【まお】

 祖母の家の猫は、「マオ」という名前だった。マオマオ鳴くからマオ。普通猫はニャーって鳴くもんじゃないのと、当時小学生だった私は祖母に聞いたことがある。
 マオは捨て猫で、私や祖母の前でもいつもきょどきょどしていた。だからその雄猫がマオマオ鳴いているのは、本当はニャーと鳴く勇気すらないからではないか――やせっぽちの老猫を見るたびに、私はいつもそう思っていた。

「どうも、隣に越してきました。河野真史こうの まおと申します。真実の真に、歴史の史でマオ、です」
「はあ、鏑城七瀬かぶらき ななせです。よろしく」

 よれたチェックのシャツに冴えない眼鏡。絵に描いたような、というか今時オタクでもこんなあからさまな格好はしないよなとすら思わせるほど、一昔前のファッションができあがっている。
 大学に入る少し前に祖母が亡くなって、飼い猫だったマオはさらにその数年前にいなくなっていた。私も、そういえばそんな名前の猫がいたななんて思いだしたのは、アパートの隣人が律儀にも引っ越しそばを振舞ってくれた後だった。

「マオさん、家の電球取り換えてもらっていいですか」
「え……あ、はい。構いませんけど、あの」
「あー、大丈夫です。男友達とか時々来ますから」

 彼が越してきてから半年たって、マオさんはアパートの皆の便利屋になっていた。どこで働いているのか平日は定時に帰ってくるし、土日も大体家にいる。だからこうして電球の取り換えを頼んだり、一階の角部屋に住んでいる大家さんの日曜大工に付き合わされたり。
 私もお風呂場とか、高い所の電球の取り換えは彼に頼むことにしている。マオさんは決まってばつが悪そうに頭を掻いて、ひょろりと長いその背を折り曲げるようにして私の話を聞いてくれた。

「か、鏑城さん。本当に入っていいんですか」
「はいどうぞ。っていうか、逆に気持ち悪いからそんなキョドんないでください」
「すいません、どうも」

 デザインも古めかしい黒縁の眼鏡を押さえつけたマオさんは、のそのそ靴を脱いで私の部屋に上がり込んだ。

お風呂場とトイレの電気を新しいのに付け替えたい。
 さして申し訳なさそうにでもなく頼んでみれば、彼ははい、とだけ呟いて真っ直ぐトイレに向かった。女子大生の部屋には興味がないらしい。

「椅子かなにかは、ありますかね? それだけお借りできれば、後は必要ないので」
「そこにありますけど……女子大生の部屋って興味ないんですか」
「仮にあったとしても、あるって俺が言っちゃったら変態みたいですよね」

 椅子に乗ってガタガタとカバーを外しながら、マオさんは空気を吐き出すようにして笑った。一人称、俺っていうんだ。意外。
 ともあれ私は作業するその背中をぼんやり見つめながら、祖母の家にいたガリガリの猫を思い出していた。ニャーと鳴く勇気もない、怯えきって可哀想なマオ。おぼつかない後姿が、マオさんに重なった。

「あ、あの。鏑城さん」
「はい」
「リビングに戻って結構ですよ。慣れてるんで」
「……ひっくり返りそうだったから」

 そんなに頼りなく見えますかね。
 マオさんはまた空気を吐くように笑ったが、まったくもってその通りだと思う。何かの拍子に足を滑らせて、そのまま頭を打って死にそうだ。
 背中をじっと見つめてると、やがて電球の交換が終わったようだった。オッサンくさい掛け声で足場にしていた椅子から降りると、彼はかけていた眼鏡を私に手渡してくる。

「え、なに」
「お風呂場、曇るといけないので」
「眼鏡なしで見えるの? っていうかコレ、度ォきっつ」
「至近距離だったら見えてるから、大丈夫だと……多分」

 大丈夫なわけがない。
 実際マオさんは壁に手をつきながらお風呂場まで歩き、更には台に上がろうとして足を踏み外した。
 むしろどこまで見えてるんだと問いたくなったが、かけると世界がぐらぐらし出すようなどの眼鏡をかけているのだ。本気で自分の真ん前しか見えてないないと言われても、なんら不思議ではない。

「マオさん、ウチで飼ってた猫に似てる」
「猫?」
「正確にはウチのおばあちゃんちで飼ってた猫だけど、マオっていうの。よろよろ歩くし妙に挙動不審だし、そっくり」
「猫ですか」

 マオさんはまたカバーを外して、慣れた手つきで電球を変えていく。昨日は一階の階段下の部屋に住んでるキャバ嬢のお姉さんから呼ばれてたし、そういう時ってやっぱり緊張するんだろうか。……案外この人、何も考えてないのかもしれない。
 電球を回す音がきゅるきゅると響く浴室内で、彼は少し考えて声を出した。少し、いがっぽい声だ。

「マオっていうのは、猫の鳴き声からきてません?」
「あ、それ。おばあちゃんも言ってた……今はそう聞こえる時もあるけど、猫って普通ニャーでしょ」
「でも、ニャーって名前つける人、あんまりいませんよね」

