夢幻泡影の我が身を刻む

 マットな光沢を放つ樹脂加工されたカバーを外すと、上質な手触りのハードカバーが現れる。表紙の中央に箔押しで印字されたタイトルは『Geneジーン and Memeミーム』。シンプルな題名の下に、刻み込むような手書き文字があった。
  “Remember Me”
 凹凸のある厚紙に引っ掛かって攣れた筆跡とインク溜りは、決して流麗とはいえない。それどころか、何かを押し殺すような歪な文字は、まるで爪痕にすら見える。
 その下には、少し小さな字で『除籍執行日』と書かれ、おのおの別の筆跡で、名前と日付が数段連なっていた。
 外したカバーをデスクの上に置き、チェアに腰掛けたエミリオ・R・ウエオカは一番下の行を指でなぞる。
『アニク・レヤンシュ・バクシ 船歴一四二年 二月二一日』
 それは、ちょうど今日の日付である。
 デスクのロックグラスに、琥珀色の液体を注ぐ。彼から貰った――受け継いだボトルの中身は残り僅かだ。
「……献杯」
 静かに呟いて、エミリオは『命の水』を呷った。

 エミリオは今年、五十二になる。アニクとは三歳差で、エミリオにとっての彼はまさに兄貴分であった。エミリオとアニクは同じ音楽学校に在籍したことがあり、その当時に音楽や映画の愉しみ方から酒の飲み方まで、様々なことを教わった。
 エミリオの暮らす「世界」はとても狭い。
 総人口はたったの二万人。母星である地球の全土から乗組員をかき集めた、宇宙移民船の中である。
 小惑星の衝突によって絶望的な状況の地球から、十四光年先の新天地『カナン』へと、この船は百五十年・五世代に渡る孤独な旅を続けている。旅は既に終わりに近く、エミリオはおそらく「約束の地」をその目にすることができるだろう。到着の頃にはもう老齢の域に入るゆえ、その大地を自らの足で踏むことは難しい。しかし、少なくとも肉眼で拝むことはできるはずだ。
 カバーは外したまま、ぱらりと本をめくる。
 限られた空間と資源の中で、五世代を繋ぐのは容易なことではない。宇宙移民船は、建造当時の精一杯の大きさの船に、上限ぎりぎりの人数を乗せた。持ち込むものには明確な優先順位が付けられ、いわゆる嗜好品や娯楽用品の類の順位は当然のように低かった。紙の書籍も同様である。
 書籍のほとんどが電子情報として船に積まれた中で、紙の「本」は骨董品の扱いである。だが、この本はある特別な想いを持って、移民船出発時から今この時まで、「読むための本」として人から人へと手渡されてきた。
文化遺伝子ミーム生物遺伝子ジーンに取って代わったその瞬間とき、ヒトは“人類”になった――利己的な遺伝子に踊らされるサルの行方』
 だいぶ擦れて痛んだ帯には、そんなアオリが踊っている。
「アンタのことは、俺が覚えてるさ」
 教えてもらったことも、語り合ったことも、その喋り方の癖や笑い方も。彼の残した文化遺伝子ミームと呼ばれるものは。
 ――Remember Me. 己という存在の、在ったことを。どうか覚えておいてくれ。
 それは、船の出生数調整のために『婚姻権』を持たない者から、同様の後輩へと代々手渡されて来たある種の「手紙」だ。ウエオカ家三男坊のエミリオもまた婚姻権を持たず、己の生物遺伝子ジーンを後の世代に残すことはできない。同様の立場だったアニクも、生涯独身でこの世を去っただろう。
「……しかし、堪えるモンだな」
 たったの三歳差だ。だが何十年も前、家の都合で音楽学校を退学するエミリオにアニクがこの本を渡してくれた時、既にアニクは今日が己の人生の最終日であることを知っていた。
 船内環境維持のため、船員は規定の年齢に達したら『除籍』される。その年齢は、立場によって異なった。宇宙移民団の本隊、「一般移民者」の区分であったアニクは五十五歳。そして、移民船の維持管理・航行運営に携わる「管理者」区分であるエミリオは七十歳だ。
