそう。
 それでも先生はなかなかに堅牢だった。世間話の一言をも寄せつけぬ鉄壁の無関心と、綿雲にも劣らぬ飄々とした雰囲気の前に自慢の愛想はふにゃふにゃに萎れ、「そのパイ、自信作です」「おいしいですよ」なんて売り込みの言葉さえかけられずにいる。
 そもそも、勤め先のほかは名前すら知らない。あの衛兵さんに尋ねれば教えてもらえるだろうけど、「君と結婚する人は毎日うまいパンが食べられるわけだ、最高だな!」とあけすけな主張をする人とは距離を置きたかった。これ見よがしな恋文を何度ももらったけど、彼が欲しいのは私の気持ちではなくて、パンをたらふく食べられる毎日なんじゃなかろうか。愛想はただ、でも無限に湧き出てはこない。
 パン屋の店員とお客さま。先生とそれ以上に親しくなりたいかと問われれば答えに困る。親しい、の種類にもよる。男女の仲になりたいのではなくて、先生に興味が、憧れと好奇心があるから、近くで見ていたいのだ。珍しい動物の観察や、かわいいパン生地の発酵を見守る心持ちに似ている。
 解決する気もないまま悩みのぬるま湯で遊ぶばかりだったある日、いつもの時間にやってきてぶどうパンを買い求めた先生が、ぼそりと「今夜は星が降ります」と呟いた。
「え? 星?」
 間抜けに訊き返すばかりの私には答えず、彼は踵を返して行ってしまった。
 流れ星は先生にとって特別な出来事で、だから教えてくれたんだろう。たぶん。――今夜、星が降る。が、夜と言ってもいろいろある。宵? 深夜? それとも明け方?
 うちは朝が早いぶん夜も早い。暗いうちからパン種の仕込みがあるから、いつ流れるかわからぬ星を待つために夜更かしはできない。時間を絞れば見られるかもしれないけれど。今度来てくれたときにでも訊いてみようか。
 今度、は翌朝だった。つまり先生が勤務を終え、帰るころだ。朝の忙しい時間帯をこなし、何の気なしに振り向いたら、夕方にしか来たことがない先生が佇んでいたので、私は文字通りに飛び上がった。
「ぎゃっ!」
「見ましたか、星」
 疑問形ではあったが、口調はまるで尋問そのもの。見て当然、と言わんばかりの傲慢さにはむっとした。
「そうはおっしゃいますけど、うちは夜も朝も早いんです。急に見ろと言われて見れるものじゃありません。だいいち、夜ったって長いでしょ、夜のいつなんです、ぼんやり待ってなんかいられません」
 先生は、雑草はびこる庭めいた前髪の奥で目を丸くした。
「……なるほど、そうですか。知らなかったとは言え、失礼をしました」
 失礼。これは失礼、なのか? 噂に違わぬ変人ぶりにいっそ感激していると、先生はぺこりと一礼して行ってしまった。
 ぶどうパンが焼きたてですよ、と教えてあげれば良かったかもしれない。夜勤明けでお腹が空いているだろうに。

 その日はお休みだったのか、夕方の鐘が鳴っても先生は姿を現さず、翌日、いつもの時間にやって来た。脇目もふらず最低限の動きでぶどうパンを買い求め、お釣りを受け取ったあと、これを、と封筒を差し出した。
 素っ気ない白い封筒だが、便箋を無理やり押し込んだのかぱんぱんで、彼が斜めにかけた鞄にそっくりだった。入るだけ詰めました、といったような。
「読んでください」
 そう言い残して猫背は去った。一部始終を見ていた母が、あんたもやるねえ、と肘で突いてきたけれども、色気のあるお誘いだとか、恋文のたぐいとは思えなかった。あの先生が、行きつけのパン屋の娘に手紙を、恋文を渡すなんて! 失望させないでほしい。
 さて、封筒の中身を端的に述べるならば「教本」だった。いわく「今の時期に見える星、月の満ち欠け、流星の由来、暦との関わり」。断じて「手紙」などではない。
 教本と言ったけれど、かみ砕いて解説されていて、図もふんだんに使われているから、読み進めるのに苦労はなかった。もしかすると、学術書を平易に書き直してくれたのかもしれない。
 それによると、いまの季節は、深夜から明け方にかけて流れ星がよく見えるらしい。特に今年は、月が若くて空が暗いから、星を観察しやすい、とある。
 ふむ。
 明日、一時間ほど早めに起きることにして、取り急ぎの返事を書いた。もっとも、教本に対しての返信なんて変だから、うちのパンのおすすめを三種類挙げ、その理由を述べた。中にはぶどうパンも入っている。
『ぶどうパンに使っている干しぶどうは、ぶどう農家さんご自慢の品で、云々』

