宛名あり、宛先なし

 お父さん、お母さんへ
 元気に過ごしていますか? フィスチェは元気です。

 とだけ書いた白い紙に続きは綴られず、少女の乾いた掌は硝子ペンを握ったまま凝固してしまった。机を挟んだ向こう側、窓の外は深い藍と藤紫混じる空に煌めく星粒が散りばめられ、その下には雄大な峰の連なりと丸太で作られた小屋が点在している。
 真夜中の明るい夜空を凝縮させた硝子ペンの先端からぽたり、茶色をとことん煮詰めた色のインクが小瓶へ逆戻り。それを何度繰り返しているのか、フィスチェはもう数えていない。乾いた唇に染みる溜息の数も、分からない。
 左手の届く位置に鎮座しているぬいぐるみの頭部を撫でれば、『書かねぇならさっさと寝ろ』と低い声で促される。
「うん」
 生返事が喉で鳴って、しかしフィスチェは椅子から立ち上がりもしなかった。根が生えたように、動かない。寝台が椅子から腰を浮かした体勢で体をずらせば座れる近さにあるにも関わらず、だ。
 何を、どう、伝えれば。摩訶不思議な世界たちを渡る旅路を、魔法という存在すらない世界の両親に、どう説明すれば。
 例えば。ペン先に残るインクを瓶の縁で慎重にこそぎ落とし、フィスチェは左手で頬杖を突いてぼんやりと外を眺める。空の色は、藍色が優勢となりつつある。

 わたしは今、【ルルナス】という峡谷沿いの山に来ています。そこでは、月の光を浴びた湖の水が地上から谷底に落ちて溜まって硬くなった石の採掘が盛んです。これには不思議な力があって、身に付けておくと落下した時に石が身代わりになってくれるそうです。なんでも、周辺の山でしか採れない植物があるけれど、それを採取するには険しい斜面を歩くらしく――

 何かが違う。上手く言い表せないけれど、これではないという自信だけがある。
 軽く体を前後に揺らしただけで床板と擦れあってガタガタと煩い椅子を鳴らし、フィスチェは背もたれに上半身の重みを預けた。屋根とふかふかの寝台、机に光源のランタンが用意されている宿にこれ以上の贅沢を求める訳ではないが、使い古された木製の椅子はずっと座るとお尻が石になったような錯覚を齎す。
『なに書こうとしてんだ?』
「手紙だよ」
 ぷ、と唇を尖らせてフィスチェは言うが、ぬいぐるみは当然フィスチェが広げているものが便箋だと知っている筈だ。何せ、机上に並ぶ筆記具を入手した場面を、彼も見ている。
『そうじゃなくてなぁ』
 よっこいせ、と机の上で立ち上がるぬいぐるみは、立派な獅子を愛らしく仕立てあげた姿だが、つぶらな目と鬣に光る金の二房を残せば他は真っ黒である。後ろ足だけで立ち上がる二足歩行の姿で、とてとて音を立てずに歩いてフィスチェの顔を真っ直ぐ見上げられる位置まで移動する。
『手紙に、読む奴に何を読ませたいか、って話だ』
「何を、読ませたい、か……?」
 ぬいぐるみの言葉を反芻し、フィスチェは大きな左目の青色を瞼で覆う。右目の赤は、眼帯に覆われた中で同じく閉ざされている。
 ただ、自分は生きていると。大変な時もたくさんあるけど、元気に過ごしていますと。だから心配しないでと。
 けれど。たったそれだけだと、ちょっと寂しい。
「手紙って」
『ん?』
 続きを書かせない算段なのか、便箋の白い部分に腰を下ろしたぬいぐるみが、フィスチェの呟きを促す。
「一体なんなんだろう」
 彼からすれば、初歩の初歩、というものかもしれない。普段はぬいぐるみで時折大きな翼獅子の姿を取る彼だが、自称【呪いでぬいぐるみになったイケメン】、つまり手紙を書く機会がある人間だった訳だ。イケメン、というのはあまり信じていないけれど。
「だって」
 先端に向かって一筋の光が細く走る硝子ペンを、彩度の異なる夜空に翳す。気付けば夜は深まり、便箋の近くに置いたランタンだけが室内の光源となっていた。
「送れないんだもん」
 宛先があってないような、届けられない人たちへ書いたところで。果たして書く意味はあるのだろうか。
 そもそも。書き始めたのも彼女のパトロンが「ご両親に手紙を書いてみてはいかがですか?」と提案したのが一つ。他は、旅先でそれぞれ筆記具を入手していた点が一つ。そして何より、フィスチェは簡単なものなら文字の読み書きができる。幼い頃、村で唯一の先生だった父が教えてくれた言語だけだが。
 フィスチェの旅は、地続きの世界を巡るものではない。世界の仕組みから異なる、あらゆる異世界を渡り歩くものだ。
 そして旅の目的は、ある願いを叶え、両親が待つ家に帰ること。それまで帰れない、否、帰らないと旅立ちに誓った。
 幼い少女の誓いを知っているからこそパトロンは提案したのかもしれないが、当のフィスチェはこうして頭を抱えている。発達や配送方法はそれこそ世界ごとで異なるが、別々の世界を渡り送る方法は今のところ、ない。
『なるほどなぁ』
 悶々と考えていると、ぬいぐるみの納得しましたと言わんばかりの声が手元で響く。
『書いたところで読む奴がいねぇから筆が乗らねぇ、と』
 ぱんっ、と。フィスチェの中で小さな雷鳴が弾けた。
「それだ!」
 ランタンに照らされるフィスチェの顔は憑物が落ちたように明るいが、ぬいぐるみは無言でしわくちゃな顔をしている。
 物凄く、呆れられている。
 うっ、と言葉を詰まらせるフィスチェを見上げながら、ぬいぐるみは長々と息を吐き出し。
『兎も角さっさと布団に包まってこい。書くも書かねぇも朝決めろ。いいな?』
 げんなりと下がった口角で偉そうに指示を出し、丸っこい手はフィスチェを指し、次いでランタンへ向けられる。
『ほれ、まずは明かりを消せ』
「……その前に片付けをさせてください」
 妙な気恥ずかしさが全身を縛るせいで、ぬいぐるみのペースに巻き込まれず言うだけで精一杯だった。

