ボトルメール
目を開ける前の事は、何一つ覚えていなかった。
自分が一体何者だったのか、なぜこの場所に居るのかすらも分からなくて。
無機質な白い部屋の中でベッドから身を起こせば、知らない声が投げられた。
「お目覚めかい?」
芝居がかったその声色の方向へと視線を向ければ、そこには柔らかな笑みを浮かべた青年の姿があった。癖一つない黒い髪はさっぱりとした長さで整えられ、深い碧色をした瞳が向けられる。
「久しぶりだね、きみはきっと覚えてないと思うけど」
愛おしいものを見るように、ゆっくりとその深い碧を細めた青年は柔らかな声色で言葉を紡いでいた。
「――きみは、誰だ? 私は……?」
私は何者なのか、ここはどこなのか。それを問いかけようと口を開いても、それは声にはならなくて。――私、と自称するくらいなのだから、きっと自分は女であったのだろう。自分自身の性別すらも曖昧なまま、それでも思考もできて言葉を口にすることも出来る。
まるで、自分自身と自分を取り巻く世界の事だけを都合良く消し去られてしまったかのような奇妙な感覚を覚えた。
「きみが何者か、それはこの場所ではあまり関係がないし、そのうちきみも思い出す。ここはそういう場所で――俺たちは、この場所で仕事をするんだ」
機嫌が良さそうに笑みを絶やすことなく言葉を紡ぐ青年は壁を指さす。そこには青年自身が纏う制服のようなかっちりとしたジャケットが吊り下げられていた。
深い紺色のスーツにはいくつかのラインが刺繍され、徽章のようなバッチが付けられていた。それはまるでどこかの国の軍服のようでもあったが、それが本当に軍服なのかも私には判別する事が出来なかった。
「私は軍人なのか?」
「きみが軍人であったことはないよ」
私の問いによどみなく答える青年は少し考えるように視線を巡らせ、再びその海と同じ色をした瞳を私へと向け唇を開く。
「俺たちはね、メッセンジャーなんだ。ここは世界の果てみたいな場所で――どの世界にも干渉されない代わりに、他の世界に少しだけ干渉出来る場所」
青年から齎される抽象的な説明を理解することが上手く出来なかった私は、思わず眉を寄せてしまう。
そんな私の怪訝な表情を見たのだろう、青年は笑いながら「そうなるよねぇ」と頷いた。
「世界は分岐していてね。多層構造というか、並行世界というか。ここはそんな世界の分岐の外側にある果てで――だからこそ、他の世界に干渉出来る」
青年の言い分を何度も繰り返し聞き、分からないところは質問し、ようやく何となく理解出来た頃には喉が渇いていた。
つまり、人間はそれぞれどこかの世界線で生きていて、生きているうちは他の世界の事は知らず、自分が生きる世界が全てだと思っている。しかしその実、世界はちょっとした選択の違いで分岐して、その分岐によってまた違う世界が作られていくのだという。
青年が言うには、青年も私も、元々はそのどこかの世界で生きていた人間だったらしい――と言うことは、きっと私も彼も、その生涯を閉じてしまったのだろう。寿命だったのか、それとも他の何かだったのかは知らないが。
「死後の世界と言うことか」
私が彼へそう問えば、青年は苦笑交じりで「理解が早いけど、ちょっと違うかな」と肩を竦める。
「その辺りは、そのうちきみも思い出すだろうし、追い追いという事で。多分俺も言葉に出来ないだろうし――ちょっとよさげな言い方をすれば、俺たちは天使だ。悩める子羊に、少しだけいい夢を見てもらうっていうね」
何でも、私たち――というよりも、青年の仕事は夢の中で世界を繋ぐ事なのだという。
「例えば、違う世界に生きている同じ人間を夢の中で交差させてみたり、あの世とこの世を夢の中で繋いでみたり。そういうことをやるんだよ」
「へぇ」
そんなことをいきなり言われても困ってしまう。どんな人生を私が歩んだのかは全く知らないが、そんな人の夢に干渉して世界を繋ぐという壮大な話をされても、特に気持ちの高揚はなかった。
「当分は俺がきみの教育担当だからね、よろしく頼むよ後輩」
青年が笑みを浮かべてそう口にする。差し出された手におずおずと手を伸ばせば嬉しそうに握りしめられて。
「で、あなたのことは何と呼べば?」
青年は少し考えるように視線を巡らせて、パクパクと言葉を放つことなく口を動かした。
