「訣別の宵」 抄
「失礼致します、副長」
背中から呼び掛ける声に、土方歳三は鐙に掛けかけていた右足を下ろして振り返った。
四月十日の夕刻、明日の江戸城明け渡しを控え、当日の混乱を避ける為に松本良順の寓居する今戸に移るべく酒井屋敷を離れようとしていた、まさにその時である。
声を掛けてきたのは、四日の日──歳三が勝海舟を訪ねた日──に流山から歳三を追ってきた島田魁だった。壬生浪士組時代からの古参隊士で、長らく永倉新八率いる二番隊の伍長を務めた人物である。新八とは親しかったが、その離脱に際しては行を共にせず、勇と歳三に従った。伏見の戦の折に、具足を着込んだ新八を差し伸べた鉄砲につかまらせて塀の上に軽々引き上げた、という逸話も持つ剛力の巨漢ながら、折々に隊士名簿を作成するなど細かいところにも気配りが利く。現に、合流してきた時、彼は四名の隊士を連れ、かなりの軍資金を携えてきていた。殆ど身ひとつで江戸に急行していた歳三にとって、それが四日以降の活動にどれほど助けとなったか知れない。
「どうした」
「……差し出がましいとは存じますが……」
魁は、やや躊躇する風を見せて口ごもる。
「何だ」
「……一度、千駄ケ谷の方にお立ち寄りになってから、移られては如何でしょうか」
歳三は二度まじろぐと、思わず魁の顔を見つめた。
千駄ケ谷──甲州出兵以来別れている沖田総司が人知れず療養している植木屋平五郎宅のある場所。
今戸に移ってしまえば、今よりずっと遠くなる。それに、明日には今戸をも離れて鴻の台へ向かう。今日この時を措いては、千駄ケ谷の総司に会う機会は二度とあるまい。
心の奥底で、気にはしていた。
だが、決して外に出すことなく来ていたつもりだった。
それを、見抜かれたのか……
(……いや、この男自身、気に懸けていたのか)
歳三は静かに相手から目をそらし、鐙に足を掛け直した。
「……これから勝先生とお会いする約束がある」
早蕨の背に身を預けながら、努めてそっけなく応じる。魁はほんの少し惑うような表情を見せたが、それでは、と控え目に言った。
「私がひと足先に勝先生の所へお伺いし、副長の御訪問が少しばかり遅れる旨、申し伝えておきましょうか。……もし、お差し支えなければ」
歳三は再度、相手の顔を見た。
少し躊躇った後で、目を伏せて頷く。
「……そうだな。そうしてもらおう」
「はい」
魁は安堵に似た色を浮かべると、深く頭を下げた。
「供は、如何致しましょうか」
「……中島君を。ひとりでいい。目立っては、敵方に知れる」
「かしこまりました。では……」
「島田君」
再び一礼して退がりかけた魁を、歳三は声掛けて呼び止めた。
「……有難う」
殆ど呟きに近い言葉に、魁がハッと目を見開く。
「いえ──そのような」
「後を頼む。なるべく早く、今戸へ向かう」
「はっ」
畏まって頭を垂れる魁から目を離し、歳三は早蕨を出した。
総司が病篤い身を横たえていたのは、植木屋の庭の奥まった場所にある離れであった。
案内されて通った歳三が胡座すると、彼は静かに目を開いて、にっこりと微笑んだ。
「少しは、元気そうだな」
とても元気とは見えない病み窶れた顔を見ながらそんなことを言ってしまう自分が、歳三にはやるせない。総司の笑顔も、何処か悲しく透き通っているように思えてしまう。
「明日な、江戸を離れるんで、その前に、顔見に来たよ」
「近藤先生は、お元気ですか?」
「ああ」
歳三は少しの間も置かずに頷いた。
「ひと足先に、会津へ発たれた。慌ただしくてな、おめェに会ってから行けねえのを済まながってたよ」
訊かれるとわかっていたから、答は用意してきていた。本当のことなど、言えなかった。
「俺ァ色々と雑用があって残ってたんだが、それも済んだし、江戸城も明日明け渡されちまうし、居残ったって仕方ねえしな。──おめェも早く良くなって、会津へ来い。先生が首を長くしてお待ちなんだからな」
「土方さんは?」
「馬鹿。待ってるに決まってるだろう」
歳三は怖い顔をしてみせ、総司の額に手を当てた。──少し、熱があるようだった。
「……まあ、俺もちょっと色んなしがらみがあって、真っすぐには会津へ行けなくてね。そこのところがつれェんだが」
