溝になく花

「俺はよぉ、初めてお前さんを見た時、“これが化猫遊女か!”って思ったんだ」
「何をいきなり言いしゃんすか……」
 甚一郎かんいちろうは梅井花魁の膝枕を借りながら、脈絡もなく紡いだ。還暦の老体に酒の巡りは早く、ふわふわと湯に浮かぶような温かさは極楽浄土にいるようだ。加えてこの店は景色が良い。格子付きの窓から赤提燈に照らされる夜桜が美しく、こうして二人で眺めるのは、仮初の夫婦となって二度目のことだった。
三月一日、それは二人の出会いの日。初めて迎える記念日は、仕事を早く切り上げてしっぽりと垂れ込んだ後、丸一年分の思い出話に花が咲く。
「初めて見た時になぁ、お前さんの目が金色に見えたんでぇ。あれに驚いて、お前さんの前まで近寄っちまったんだよなぁ……。ところが近くで見たら普通に黒色をしてやがった。不思議なこともあるもんだがぁ、アレが運命の瞬間ってやつだったんだろうな」
 二人が出会った夜も、今日と同じように吉原は盛況だった。客引き男に檻から伸びる女の手、訳知り顔の遊女に群がる旅人衆――――どこにでもある浮き世の喧騒の中に、ひそりと咲いていた梅井を見初めたのは甚一郎ただ一人だった。大店の脇に隠れるようにして佇むこの店には梅井花魁しかいない。騒ぎ立てる番付も、花魁道中すら蚊帳の外で、この店だけが孤島の如く隔離され、秒針すらも千鳥足に思える独特の雰囲気が好きだった。
「目ぇが金色に見えたんわ、主さんの見間違いにござんす」
 梅井は甚一郎の頬を撫でながらふわりと笑い、「裏を返しに来てくださった時にも聞きなんした」と続けた。梅井の優しい瞼はいつ見ても黒い。どうしてあの時、金色に見えたのだろう。あまりにも美しすぎて輝いて見えたのだろうか? そんなことを問うたこともあったが、梅井は首を傾げるばかりだった。出会いから一年、仮初の夫婦も板に付いてきた頃だ。窓からゆらりと忍び込んできた桃色の花びらが、甚一郎の手酌に浮かぶ。それは千鳥足を覚えた秒針が花びらに化けたように、ゆらりと不規則に且つ定期的に、暖かい春風に運ばれて座敷の中に落ちて行く。
「ところで主さん、そろそろ廓通いもお開きの頃でござんしょう?」
 梅井の柔らかな声色が鼓膜に届くと、甚一郎は物憂げに瞼を細めた。桜が浮いた手酌を一気に飲み干し、酒臭いため息を長く付くと、やれやれと重たい頭を持ち上げ、胡坐をかいて座り直した。
「梅井、お前さんとの男女の遊びが一年限りたぁよ、一体いつの約束でぇ? 俺ぁまだまだ、お前さんが必要なんだよ。なぁ、お竹の事ならなぁんも心配いらねぇんだ。なんたってアイツは、父親なんか居なくたって構わねぇんだから」
 甚一郎は梅井の手を両手で握り、一言ずつ訴えるように拍を取りながら説得を試みた。
「主さん」
 梅井は少しだけ柳眉を下げて困り顔を向け、ゆるゆると首を横に振る。
「お竹さんにとって、お母さんが死んだこの一年、父親の主さんだけが頼りにござんす。奥さんが先立たれた今日までの一年、この梅井が主さんをお支えなんした。次は、主さんがお竹さんと向き合ってくれなんし」
 心底心配している梅井の声が届いているのかいないのか、言葉の途中で甚一郎はぷいとそっぽ向き、握り返されそうになった手を袂の中へと引っ込めた。「主さん」と気を引こうと声を掛ける梅井の汐らしい態度までもが気に食わなくなったのか、甚一郎は「うるせぇな!」と怒鳴りつけた。
「お竹と俺の問題だろ! 女郎風情が口出しすんじゃねぇよ! 家に帰った所でアイツだって、俺とは喋らねぇんだからな! 俺の事なんか居もしねぇみてぇにしやがるくせに、野良猫ばっかり構いやがって……! こんなだから女の餓鬼なんか生むもんじゃねぇ……」
 頬を怒りに紅潮させながら憤りを撒き散らす甚一郎の腕をそっと擦り、梅井は「主さん」と繰り返し声を掛けて諫めさせた。ちらりと横目で梅井を眺めると、柔らかい微笑みをまだ困らせている。
女子おなごはね、十五にも成れば立派な女にありんす。とどのつまり、男の事をよう気遣えるようになろうというもの」
「気遣われた覚えなんてねぇよ!」
「主さんが怖い顔をするからにござんす」
 甚一郎は、んぐ、と音を鳴らして言葉を噤む。当を得ている。
「吉原にいらしたんも、元はと言えば主さんがおうちでお酒ばかり飲んでお竹さんにやつ当たるからでござんしょう?」
 ついには何も言い返せなくなった。
「奥方様の亡き後、一人じゃ生きても行けんって言いながら泣いて、荒れて、人の言うことも聞かんからって、一夜の夢を見に来たんが始まり」
 つい昨日のことのように耳に付いて思い出すのは、商売仲間の言葉だ。「そんなに寂しくて仕方がねぇなら吉原に行って慰めて貰って来ようか!」と肩を組まれ、半ば無理やり連れて来られた。この商売仲間は名前を次郎と言い、女遊びには目がない。妻に先立たれ、娘とも馬が合わず毎晩酒に溺れている甚一郎は上手く付け込まれ、次郎の下心に付き合わされた。とはいえ、家で途方もない悲しみを背負い酒に明け暮れるくらいなら、女遊びの一つでも興じた方が一時的にも気分は晴れるかもしれないと思ったのも確かだ。何よりも一回くらいお竹を怒鳴らない夜がないと、今度はお竹の気が滅入ってしまう。まさかこんな出会いがあるとは思いもしなかったけれど。