 翌朝、私は眠い目をこすりながら屋根に上がり、しばらくぼんやりと空を眺めた。
 星がいくつも流れた。
 か細い光が呆気なく消えてしまうさまは、思い描いていた豪華絢爛な星の輝きとはまったく違う。切り傷のような、水にボタンを落としたような、あっという間のできごとだった。
 綺麗ではあったけれど、綺麗だからこそ、こぼれ落ちる星を受け止める手立てもないまま、光の遠さを見つめるしかない。
 空を見上げていると、普段は気にもかけない星の明るさや数、夜空の広さ、静けさがずっしり肩にのしかかってきて、先生は毎夜、こんなふうに空と向き合っているのか、やっぱり変わったひとだと実感する。
 だってこんなの、あんまりにも……寂しい。

 先生に推薦書を手渡した次の日、彼はぶどうパンのほかに、くるみとチーズを練り込んだ丸パンと、りんごパイを買った。どちらも私のおすすめしたものだ。
 あの先生が他人の言葉に耳を貸すなんて! と、いささか失礼な感激にうち震えるも、次の日はまたぶどうパンだけを買っていったから、口に合わなかったのか、それともぶどうパンこそ至上なのかと落胆するとともに、いや彼はこうでなくてはと妙な納得をしてもいて、情緒が忙しい。(母は「青春ねえ」とそわそわしている。目医者を探さねば)
 けれども、心配には及ばなかった。先生は休前日の退勤時に、ぶどうパン以外にもいくつかを買い求めるようになったのだ。もちろん、りんごパイも。
 となると新商品が出るたびに材料や成形のこつなどに言及した解説書を作成してしまうのが私の性分であり、先生は先生で「三日月と蜻蛉星が接近するので見ごろ」とか「季節の星座と農耕」とか、折につけぱんぱんに膨らんだ封筒を寄越した。
 パンのおすすめと天文情報の交換は、余人にはまったく理解できぬものだっただろうし、何なら私も首を傾げているくらいだが、成果と呼べるものがあるとすれば、封筒の裏書きから先生の名前を知れたことだろう。
「ところで先生、ぶどうパンを選ぶ理由をお訊きしても良いですか。まさか、夜の空みたいだから、なんてことは」
 あとは、まれに世間話めいた会話をするようになったことか。出勤前の貴重なひととき、足止めするわけにはいかないから、ごく上辺だけのものだけれど。
「……だからですが、不都合でも?」
 いやあ、いくらなんでも。そう笑い飛ばそうと視線を投げると、先生がりんごみたいな顔色をしていたので驚いた。
 ――ほんとうに、心底、驚いたのだ。熟したりんごが地に落ちずに、空高く飛んでいったくらいに。
 そのりんごが手元に飛び込んで来たみたいに。
「いいえ、ちっとも。……でも、ぶどうが星なら、りんごは月なんじゃないですか。ほら、これ、黄色くて三日月みたいで」
「……なるほど、興味深い考察です。検討の価値はありそうですね」
 などと言いつつパイも買っていくのだから、まったく素直じゃない。
 その日、売れ残ったぶどうパンを失敬して、こっそり食べた。しっかりと噛み応えのある生地はゆたかな小麦の味、甘みと酸味が絶妙な干しぶどう、ほんのりと酒の香り。うん、おいしい。
 夜空の味、と独り言ち、星見塔でりんごパイを囓っているだろう先生を想った。

サークル情報

サークル名:灰青
執筆者名:凪野基
URL(Twitter):@bg_nagino

一言アピール
SFと書いてサイエンスファンタジーと読む、そんなお話を書いています。何かと星を降らせがち。新刊はこれとは無関係の、ファンタジー風味の中編になるかと思います。ピピピと来た方はwebカタログをご覧下さい。

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