モニター越しに

 世界を変えた疫病の発生から二ヶ月ほど経過し、私の住む北ドイツの街もすっかり様変わりした。
 人々の移動は厳しく制限され、今までの人生でつけた記憶もないマスクをし、家に引きこもる毎日が続く。私の勤め先もリモートワークが導入された。
 長くうねる髪をかきあげ、私は車窓から外を伺う。日中だというのに道行く人はまばら。旧市街地にはいつも観光客が溢れていたというのに、この変わり様にはさすがに溜息をつかざるを得ない。
 この街にはトラムが走っていて、私はどこに行くにもこの愛らしい公共交通機関を利用している。しかし、今日はそのトラムに乗るのも私を含めて数人しかいない。
 トラムは、私をある人のところへ運んでいく。彼は、今頃お茶の準備をして私の訪問を待っていると思う。それとも、学生だから研究のための資料を読んでいるのか。
 私と彼は、週末にひとつの約束をしていた。パリに住む、彼の妹のために。

 インターホンを鳴らすと、彼がすぐにドアを開けて私を迎え入れてくれた。
「こんにちは、ロゥ」
 私がマスクのままで微笑むと、彼も小さく笑みを返す。顔の半分を覆うマスク姿では表情が判然としないと思ったが、意外とそうでもないらしい。それがわかったのは、つい最近のことだけれど。
 私は彼に促され、通過儀礼のように洗面所を借り、十分すぎるくらいに手を洗ってうがいをして、持参したビニール袋の中にマスクを放った。
「元気だった? ロゥ」
「私はこれといって問題ない。アデール、貴女は?」
「私も」
 そう答える私に安堵したように頷く彼の薄暗いふわふわの金髪が、その動きに合わせてほんの少しだけ跳ね上がった。彼、ルドヴィク(私はほとんど愛称のロゥとしか呼ばないけれど)は、私より四歳年下の、フランスから私の街の大学にやってきた学生で、まあ、つまり……良いお付き合いをさせていただいている相手である。中世史を研究している彼は彼で、この状況には辟易しているようだが、そのような中でも最善を尽くしているとのことだった。
 他の都市への移動は厳しく制限されているが、さすがに同じ街の中ではそこまでではなく、私たちはお互いの体調を気遣いながら時々は会うようにしている。ドイツ人ではないロゥがここで困っていることはないか聞くと、「フランスに帰れなくなった」と肩をすくめるのみだった。
「パリにいる妹とは無料通話ソフトで連絡しているのだが、長期休暇期間に入ったというのに、帰れそうにない」
 彼の妹はコンスタンスと言って、私も何度か会ったことがある。しっかり者の明朗な、ロゥより明るい金髪のショートカットの女の子で、そして兄であるロゥが大好きなのだ。この事態に、彼女もさぞかしガッカリしているだろう。
 それで、私は彼に提案した。
「コニィに手紙を書こう。そして、それをモニター越しに朗読しよう」
と。それは、ほんの思いつきだったのだが。
 彼は、そのメールの返信に、「わかった、では、次の週末に」と短く書いて寄越して、そういうわけで私は彼の家にお邪魔している。

 二人でダイニングのテーブルに持ち寄った便箋を広げ、ペンで思いの丈を書きつける。ロゥは眉間に皺を寄せ、真剣な面持ちで便箋に向かっている。そういえば、彼は生まれのせいか、ノーブルな話し方をするのだけれど、書き物をするときはどうなのだろう。
 まあ、それは、読み上げるときにわかるからいいか。
 私たちがペンを走らせるサラサラという音が部屋の中に揺蕩う。