「仮初の夫婦に成れて一年、梅井は主さんの弱い所も優しいところも、不器用なところもよう分かりんした。その梅井が言うてますのよ、主さんの優しさがあれば大丈夫。お竹さんやって、父親の不器用なところはよう解るお歳です」
 袂に引っ込めていた手をいつの間にか膝の上に突き立て、甚一郎は俯いていた。この歳になっても優しさは身に染みる。思えば、亡き妻にも同じことを言われた。店が立ち行かない時、苦しい時、慰めてくれた優しい微笑みが、梅井に重なる。甚一郎は瞼を擦り「解ったよ」と一言漏らした。
「今夜は早々に切り上げらぁ」
「よくぞ言いなんした」
 梅井は勘一郎の俯く横顔を眺めて安堵した。それでは早々に、と勘一郎の傍で三つ指を付き、頭を垂れる。
「主さんとお竹さんが仲直り出来ますように、梅井もお天道様にお祈り申し上げます」
「ああ、ありがとうよ梅井。にしてもなぁ……一年も置いちまった。この溝は埋まるもんかね」
 勘一郎は照れくさそうに頬を引っ掻きながら、横目に梅井を眺めた。伐が悪そうに一縷の不安を口にすると、梅井は顔を上げずにくすりと笑った。
「主さん、どうしても素直になれん時はね、お竹さんの傍におるっていう、野良猫の手を借りなんせ。動物が傍に居れば、話しかけやすいもの。お竹さんの傍にいる野良猫を上手くお使いなんし」
 そう助言を添えて顔を上げた梅井の瞼は、見初めたあの宵と同じく金に輝き美しく、まるで月の色を宿したようだった。優しく微笑んだ彼女の表情が少しだけ眉間から歪み、まるで猫の様な錯覚を見せ始めると、勘一郎は全身が竦み上がった。摩訶不思議な現象を目の当たりにして恐怖のあまり今にも叫び出しそうになったが、それよりも先に勘一郎の耳もとで「勘一郎!」と鼓膜が破れんばかりの大声を放たれた。
「ぎゃぁ!」
 二倍の驚きで二倍の悲鳴を上げた。声の主は馴染みの次郎で、勘一郎が上げた声に逆に驚いて身を翻していた。両者顔を合わせて息咳切り、飛び跳ねた鼓動が止むのを待つ。
「勘一郎てめぇ、何処行ってたんでぇ? こんな大店と大店の隙間小道で胡座掻いてやがってよ! どんだけ探したと思ってやがる!」
「へ……? 何言ってんでぇ次郎どん?」
 自分は今の今まで梅井花魁と酒を飲んでいた筈だ。小さな座敷で酒を飲んで、夜桜を見ていた。ところが何処を見渡しても畳一つ落ちていない。次郎が言う通りここは大店の裏の汚い小道で、細い溝の傍に草臥れた雑草が生えているだけだった。さっきから眺めていた夜桜も赤提灯も、壁のようにそびえている大店の敷地に咲いているものだ。どんちゃんどんちゃん、相変わらずの喧騒は、小道の向こうから聞こえる。
「一体何やってんでぇ?」
 次郎は放心している勘一郎の頬をぺちぺちと叩いた。
「…………今、何日だ?」
 梅井とは一年も一緒にいた筈だ。
「ああ? おめぇさんもう痴呆か? 今日は三月一日だろ?」
 やはり一年は経っているということだろうか?
「ったくよう、初めて吉原きて迷子になるたぁ子供かよ? 嫁さん看取って一週間も経ってねぇってのに記憶まで飛んだんでぇ? お前さんを探してたお陰で番付の店が満席だ。どうしてくれんだ!」
 ペン! と再び次郎の張り手を食らった。どうやら時間は経っていないらしい。つまり、初めて遊郭にきたその日から、時間は経っていない。梅井もいない。今までの時間はなんだったのか、勘一郎には理解が出来なかった。嫁を看取ったショックで本当に頭がおかしくなってしまったのだろうか? 引っ叩かれた頭を押さえながら考えても、答えは出なかった。
「にゃぁん」
 何処かで猫の鳴き声がする。振り返ると、次郎が立っているそのすぐ背後に黒猫がいた。いつもお竹が可愛がっている野良猫で金色の目をしている。最後に見た梅井の優しい瞼にそっくりだった。
 
 なぁ梅井、お前はやっぱり化け猫遊女だったのかい? それとも死んだあいつが猫に憑り付いたのかなぁ? 誰かの手がなきゃ、まだまだ一人で生きてはいけなかったよ。独り立ちすんのに一年も掛かってちゃ、死んだアイツに笑われちまうかなぁ?
嗚呼、今すぐ、お竹に会いてぇな……。

 溝の傍で俯く老人の姿を、猫は黙って眺めていた。


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うずらやの小金目創庫(URL)直参 C-27(Webカタログ
執筆者名:領家るる

一言アピール
 うずらやの小金目創庫は、『うずらや:轂冴凪』『小金目創庫:領家るる』の合同サークルです。ひたすら愛梟と愛うずらを愛でる折本や、(少しふしぎ/含)SF本など書きたかったものだけを引っさげて参りました。「鳥散歩」「300字SS」「掌繋」「白衣ラリー」他企画参加致しますので、宜しくお願い致します。

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