その男、猫好きにつき

 和室に鎮座する炬燵から青年の上半身が突き出ていた。彼、水澤は常々「猫に嫌われたら生きて行けない」を主張してやまない男であり、その脳内には大学周辺の野良猫・家猫マップが作り込まれていると専らの噂である。
 今、彼は手元にスマートフォンを持ち、そのカメラを前方へ向けていた。先程から体は直線かつ腹這いで、そこから動く様子はない。周囲にクッション材の類はないので、そろそろ体勢が辛くなって来る頃合いだろう。
 カメラの焦点、縁側では猫が陽光にそよいでいた。長い毛が顔から尾先まで高密度でスパークし、陽だまりへ投げ出した手足や腹、胸は白、それ以外は濃茶と茶が混ざっている。冬の午後二時の南向きの座布団の上である。ぴったり閉まった窓ガラスの向こうには六畳程の庭があり、茶色い芝生と一本の松が見えるだけで見晴らしが良く、つまりとんでもなく陽当たりが良い。
「もっと近寄っていいのに」
 猫の隣で胡座を掻いている坊主頭の青年が片手をヒラヒラと振った。すると水澤は瞬時に眉間に皺を寄せ、スマートフォンを持つ腕を動かした。手がカメラと猫の間に入ってしまって、はっきり言って邪魔である。
 青年は高江と言い、水澤のサークルの先輩にあたる。高江は長い背を丸め、ヒラヒラさせていた手で傍らの携帯電話を取った。そして指先でトントンと表面を軽く叩くと、再び傍らに置く。
「近寄って猫に嫌われたら生きていけないので、大丈夫です」
 邪魔者が消えた画面に、水澤の目が再び吸い込まれた。
「猫カフェとか行くんだっけ?」
「行かないです。猫が寄り付かなくて俺の周りだけクレーターみたいになったら、もう生きていけないじゃないですか」
 水澤の視線は微塵も動かない。その様子を少し眺めると、高江は緩慢な動きで立ち上がり、和室の引き出しから煙草とライターと灰皿を取って縁側へ戻った。ひょろっと高い猫背が日向にやや短い影を落とす。猫の目がうっすら開き、そしてまた閉ざされた。微笑んだように見える口元では白い髭が微かに揺れている。
 この猫付き一軒家は元々高江の祖父のもので、彼が大学生になってから世話になっている。今日は大学のサークルの有志で鍋をするという話で、今は買い出し組の帰宅を待っている真っ最中だった。
 高江はガラス戸に手をかけると一息に戸を開いた。冷たい外気がドッと縁側へ押し寄せる。彼は軽く首を竦め、それから腰を降ろして今度は脚を外へ投げ出した。
「執念を感じる妄想だなぁ」
 首元を解してから、高江は煙草に火を付けた。白い靄が薄い空へ昇っていく。彼は顎を上向かせて味わうように煙を吐き出すと、スッと片眉を持ち上げ、傍らで溶けている筈の毛玉へ目をやった。
 猫は立ち上がっていた。寧ろ歩き出した後だった。水平やや下ぐらいに保たれたモップのような尾が、先端だけを左右に揺らして去って行く。その小さな後頭部の向こうには目を見開いた水澤の顔があった。両眉が目蓋と離れて盛大に持ち上がっている。猫は炬燵へ向かっているらしい。
 水澤はカメラのシャッターを切る事も忘れて、一歩一歩近付いて来る猫を見ていた。距離が縮まるにつれて口が開いていき、まごついた視線が畳の上へ落ちていく。猫の歩みは一定で足音はなく、感情に特段の乱れはなさそうである。やがて手が届く位置まで猫がやって来たところで、彼はついに顔を伏せた。同時に手にしたスマートフォンも畳に倒れ込む。
 猫は素知らぬ顔で水澤の背中をわざわざ踏み越え、炬燵布団を掘り上げて首を差し込むと、流れるようなほふく前進で炬燵内へ消えて行った。手慣れたものである。水澤が顔を伏せてから最後に尻尾が収容されるまで一分も経っていない。そして顔を伏せた水澤は一ミリも動かない。音も立てない。息すら潜めているようである。
 その後頭部を見て、高江は煙草をくわえた。そして庭へ体を向け直し、空を仰いでフーッと長い煙を吐いた。枯れた庭に時間が溶けていく。
「テレビぐらい点けとけば良かったなぁ」
 消えた煙の残像を目で追って、ようやく出て来たのはそんな言葉だった。今日は風がなく気温こそ季節相応に低いものの、大層良い天気である。家は大通りから遠い閑静な住宅街の一画にあり、地域的に老人が多く周辺に子供も赤ん坊も住んでいない。つまり背後の和室なら衣擦れの音だって拾えてしまう。不本意である。