 様々な世界で多種多様な文字に触れたが、出来るのは読みばかりで――これは右目の特殊な力によるもの――書く方は自力で会得した一つだけ。生まれた世界を確かなものにし、家族を繋ぐ、つらつらと泳ぐレースのような文字の並び。
 夜を形作っていた藍色と小粒の煌めき織り成す空は、眩いばかりの黄金が刹那の黎明を知らせる。昨晩と同じく古びた硬い椅子に腰掛け、フィスチェは机の上に置いたままの細長い箱を開けて、弾力のある綿で満たした中から夜の時を留めた硝子ペンを取り出す。
「ねぇ、シオン」
 未だ寝台の上で船を漕いでいるぬいぐるみに、フィスチェは問いかけた。こっちはもう普段の旅装――黒一色に統一しつつも、レースとフリルをふんだんにあしらったブラウスとスカートが彼女の【普段の旅装】だ――に着替えているというのに、相棒は寝台が名残惜しいと言わんばかりに転がっている。
「シオンは、手紙書こうって思ったこと、ある?」
『んあー?』
 がふっ、と、いびきに似た音を出してから、ぬいぐるみは眠気の取れない声を出す。
『んなもん、出す相手いねぇと書かねぇよ』
 肌寒い夜明けの空気が、一層張り詰める。
 思えば、紆余曲折あって旅路に付き合ってくれる相棒の、こういった話を尋ねるのは初めてだった。だからといって、彼が一体何ものなのか、知りたい訳ではない。この質問は、あくまで手紙を出した経験がありそうだから、という推測ありきだ。
 とはいえ、返答しづらい回答に反射で返す器量をフィスチェは持っていない。一方で、彼女の反応を予め予想していたのだろう、上半身を起こしたぬいぐるみは続ける。
『全くいねぇ訳じゃあねぇ。お前と大体一緒だ、宛先があってないようなもんだからな』
 彼の回答に安堵した自分がいる。自分に近い理由を持っているからではなく、彼にも手紙を出したいと思える相手がいるという事実にだ。
「そっか」
 黄金が薄れ、凛とした水色が空に広がる。
 昨晩から一文字も増えていない、殆ど白い手紙を見下ろし、フィスチェは呟く。
「どうしてシェスターナーさんは手紙を書くことを勧めたんだろう」
『それこそ知るか。直接聞け』
 パトロンの名前を出して問えば、ぬいぐるみは雑な返しをしてから寝台から机へと跳んで移動する。
『ま、書いて損はねぇだろうな。誰かに読ませる文章ってのは頭使うし、書けば今までの行動も多少は客観的に見えるだろ。いかにお前がへなちょこ弱腰なのか分かぷぎゅ』
 いいこと言ってるなぁと感心するそばから、余計なことを付け加える。口がよく回るぬいぐるみの頬を押し潰す体で挟み込めば、流石のお喋りも止まった。
「そういうのは言わなくていいし、書かないから!」
 むむっと一声あげておいてから、フィスチェはかさついた手をぬいぐるみからインク瓶へ移動させる。固い蓋を開ければ、むわりと広がる染料の匂い。
『書くのか』
「うん」
 綴る言葉が相手にいつ届くか、それ以前に届けることが出来るのか。全く予想できないけれど。
 繊細で鋭利な硝子ペンの先端にインクを浸し、余分なインクは瓶の縁でこそぎ落としてから、紙面に触れさせる。少しぎこちなさの残るペン先が徐々に滑らかになる様を、机の上に座っているぬいぐるみは黙って眺める。
 少しずつ昇る太陽の光を受けながら、白い便箋に深い茶色の文字が敷き詰められていく。

 素敵な出会いや光景が待っていた時もあれば。大変な時も、危険な時もあるけれど。わたしは今日も旅を続けています。

サークル情報

サークル名:雫星
執筆者名:神奈崎アスカ
URL(Twitter):@k_aska_

一言アピール
幻想と剣戟、少年漫画と少女小説の雰囲気を纏めて煮込んだ、異世界幻想小説をちんたら書いています。フィスチェのせいかおかげか、星モチーフに敏感な体となってしまった。彼女の新しいお話も進めております。

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