 生まれ落ちた瞬間に、己が結婚できるかもいつ死ぬのかも、幾つかの例外はあるにしろ、あらじめ決まっている。
 そして死した後は装置の中で、船内を循環する元素へと還る。
 ――否。
 人間の体を構成している元素は、常にターンオーバーしている。
 去年アニクを構成していた炭素原子は、今日もう彼の中には無かっただろう。それはCO2となって彼の体から排出され、エアダクトに回収されて船体尾部の元素循環施設を経て、新たな有機物――炭水化物になっただろう。元素の一連の流れを管理する部門に所属するエミリオは、その様子をよく理解できる。
 そして、その一部は今エミリオの中にあるかもしれず、半年前にエミリオを通って、既に別の誰かの中にあるかもしれない。今日、アニクの体を構成していた元素が分解されて他の誰かのもとへ旅立ったとして、それ自体は何の特別さもないことなのだ。
 ならば、今日『消える』ものは何なのか。
 ただの、一定期間とある面積を占有する「元素の澱み」でしかないのか。その澱みが解かれて消えた後に残るものは、除籍名簿に載った一行のフォントの並びに過ぎないのか。
 デスクの抽斗から、本と同時に受け取った「ペン」を取り出す。紙そのものが情報の媒体として滅多に使われない現在、紙へ書くための筆記具もまた、誰もが持ち歩くようなものではない。
 アニクの名の下に、エミリオは自分の名前を書いた。Remember Me. 一体エミリオは誰に宛てて書くのだろう。自分の除籍執行日――十八年後の誕生日を書こうとして、筆が止まった。その頃には、この船はカナンの静止軌道上に停泊している。そしておそらく、若く健康なあらかたの人間は地上降下した後だ。
 エミリオは船に残るつもりでいる。残る以上は、規定通りに除籍されるはずだ。だが――。
「俺が、アンカーなのか。もしかして」
 地上降下が始まる、エミリオより下の世代は、恐らくもう婚姻出産の制限を受けない。生まれながらに「何も残せない」ことが決まっているのは、エミリオらの世代で最後だ。――そこまで考えて、エミリオはがりり、と頭を掻いた。頭の後ろでひとつに括った、白と茶の入り混じる癖毛がほつれる。
「何も残せないワケじゃないんだよな。アンタも、俺も。この本にはそう書いてあるんだったな」
 たとえ生物遺伝子を残せずとも、文化遺伝子を引き継いでゆくことはできる。その文化遺伝子こそが、人類を『人類』たらしめるモノだと、アニクのくれた本は主張する。
「酒の飲み方も、面白い映画や曲のレパートリーも、俺も教える相手が出来た。アンタの名前も俺の名前も、除籍名簿に残るだけだとしても……俺がアンタから貰ったモノは、そいつと一緒にカナンに降りる」
 ――だからこの本は、俺と一緒に分解装置に入って貰うとしようか。
 呟いて、自分の除籍執行日を書かないまま、エミリオはペンのキャップをしめた。
 上げた視線が、音楽学校時代から愛用のバイオリンを無意識に探して彷徨い、苦笑する。
「アイツに渡したんだったな」
 エミリオがアニクから継いだものを渡した相手に、共に。エミリオの相棒であったバイオリンも、その人物の手に渡って彼と共にカナンに降り立つ。
「寂しいもんだ」
 己が愛するものを、一人でも多く誰かの心に残したくて始めた、週一回公園で開いていたミニコンサートも終了だ。開き始めてから六年間で、船に乗り込んだ人々にゆかりのある、数えきれない種類の曲を弾いてきた。民謡、国歌、聖歌や宗教音楽、祭礼の曲。格式ばった「芸術」としての音楽ではない、人々の心に寄り添って来た音たち。その魅力を教えてくれたのもまた、アニクだった。
 楽器も希少品だ。次を手にすることは恐らく無理だろう。
 手放した寂しさと、託すことができた満足感と共に、エミリオは本にカバーをかけた。