 掠れた声が背後から漏れていた。最初は「えー」とか「あー」とか「どうしよう」とか、そんなありきたりの内容だったのだが、それが次第に具体性を帯び、遂には「ぐにゃぐにゃしてる」だとか「骨っぽい」だとか「体温高い」だとか「尻尾硬い」だとか、想像を超える初心な感想ばかりになった。聞いたこちらの胃が汗を掻きそうだ。
 恐らく猫が彼の体や脚に寄りかかっているのだろう。猫にしてみれば家具の使用ぐらいの認識なのだろうが、罪作りな話である。
「高江さん、高江さん」
 半身だけ振り向くと水澤がしっかり顔を上げていた。持ち上がった頬が紅潮して目が潤んでいる。首も赤い。スマートフォンは畳の上でのびていた。
「猫って重いんですね」
「六キロあるから」
 内緒話のように潜めた声が「六キロ」と繰り返す。
「ところでカメラは? 今シャッターチャンスでしょ」
 彼らの目がほぼ同時に投げ出されたスマートフォンに集まった。しかし、焦点が集合したのはほんの一瞬で、水澤の視線だけがすぐに外される。それから彼は両肘をついて頭を抱えた。
「下手に動いたらこの状態が崩れるかもしれないじゃないですか」
「ふうん」
「猫に逃げられるなんて生きて行ける気がしない……」
 高江は視線を僅かに遊ばせて、それから再び体ごと水澤へ向き直った。
「布団ぐらいは捲ってみれば?」
「嫌ですよ。それで嫌われたらどうするんですか」
「炬燵の中は夢の世界ですよ」
 その言葉に水澤がより深く頭を抱えて悩み始めた。肘が畳にめり込む程の勢いで、見ている分にも痛そうである。何せ自分に猫が寄りかかっているお宝映像なので、日頃から猫画像を収集する彼にしてみれば撮影せずにはいられない類のハプニングだろう。
「俺は写真が好きなんじゃなくて猫の可愛い姿を目視したいのであって、猫に嫌われたくないんですよ」
 呻くような水澤の言葉に、高江は指先の煙草を見つめた。
「そうだなぁ。何されて嫌だと思うかは、猫が決めるんだから」
「それは……」
「それに、ここで逃げられても猫カフェとか行けばいいじゃない」
 水澤が下を向いて咳き込むようにブッと息を吹き出した。それを見た高江の口の端が片方だけ持ち上がる。指先に挟んだ煙草を下に向け、家の外に灰を落とした。
「あああ、今まで行かない派で主張して来たのに。もう触らないとかあり得ない。猫触りたい」
「宗旨替えしたら?」
 水澤が顔を上げた。目元がほんのり赤い。
「いや、でも継続は力なりと言うか初志貫徹と言うか、途中でやめるのは良くないような気が」
 高江はサッと指を持ち上げた。指先には煙草が挟まっている。
「俺、さっきまで禁煙中だったんだけど」
 水澤の頬が迅速に引き攣った。目が「ダメですよね!」と言っている。しかし声には出さない。
「信念を貫きたいなら猫カフェを諦めればいいだけで」
「それですねそれがですねそれなんですよ。このぐにゃっとした重みがたまらないと言いますか逃れ難いと言いますか、人生における至福と言いますか」
「じゃあ宗旨替え」
「そんな事したら俺のキャラがブレるじゃないですか!」
 高江は少し考えるように視線を宙に泳がせ、それから煙草を吸おうとして一旦動きを止める。煙草は随分と短くなっていた。
 一方の水澤は曇った目で自分の手元を凝視していた。唇を僅かに開き表情は固い。いかにも深刻そうである。そこに籠った声がぼそっと落ちる。
「俺の価値なんて、もう鍋奉行ぐらいしかない」
 高江は吹き出した。それから目元を和らげ抑えた声で笑い出した。
「安心していいと思うよ。水澤君にブレはないから」
 高江は煙草を灰皿に押し付け、先程と全く同じ緩慢な動作で立ち上がり戸を閉めた。外気が絶たれ、再び縁側がじりじりと陽光で温み始める。戸が閉まっていれば、この時間帯は炬燵にいるよりも縁側の方が温かい。
 その時、背後から「あ」という声が聞こえてきた。何事かと振り返ると、水澤が「トイレ行きたいんですけど」と掠れた声を出し、瞳を揺らしながら高江を見ていた。


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執筆者名:亀屋たむ

一言アピール
 活動開始ほやほやの個人サークルです。ファンタジー中心でライトからハイまで、現代も異世界も書いて(いけたらいいなと思って)います。ラブは少ないよ! 最近は現代・変な生物・短編、の3拍子揃った小説をメインに修行中です。よろしくお願いします。

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