ニフーを待ちながら

 ニフーをはじめに見つけたのは文芸担当の小川だった。

 その日国道沿いにある「ブックス北野」で朝の品だしを終えた小川は、レジカウンターでのたりのたりとブックカバーを折っていた。ふと、レジカウンターから見て右手、児童書コーナーの片隅に猫の尾が揺れるのを見た。長くはない尾の先はかぎ状に曲がっている。猫? なぜ猫が? 野良猫が迷いこんだ? 小川はブックカバーをざんと揃えて置くと、ひらりと児童書コーナーへと向かう。そこに猫の姿はない。見間違いかなあ? でもそれは見間違いではないのだ。

 書店に猫がいたらいいと思わない? そう言ったのは実用書担当の森だった。ねこお? カワイイけど自分ネコアレルギーなんでつらいっす。PC書担当の庄野がまっさきに反応する。でもさあ、仕事している足元をうろうろっとしているの、猫が、それだけで仕事が楽しくなりそう。森は新刊コミックに防犯タグをぽんぽんと差し入れながら続ける。猫がいたらそれだけでしあわせ。毛があちこちに散らばって大変そうだし、庄野くんみたいなお客様だっているわけだしねえ、あ、森さん防タグありがとう助かるよ。コミック担当の椎名がやはり防犯タグを新刊コミックに差し入れながら言う。はい、みなさん居もしない猫にかまけてないでなるべくはやくその新刊出してくださいよ、もう平積み薄くなってるのもありますし。店長の筒井の言葉にそれぞれ、はい、はーい、ちぇっ。小川だけがレジで接客中、二千六百円です、チン、ガーガコッ、じゃらじゃらじゃら。

 しかし猫はあらわれた。小川が児童書コーナーで揺れる猫の尾を見た翌日、椎名がバックヤードへ入り込む猫の後ろ姿を見た。三毛猫。尾は短いかぎしっぽ。急ぎバックヤードへ向かうも、そこに猫はいない。ひとかけらも、毛の一本さえも。また別の日。備品の補充をしていた庄野の背後で、にあーーーおというふてぶてしい鳴き声が響いた。庄野がまだ折り目のついていないブックカバーの束を取り落として振り返るも、声の主はどこにもいない。庄野はくしゃみをひとつ、ふたつ、みっつ。そして森が、客のいない閉店間際の店内で、レジカウンターに我が物顔で座る猫をみた。猫だ! 三毛猫だ! そんなところに座るな! こら! 猫はレジカウンターから軽やかな仕草で飛び降り、しなやかに着地、右の前足が床に触れた瞬間にぽん! と消えてしまう。

  猫? そうです、三毛の。猫ねえ、でも防犯カメラには、ほらこれが閉店前の時刻でしょ、なんにも映ってないんだよ、あれでも森さんはカウンターに向かって何か言ってるようですね。猫がカウンターに乗っていたので叱ってるんです。でも何もいないでしょう、いいから早く椎名さんの手伝いに行ってください、今日は新刊コミック多いから。筒井に追い払われた森はのろのろとシュリンカーに新刊コミックを入れていく。シュリンカーは静かに、慎ましく新刊コミックを呑みこみ、やはり静かに、ビニル包装済みの新刊コミックを吐き出す。あとは並べるだけです、どうか気を落とさないで。

 猫がいよいよあらわれたみたい。それって三毛の? そう。かぎしっぽ。そうそう。ちょっとふてぶてしい奴。そうそうそう! くしゃみ出ましたからね、自分、いますよこれは。でも店長には見えないみたい。あと、防犯カメラの映像にも映っていなかった。筒井はいかにもこういうもの見えなそうな男っすよ。こら呼び捨てしない。はあい。ねえ我々の三毛猫に名前が必要じゃない? 名前。確かに。ねこちゃん・吾輩・ミケ・タマ・ユーレイ・漱石・ミーちゃん・太郎・カフウ。カフウ? なんですかそれ? 永井荷風だよ、知らないの? ああ庄野くんがナガイニフウって読んだ人。やだーもー言わないでくださいよそれ。お問い合わせでお客様の前で言わなくてよかったね。やだーやめてー。ニフーっていいんじゃない?
 ニフウ? ニフー? ニフー、伸ばすの。いいねなんだかかわいい。やだやだ俺は断固反対です。いいよねえ、ニフー。愛らしい。キュートだわ。かわいい。ひでえ、もう俺ナガイカフウ読めないですよあーあ。

 我らが「ブックス北野」の猫、ニフー!

 ニフーは「ブックス北野」におけるあらゆる場所に唐突に現れては消え続けた。台車に頬を擦りつけ満足そうに目を細めてぽんと消える。レジ袋の山を崩して(目撃した椎名曰く「やばーい!」という顔をして)ぽんと消える。レジ点検中に小銭に手を伸ばし、森に、こら! と叱られてぽんと消える。短いかぎしっぽの尾を機嫌よさそうに揺らす。あるときは不機嫌極まりないのですわたくしは、とぶんぶん振りまわす。「ブックス北野」の筒井を除く四人は時にいたずらに手を焼きつつもニフーを見かけるたびに鼓動を高鳴らせた。さっき文庫のところでニフーを見たよ、昨日はニフーがあくびをするところを目撃したよ、など情報交換のような自慢話のような話を差しこみつつ、入荷する本の山を解き、しかるべき棚へと入れ、あるいは積み、返品する本は段ボールへ詰めて、客がレジへ持ってきた本のバーコードを読み取り、カバーを掛けたり掛けなかったりするそれを袋へと入れ、紙幣や硬貨と引き換えに渡す。もちろんそれがすべてではないけれど。そういう日々が続いた。

 だがニフーはある日姿を消す。いつものようにぽんと消え失せる。でも二度とあらわれない。最後にニフーを見たのは、やはり筒井を除いた四人。四人は同時にそれを見た。

 棚卸の前夜。翌日の支度を終えた四人を、新刊・話題書コーナーの平積み書籍の上に顕現したニフーが見据えていた。書籍の上にその四肢をしっかと乗せている。こら! と叱る森にも動じない。いつものように恐れをなしてぽんと消えたりはしない。だめだろう、ニフー、そんなとこに乗っちゃだめだよ。庄野がしゃがみ、ニフーに手を伸ばして言い聞かせる。その、白と黒と茶色がほどよいバランスで混じり合った、緑色の湖のように澄んだ水を湛えたような目、耳も猫も丸こいつくりの、短いかぎしっぽを楽しげに揺らす三毛猫の頭に、庄野は、ぽん、と手を置いた。

 ニフーはしゅるん、と消えた。跡形もなく、影も形もなく、毛の一本さえも残さずに。四人は息を飲んで押し黙った。四人にはニフーがもう二度とあらわれないということがはっきりと分かっていた。なぜかはわからないけれど。それはもうほとんど直感だった。さわっちゃいけなかったんだ。庄野が震える声で呟いた。そうしてくしゃみをひとつ、ふたつ、みっつ。ひとつ間を置いてもう一度。森が差し出したティッシュで四人は鼻をかんだ。それで最後だった。

 おわり


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執筆者名:間川るい子

一言アピール
日々虚業に従事する見えない会社、羊網膜傾式会社です。
今回は庶務の間川るい子の見えない猫を愛でる小説をお届けします。
当作はText-Revolutions第2回で頒布した弊社社内報にも収載されています。その社内報には各社員の猫を愛でる文芸がございますので、気に入られたら、ぜひ。

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