「しがらみ?」
「人の世話になっちまうと、断われねえ仕事も出来るのさ」
苦笑いする歳三に、総司はくすっと笑った。
「土方さん、律義だから……。でも、あんまり寄り道なさってると、私の方が先に近藤先生の所へ行ってしまいますよ」
「かもな」
歳三が嘆息した時、にゃあ、という小さな声がした。振り返ると、縁側に真っ黒い猫が一匹、ひょいと上ってくるところであった。
「あ……その猫、一度餌をやったら、来るようになっちゃって」
「ほう」
恐れる様子もなく寄ってくる黒猫に、歳三は目を細めて笑った。
「烏猫か。いいじゃねェか。大事にしてやれ」
烏猫とは、その名の通り真っ黒な猫のことである。俗に、労咳を病んでいる者がこの猫を飼うと病が治ると信じられていた。
「でも、庭に来る雀を狙うんですよ」
「そりャア、それが猫ってもんなんだから、仕方ねェだろ。心配なんざしなくても、雀だってそう易々捕まりゃしねえよ」
歳三は寄ってきた黒猫をひょいとつまみ上げると、膝の上に乗せた。そして、その喉を指で撫でつつ、半ばひとりごちるように言った。
「おい、猫殿。こいつのこと、宜しく頼むぞ。しっかり、面倒、見てやってくれよ」
「嫌だなあ。真顔で何おっしゃってるんですか」
総司は吹き出しそうな顔をした。
「土方さんたら、時々そうやって人以外の生き物に話し掛けるんだから。……今日は早蕨といらっしゃったんですか?」
「途中で置いてきた。馬で乗り付けたりなんざしたら目立っちまうと思ってな。中島君が見てくれている。……治るまでは、おとなしくしてるんだぞ。明日っから、今迄以上に薩長の連中がうろつき出すからな。つまらねえことで死んだりするなよ」
「はい。土方さんも」
「当たり前だ」
歳三は、身動きした猫を放してやりながら、唇をへの字に曲げた。
「そう簡単にくたばってたまるか。とことん戦ってやらァ」
肩をそびやかしてうそぶく歳三を、総司は何処か眩しげに見た。そして、そっと息をつくと、布団の下から右手を出し、歳三の方に差し伸べた。
「……付いてゆきます」
静かな声が、夕闇に流れる。
「体は此処に在っても、心は、ずっと、近藤先生と土方さんに付いてゆきます。……側にいます」
差し伸べられた手、窶れ骨張った手を、歳三は両手で押し包んだ。ぎゅっと握った。握り締めた。不覚にも不意に胸が閊えて、すぐには何とも言葉を返してやれなかった。
(……どうして)
目を閉ざして唇を引き結び、裡に呟く。
(総司なんだ)
自分よりずっと、若い。自分よりずっと、剣士として優れている。自分よりずっと、人から好かれている。自分よりずっと、純粋で清廉な心を持っている。
なのに、なのに何故、自分より先に、不治の病に命奪われようとしているのか。
代わってやれるものなら、代わってやりたかった。
だが、決して代わってはやれないことも、わかっていた。
「……土方さん、もう、行ってください。……私も、早く良くなって会津へ行けるよう、養生します」
穏やかな声に目を開くと、薄暗がりの中にそれでも透き通るような明るさを湛えた総司の微笑が見えた。
歳三は頷いた。
二度と、会えまい。
多分、口には出さないが、総司もそう思っているだろう。
だから、歳三も微笑した。最後の最後の別れに、つらく切ない顔は、見せたくなかった。
「……それじゃ、またな、総司」
言って、今一度その手をぎゅっと握り締め、それから腰を上げた。
(いずれ──泉下で)
最高の温かいまなざしを投げ掛けておいて、歳三は、総司の微笑に背を向けた。
烏猫のか細い鳴き声が、耳に残った。
──『まなざし』下巻「訣別の宵」より
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執筆者名:野間みつね一言アピール
架空世界物や似非歴史物が中心。大河ドラマ『新選組!』の伊東甲子太郎先生や超マイナーRPG世界を扱う等、ニッチな二次創作も。現在、架空世界の一時代を描く長編『ミディアミルド物語』を主に執筆中。今回の作品では“私家版 土方歳三”『まなざし』の「訣別の宵」冒頭から中途の区切りまでを「抄」として掬い上げた。