 電球が外れた。こちらに背中を向けているマオさんが今どんな表情をしているのかは、私にはわからない。ただ多分声からして、笑ってるんだろう。

「マオって、猫の中国語読みとかじゃなかったでしたっけ。いや、俺もあんまりそういうのに詳しいわけじゃないけど」
「そうなの?」
「調べてみるといいかも」

 そこまで知りたいことでもないので、適当に濁しておく。絶対ないとは言い切れないけど、向こう二年くらいは猫を飼う予定はない。
 マオさんはさらに続ける。

「あ、猫って鰹節ダメなの、知ってました?」
「うそ」
「聞いた話なんで、そこまで信憑性ないかもしれませんけど。鰹節ってミネラル……マグネシウムを多く含んでるので、あげすぎは駄目なんですって。でもそれって、何でも適量を守れってことだと思いますけど」

 俺猫飼ってないからわかんないんですけどね。
 人間のマオさんはこっちに顔だけ向けて笑うと、眼鏡返して下さい、と手を伸ばしてきた。その手に、分厚いレンズの眼鏡を返してやる。今時薄型とかそういうのが主流じゃないのかな。

「人間だって、食生活気をつけないと病気になるんだし。猫もそれと一緒なんじゃないですかね」

 なんともし訳なさそうに頭を掻いた彼は、それでは、と首を折り曲げて玄関から出ていこうとする。引き留めたのは私だった。
 確か戸棚の中に、実家から送ってきたお菓子なんかがいくつか入っていたはずだ。何度も大丈夫ですお気持ちだけでと頭を下げ続けるマオさんに舌打ちをかますと、彼は比喩ではなく本当に少し飛び上がってリビングに入ってきた。横顔が死にそうだ。

「コーヒー飲みますか」
「あ……はい。いただきます、はい」

 家から送ってきたクッキーとコーヒーを、テーブルの前で正座しているマオさんに差し出す。インスタントだから、味とか香りは勘弁してほしい。

「マオさん、マジでマオに似てる」
「はあ、猫のですか」
「そう、猫の。おばあちゃんが死ぬ何年か前にいなくなっちゃったんだ」

 猫は死ぬ前に姿をくらますらしい。
 それが痛みを避けるための本能的な行動だっていうのは、どっかのテレビで見た。別に、猫の方には飼い主に対して最後まで格好をつけたいとか、そういうことはないのかもしれない。

「勝手にいなくなるんだよ。すごいガリガリで、外に出たら一発で車にひかれそうだったのに。おばあちゃんが拾ってきてから、一回も外に出なかったのにさ、その日に限って窓から飛び出していったんだって」
「それはそれは」

 コーヒーに舌をつける。ブラックコーヒーは大人の飲み物で、全部飲めたらカッコイイみたいに思ってた時期があった。今はそんなこと関係なしに、角砂糖を一個だけ入れる。マオがどこかに行ってしまったあの時から、やっぱり苦いのは嫌いなままだ。

「好きだったんですね、マオくんのこと」
「……好きっていうか、可哀想だったなぁって。子供心に不憫だったんだろうって思う。風が吹いたら死にそうだったから」

 いつか死んでしまうんだろうと、子供ながらに分かってしまうほどみすぼらしい猫だった。ふらふら歩いて、ある日目の前でコテンと倒れて動かなくなるものだとばかり思っていたのだ。
 実際お正月とお盆くらいにしか祖母の家に帰ることはないのに、何となくあの臆病な猫は、どこにもいかないと思っていた。

「マオさんは、突然いなくなったりしないよね」
「さあ、どうでしょう。会社の関係もありますので」

 そう言うとマオさんは、残ったコーヒーを飲み干して立ち上がった。クッキーには手を付けないまま、もしかしたら甘いものは苦手なのかもしれない。
 お暇します、と頭を下げる彼を今度は引き止めず、私はその背中を見守った。

「それでは、クッキー美味しかったです。ごちそうさまでした」

 クッキー食べてない癖に。
 声を聞きながら、私はテーブルの上のスマホに手を伸ばした。猫にあげちゃダメなもの、少しだけ調べてみる。

「……猫、カフェインだめなんじゃん」

 それから程なくして、マオさんは部屋を出ていった。急な転勤が決まったのと、転勤先で結婚することを決めたらしい。
 角部屋の大家さんが対して興味もなさそうにそう言ったのを聞いて、私はやはりあの日コーヒーを飲ませなければよかったと、そっと唇を噛んだ。


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執筆者名:玖田蘭

一言アピール
 はじめまして、『創作サークル綾月』です!
2015年7月に設立いたしまして、現在12名のクリエイターが所属しています。
『創作サークル綾月』では文筆に限らず、さまざまな創作行為を通して表現活動をしていきたいと思います。
モットーは「一人ではできない。皆でならできるかもしれない」
どうぞよろしくお願いします。

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