   ***

「――ウエオカさん。あら、お昼寝中でしたか?」
 談話室の端、日当たりの良い窓辺に陣取った車椅子の上で微睡んでいたエミリオは、介護職員の声に目を覚ました。
「ああ、どうも。あんまり『日なた』ってもんが心地良くてね」
 のっそりと体を起こして返す声は、夢の中の己と比べて相当にしゃがれ、萎えている。
「あらあら、そうですねえ……。船を覚えてらっしゃる方は、皆さん言われますねぇ。私も子供の頃地上に降りた時は、何て眩しいんだろう、って衝撃でしたけど」
 四十歳代と思しき女性職員は、懐かしそうに目を細めて言った。
 あれから、三十年以上の月日が経った。思いがけず、エミリオはまだ息をしている。それも、カナンという約束の大地の上でだ。
「体に触れるもの全部が情報過多で、正直最初は老体には無理だろうと思ったがね。光も、大気も、全部があんまりにも乱暴に変化する」
 そのダイナミックさは、エミリオらが細心の注意を払って管理していた船内とは全く違った。そう、しみじみと笑う。
 もはや役に立つかも怪しい老人を「顧問」と称して強引に地上に招いたのは、かつて酒や音楽を教えた相手だった。エミリオの年代で地上に降下した人間はほんの一握りだ。この介護施設でも、エミリオは最年長だろう。
「だが、本当に毎日見ていて飽きない」
 ウエオカさん、本当に外を見るのがお好きですものね。リサという名の女性職員はそう笑う。
「ああ、そうだ。この間の可愛いお客さまから、お手紙を預かったので持って来たんです」
 そう言って渡されたのは、若い女性が好んで使いそうな可愛らしい封書だった。受け取ったエミリオは目を細めた。
「お孫さんですか?」
 その問いに、いいや、とゆっくり首を振る。
「三男坊だったもんでね。……ああ、だがある意味じゃあ、家族のようなものかもな。俺が慕っていた兄貴分の、魂を受け継いだ子なんだ」
 演奏家としてアニクの孫弟子にあたるらしい少女が、先日エミリオを訪ねて来た。音楽学校を退学して以来、移民者区分が違うアニクとの縁は切れていたため知らなかったが、彼はその「寿命」まで、人々に音楽を教えて暮らしたらしい。
 まさに、彼の愛した音楽を受け継いだ若者を目の前にして、目頭が熱くなったことを思い出す。
 ――ああ、あんたはただの、除籍名簿に並んだ一行のフォントの羅列なんかじゃなかった。
 その実感は、たしかにエミリオを救ったのだ。
「素敵ですねえ……」
 心底の憧憬が籠った声音で、傍らのリサが呟いた。その感嘆の深さに、エミリオは「おや」と思う。――たしか、リサは独身だっただろうか。
 船の規則、『婚姻権』に縛られる人間はもういない。だが、それがすなわち、全ての人間が生物遺伝子を残す世界になったことを意味するわけではない。あの本の、連ね、繋いでゆく『手紙』の意味は、この後の世界にもあるのかもしれない。
「……なあ、ミズ・リサ。ちょいとあんたに渡したくなった物があるんだが、俺を部屋まで連れて戻ってくれないか」
 いつも目の高さを合わせて話をしてくれる、施設イチの人気を誇る介護のプロにウインクする。少し目を丸くしたリサは、喜んで、とエミリオの乗る車椅子のハンドルを握った。

サークル情報

サークル名:N.T.P.
執筆者名:歌峰由子
URL(Twitter):@N_T_P_cm

一言アピール
現代FTから遠未来SFまで、大体ブロマンス的な何かを書いています。今回の掌編は、いぐあなさん主催のリレー小説に参加したキャラクターの外伝です。本編は『名も知らぬ詩 Unsung Relay Story』として、一服亭さまにて頒布されます。そちらもぜひ!

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