そんな彼の動作に首を傾げる私を見ながら、青年は少しだけ寂しそうに「先輩って呼べば良いんじゃないかな、この場所では名前もあまり意味をなさないから」と言葉を紡いだのだ。
「俺たちの仕事は、ボトルメールみたいなものだよ」
ある日先輩はそんな事を口にした。様々な世界線で出会っては恋をする青年たちの世界を交差させるという仕事を済ませた帰りに、ぽつりとそう口にした彼は「あ、ボトルメールって知ってる?」と首を傾げる。
「瓶に手紙を詰めて、海に投げるもの」
「そうそれ、俺はやったことないけどね。後輩は?」
「やったかどうかも、覚えていない」
私の言葉に「そうだった」と笑った先輩は、背を伸ばしながら言葉を重ねた。
「――早く、思い出せれば良いね」
どこか寂しそうなその言葉に、きっと私は先輩と何かしらの縁があったのだろうと思う。先輩だからと丁寧な言葉遣いをしようとすれば、敬語はいらないと嫌がられ、ぶっきらぼうに話せば嬉しそうに笑う。
「ねぇ後輩。俺たちが世界を交差させて、違う世界からのボトルメールが届いた人は、どう思うんだろうね」
「私はそれを受け取った人じゃない。受け取らないと分からないんじゃないか?」
何かを確かめるかのように呟いた先輩に私が言葉を返せば、先輩は眉を下げながら笑う。その笑みに、何だかよく分からないけれど、既視感が過った。
「例えば、後輩に大事な人が居たとして。その人ともう逢えないってなった時――夢の中で、その人と出逢わせてあげるっていうのは、慰めだったのかな」
きっと、この問いは間違えてはいけないものだ。直感で、そう思った。まっすぐに私を見詰める海の碧色を見据え、先輩の言葉に対する答えを必死に考える。今の私にとって、大事だと思える相手は――名前すらも教えてくれない、目の前にいるこの男だけだった。
「慰め――とは違うかもしれない。けれど、ホッとするとは思う」
上手く伝わらなくても、拙い言葉で言葉を重ねる。私が私という意識を獲得してから今までのうちできっと、今が一番必死だ。今度こそ、目の前にいる彼を手放したくなかったのだ。
「大切な人と、夢で逢えるっていうのは。きっと自分がまだちゃんと、その相手のことを大切に思えているって事だろう」
それはきっと慰めではない、どちらかと言えば戒めだとか呪いに近いものだと思う。けれど――私にとって、それは希望であり安堵だとも思うのだ。
もう逢えない大切な相手を、忘れる事なく想い続けていられるなら――私はもうそれで充分だと。
そう告げれば、彼は泣き出しそうな、それでいて嬉しそうな、なんとも形容しがたい表情で私を抱きしめる。いきなり抱きついてきた先輩にされるがままの私は、私を抱きしめる腕の感覚に再び奇妙な既視感を覚えて。
私は先輩に抱きしめられた事などなかったけれど、私はこの腕を知っている気がしたのだ。
――あぁ、『彼』だったのか。
抱きしめられた感覚がスイッチになったのか、私は目の前の男が誰であるかを思い出した。
それは、私が愛した男で。けれど、その愛を告げることなくその間を裂かれた相手だった。私は私自身が何者であったのかを、ようやく思い出したのだ。
「宙海」
短く告げたその言葉は、確かに空気を震わせ音になった。
私の言葉に驚いたようにその海の碧を見開いた宙海は、この世界で出逢った日にそうしたように愛おしいものを見詰めるようにその瞳をゆっくりと細めて笑みを浮かべる。
「天音、思い出してくれたんだ」
私の記憶と世界が繋がっていく感覚に、不思議と涙が流れる感触を覚えながら私はもう一度彼の名を呼ぶ。
「宙海」
愛しているとも、愛していたとも、どうしても気恥ずかしく面と向かっては言えなくて。けれど、その気持ちを込めて私は何度も彼の名を呼ぶのだ。
「俺からのボトルメールは、ちゃんと届いた?」
優しい声色で、宙海はそう口にする。私が死んだその日まで、何度も夢で見た宙海の姿を思い出しながら、私はゆっくりと頷いた。
サークル情報
サークル名:Sunny.
執筆者名:狹山ハル
URL(Twitter):@sunny_sayama
一言アピール
どこかの世界の日常を切り取るように文章を書き散らす人(狹山)による小説サークル。
現代ものをメインにほんのりSF世界観だったり、ファンタジーだったりと割と何でもやっています。
どんな世界でも世界は繋がっているし、恋や愛に性別などないを地で行く3L闇鍋サークルです。