***

 妹コンスタンスと通話をするため、私はパソコンを立ち上げた。
 無機質に光るモニターをアデレードとしばらく見つめていると、やがて無料通話ソフトから入室音が鳴る。
「ロゥお兄ちゃん! あっ! アデールさんも! ふたりとも元気みたいね! よかった、こっちもみんな元気よ」
 モニターに映し出された妹とアデレードは、互いに手を振り合う。
「コニィ、実は、おまえに手紙を送ろうと思ったのだが、こういう状況で郵便事情も芳しくない。だから、ふたりで書いた手紙を朗読しようということになった」
 私が淡々と説明すると、妹は不思議そうに首を傾げた。
「どうして? 毎週こうして通話してるじゃない。わざわざ手紙なんて」
「私が提案したんだよ、コニィ。こんな時だから、普段しないことをするのも悪くないかな、と思って」
 アデレードが私を継いでくれた。妹は、それで一応納得したような顔になる。
「ふーん。わかった。じゃあ、聞かせてもらおうかな」
 四つ折りにした便箋を丁寧に開いて、アデレードはモニターに向かって手紙を掲げた。
「私から読むね。
『コンスタンスへ。
 春になったらロゥとパリへ遊びに行こうと言っていたのに、それも難しくなりそうで残念です。
 でも、落ち着いたら、三人で美術館を回ったり、サロン・ド・テでお茶したり、パティスリーでマカロン買ったりしようね。それを楽しみに、日々頑張ります。
 次に会う時まで元気でいてください。
アデレード』」
 読み終わると、アデレードは照れたような顔で長い髪をかき上げた。モニターの向こうの妹がすかさず拍手喝采する。
「ありがとう、アデールさん! 私も、ほんっと、楽しみにしてる! 今から行くとこたくさん探しておくね!」
「うん。買い物もしたいね。フランスらしい可愛い雑貨とかほしいな」
「蚤の市って行ったことあったっけ? すごく楽しいのよ!」
 コンスタンスとアデレードは、まるで実の姉妹のようにモニターを挟んで盛り上がっている。私がそれを無言で眺めていると、
「ロゥ、じゃ、次」
「お兄ちゃん、読んでよ」
 二人に同時に促され、私は躊躇いがちに便箋を広げた。モニターと真横から視線を感じる。
「…………Fluctuat nec mergiturフルクトゥアト ネク メルギトゥル。たゆたえども沈まず」
 私がラテン語で、次にフランス語でパリの標語をつぶやくと、二人は目を見開いた。
「……え?」
「……お兄ちゃん?」
「やはり、照れくさい。おまえにはこのパリの標語を送る。そちらはそちらで耐え忍んでくれ」
 私は、手紙を畳んで便箋にしまった。
「これは、のちほど必ず送る」
「ロゥ、あんなに一生懸命書いてたじゃない。そんな、今更」
 アデレードが私を片手で揺すぶるが、私は黙って首を振った。
「アデールさん、いいのよ。お兄ちゃんはそういう人なの。すっごい照れ屋なんだから」
 どうせ、こっちがびっくりするような恥ずかしいことでも書いたんでしょ、と、妹は図星を指すようなことを言った。
「まあ、届くの、楽しみにしてるわ、お兄ちゃん。それまで棺桶に入ったりしないでね。お兄ちゃんてば、普段はピンピンしてるのに、なぜか毎年インフルエンザに罹るんだから」
「人は、必ず死ぬものだ。遅かれ早かれ」
「ロゥ!」
 私の言葉にアデレードは眉根を寄せ、妹は唇を引き結ぶ。
「……だから、それを忘れず、今を精一杯生きるように。そして、どれほど揺さぶられようと、おまえらしさを忘れずに日々を過ごしてほしい」
「沈んでも、浮かび上がってやるわよ、私は」
 モニターに向かって拳を突き出す妹に、私は思わず微笑んだ。
「頼もしいな」
「お兄ちゃんのいない家を管理運営してるのは、この私だからね」
 両親が健在なのに、それもどうなのかと思うが……。

***

 兄たちとの通話を切ったあと、私はベッドに勢いよくダイブした。
「お兄ちゃんのバカあああ!」
 クッションを胸に抱いて、足をバタバタさせる。勝手に涙がボロボロ出てくる。
 こんな状況になって以来、一人離れて暮らしている兄のことを、私がどれほど、どれほど、どれほど、心配していたか、わからないのか。
 人は必ず死ぬなんて世の理、勿論知らないはずがないが、今言うことなのか、それは。
「お兄ちゃん……。会いたいよ……」
 私は、お兄ちゃんが元気で帰ってくるのを、いつも楽しみにしているのよ。お兄ちゃんが、アデールさんと手を繋いでパリの鉄道駅に降り立って、私はそれを笑って迎えるの。そんな簡単なことが、信じられないほど遠く手の届かないものになってしまった。
「……手紙……か……」
 私はごしごしと片手で涙を拭って、兄たちが送ってくれるという手紙に想いを馳せる。
 手紙とは、随分とアナログな手段に出たものだ。さっきまでこうして電子で繋がって顔も見たし話もしたというのに。でも、電源を切ってしまった今は、冷たく暗いモニターが暖かく二人を照らすこともなければ声を出すこともない。もちろん、ドイツの二人に私の今を伝えることもないだろう。
 兄の直筆なんて見るのは何年振りだろう。
 きっと、届いたときに、私はそれを見て、直に兄を感じることができるのだろう。
 そこに兄は、いないのに。

***

「ロゥ、きみ、縁起でもないことを言うものじゃないよ」
 私が彼を窘めると、彼は小さく肩をすくめる。
「歴史学をやっていると、どうしても死を思ってしまう。職業病のようなものだ」
 すまない、と、謝り、それから彼はデスクの引き出しを開け、何かを取り出した。
「……貴女にも、これを」
 私に差し出されたのは、封をされた手紙だった。
「どうしたの? 私たち、毎日連絡してるじゃない。メールしたり、電話したり」
「アデール。電子データというものは、万能に思われているが実のところ非常に脆いものだ。バックアップを取ったところで、徐々に劣化していく。データが消えたらあとには何も残らない。しかし、紙は、幾歳月を越えて後世に伝えられる」
 私が黙って目を瞬いていると、彼の手が伸びてきて、私の髪をそっと撫でた。
「私は、この電子全盛の時代に生きているにもかかわらず、今でもこのような手段をもって人に意思を伝えられるということの重要性に改めて気づいた。貴女の提案のお陰で」
「……ロゥ」
「だから、貴女にも渡したい。受け取ってもらえるだろうか」
 私は、彼に微笑みかけた。
「……もちろん」
 私の手の上に、ロゥが慎重に手紙を置く。羊皮紙のような色合いのレトロな封筒を。私は目の前に彼がいるのに、それが彼自身であるかのように胸に抱きしめた。

サークル情報

サークル名:StellaSolitaria
執筆者名:チャチャ・ポ・ヤス(せら)
URL(Twitter):@gotoromanempire

一言アピール
普段は古のRPGウィザードリィの二次創作をしていますが、そろそろ一次創作デビューしてみようかな〜と思い、自キャラで架空のドイツの街を舞台にした物語をこそこそ書いています。今回のテキレボではその物語を紹介した無料配布の冊子を出す予定です。ウィザードリィの本ももちろんあります。よければお立ち寄りください!

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