いつも序章を待っている
図書館の、本棚の裏側。音をたてないようにいつもの場所を確かめる。手紙はやっぱり来ていなかった。連休だから仕方ない。
静かに通路を進み、そっと鍵を開ける。その先にあるのは歴史研究会の――文化部として割り振られた部室とは別の、本拠地と言える部屋。私たちは「家」と呼んでいる、知る人の少ない隠し部屋。
全寮制の学校とはいえ、休日は休日。暇つぶしにここを訪れる会員も時々はいるが、今日は先客はいない。ポケットに鍵を入れ、奥へと進む。
壁沿いの本棚に並ぶ書物は、この歴史研究会の研究資料であり研究成果。その中の一冊、少しくたびれたノートを取り出す。このところ読んでいる資料は、他のそれらと同じく手書きの記録。いつものように最後のページを開く。ある時偶然開かれたそのページに書かれた言葉が印象に残り、このノートを読むたびに繰り返し、視界に入れてしまうのだ。
親愛なる学び舎の諸君、歴史とはなんだと思う?
歴史研究会の先輩が、かつてここにいた誰かが記した問い。何を思って書いたのか。いつかこれを読む後輩たちに考えて欲しかったのか、語らう相手が欲しかったのだろうか。もしかして、ちょっとかっこつけたかっただけかも、しれない。
歴史とはなんだろう。最初にこの問いかけを読んだときから考えている。ひとつ出した答えは、「人々が積み重ねるもの」。少なくとも、この歴研においては。
中高一貫の、全寮制。山奥にあって、外に出られるのは長期休暇くらい。なぜか「青の国」という通称で呼ばれる、そんな学園にある歴研の研究対象は、「青の国の現代史」。
五十年以上続く歴研の記録は膨大で、塵も積もれば山となることを実感する。書かれているのはとりとめもないこと。この人がこんな話をしていた。こんなことがあった。最近学園に流れる噂。意見交換を兼ねた雑談の記録。他にもいろいろ。
そして、いつからか始まった「依頼」の記録。
私たちも先輩から伝えられたそれは、いつも手紙から始まる。
図書館の奥、とある本棚。その隙間に依頼の手紙を差し込む。私たちはそれを受け取り、ものによっては応える。その顛末を、研究成果として記録するのだ。
知る人から伝えられる噂は悩める誰かに依頼の手紙を書かせる。とある記録は歴史になる。あるいは、ひとつの物語、かもしれない。
誰もいない空間。窓の外を眺める。広がる森の、どこまでが敷地なのだろう。雨が降った日には、外の景色はまるで世界の終わりのよう。
ここは世界の果て。地図上は全く違うけれど。そんなことを言うのは野暮というものよ。
いもしない誰かに心の中でそう言って、左手首の時計を見ると、結構な時間が経っていた。ノートを元の場所に戻して部屋を出る。
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「お嬢様」
通路を出て一息つき、近くの本棚を眺めたところで声を掛けられた。
「こちらにいるかと思って、お待ちしておりました」
穏やかで整った顔立ちに悪戯心を少し滲ませて隣に並ぶ。
「莞月、驚かせないでよ」
「驚くとはまだまだですね」
歴研の副会長は楽しそうに微笑んだ。口調とはあまり嚙み合わない。
「ねえ穂野香、なにか探してたの?」
「読んでたの」
「なにを?」
「資料」
「研究熱心だね、会長」
さすがだなと感心する。別に困りはしないけれど、何をしていたのかごく自然に相手から聞き出す、質問の仕方は意図的だろう。
「おもしろい資料を見つけたのよ」
「へえ、俺も読んでみたい」
「自分で探しなさい、副会長」
「うん。自分で見つけたほうが、いいだろうね」
適当にだろう、目の前の本を棚から引き出しながら言う。そんな些細なことも、記録すれば歴史になるのだろう。
名もない歴史は今ここに、生まれているのだ。