白露

 初めて目にするヒトの港町は活気があり、何もかもが珍しく興味深いものであったが、どこもかしこも埃っぽくて咳が止まらないのには辟易した。
「大事ないか、姫君」
 咳き込むたびに覆いを上げて顔を覗かせるえんじゅは満身創痍で、彼の有様こそが大事であるのだが、彼女はただ微笑んで頷く。槐の陽に灼けた相貌が和み、凛々しい眼差しがくしゃりと緩んだ。
 水面と船べり、海とおか。住む場所の違いがふたりを隔てることは最早ない。差し伸べた手と手が絡み合い、乾いた唇が寄せられる。確かにここは陸なのだと、幸福に目が回りそうになる。
「不便をかけるな。狭くて辛かろうが、もう少しの辛抱ぞ」
 海の底で一人、貴方さまに思い焦がれるばかりであった昨日までに比べれば、ここは天国のよう。この程度、辛抱のうちにも入りませぬ。
 声に出せぬ言葉を笑みに変え、幼子のように首を振って応える彼女に、槐は何を思うのだろう。
 触れあった手が、頬が蜜のごとくに蕩けそうなのは彼女ばかりではあるまいに、身を引いたその表情は、遠く船上にあった雄々しい若武者のもの。負傷と疲労をものともせずに、供らに声を張り上げる。
「者ども、急げ。英気を養い、次こそ鬼どもに一泡吹かせてやろうぞ」
 応、と野太い声がまばらにあがり、隊列が再び動き始める。歩みは遅い。それもそのはず、負け戦からの帰路であった。軍勢は多くの死傷者を出したようで、隊列に連なる者たちはみな一様に冴えない顔をしていた。将たる槐だけが生気に満ちている。
 従者らの顔色が良くないのは疲労や負傷、敗戦のためだけではない。荷車のひとつに据えられた大きな桶、海水を張ったそこにいる、半人半魚の女。ヒトからすれば異形そのものの、彼女の存在ゆえでもある。戯れに魚の尾で水面を叩けば、日除けの覆いの外にいる誰かが身を強張らせるのが手に取るようにわかった。
 ――鬼どもに負けたばかりでなく、水妖を連れ帰るなど。
 ――槐さまに限っては、誑かされたなどではあるまいが。
 ――声と眼で惑わしよるというな。
 ――戦の前からしばしば海に出られておったしな。しかしあの水妖、小太刀なぞ持って……。
 ――しっ、声が大きい。
 投げ交わされる不安と戸惑いは、彼女だけでなく槐にも向けられている。桶の縁に置いた腕に顔を埋め、ひそりと笑った。
 海を滑る小舟の上、波にも風にも動じることなく、腕を組んでひたと前方を睨む若武者の姿を一目見たとき、彼女は初めて、内海の人魚として生を受けたことを呪った。ヒトの子として陸で暮らす定めを負わぬことを嘆いた。槐との邂逅は彼女の全てを覆しかねぬもの――初恋であった。
 しかし、ヒトは鬼の敵であり、鬼は人魚の友である。人魚と鬼は内海に暮らす者同士、古来より手を携え、互いが互いを守りながら外敵を阻んできた。彼女が海を捨て、槐を望むことは人魚と鬼との約定に反する。
 ゆえに、ヒトと鬼との戦の混乱に乗じて、槐との再会を期した。戦の勝敗など、知ったことではない。槐はわたしのもの。ぬるい水面に映る青水晶の邪眼がぬらりと光る。
 外で従者らが噂している小太刀は、鬼の棟梁の倅が餞別にと寄越したものだ。
 猿に懸想か、つまらぬやつだな。唇を歪めて吐き捨てた一言はまるきり遠吠えそのものだったけれども、友はおろか、姉妹たちにも母にも悟らせなかった彼女の想いを、ただ一人見抜いたのが彼であった。
 彼は、渦巻く波が飛沫をあげる岩場の隅で、海を離れんとする彼女を待っていた。この小太刀を渡すためだけに。
「猿が見てくれ通りのけだものだったなら、遠慮なく斬れ」
 野蛮で無粋な彼らしい物言いであったが、どうしてか邪険にすることはできず、貰い受けた小太刀も手放すことができないでいる。
 ――海への未練か。自問に答えはない。
 いや、未練などない。陸には槐がいる。ともに参れと、傷だらけの腕で抱き上げてくれた槐がいる。生まれ育つ場所の違いが、種の隔たりが、槐との絆に何の障りとなろうか。
 荷車に揺られることしばし、辿り着いた槐の屋敷は閑静で庭の池も広く、すこぶる快適だった。
 槐は療養もそこそこに彼女をおとなった。言葉もなく、ただ固く手を握り合って過ごす幸いに、頭の奥が痺れる。
 これこそが、望み。
 これこそが、願い。
 ひめぎみ、と槐の熱く濡れた声が身をゆるゆると解いてゆく。
 波のうねりや湿った風、鬼たちの咆哮や同胞の歌声から遠く隔たったヒトの黄金の都で、彼女は恍惚に身を委ねた。

 槐の父という男が現れて、彼女を値踏みするがごとくに無言のままでめつけた翌日、奇っ怪な装束に身を包んだヒトがやってきた。
 目をかたどった文様が散りばめられた頭巾は、見ているだけで頭痛を催す。あれは良からぬものだ、と後退さると、「案ずるでない、父上が招いたまじない師だ」と槐が背後から顔を覗かせた。
「姫、せっかく我らの都にやってきたというのに、その尾では歩くこともままならぬではないか。それに、わしは姫の声が聴きとうてな、魔性を抑える秘薬を作ってもろうたのだ」
 呪い師とやらの得体が知れぬ以上、滅多なものを口にしたくはなかったが、槐に熱を込めて説かれては否とは言えぬ。
 腐った海藻の臭いが漂う秘薬を飲み下し、高熱と激痛にうなされること七日七晩。白々とした光の眩しさに目覚めると、自慢だった銀の尾がつるりとしたヒトの脚になっていた。
 見慣れぬなよなよとした脚だけでなく、夜具や畳にも鱗が飛び散り、へばりついていた。震える指で一枚取り上げると、脆く、ぐずと崩れる。濃く海の匂いが漂う中、おぞましさに腕をかき抱いた。
 せめて外の空気を、とぐっしょり湿った夜具からにじり出る。脚は重いわりにくらげのように頼りなく、立って歩くことなどできそうにない。やっとのことで障子を開けると、朝の金色の光が目を射た。
 悲鳴を上げると、家人やら小間使いの少女やらが飛んできて、あれやこれやと世話を焼く。あまりの不甲斐なさと混乱、凍えるような恐怖がないまぜになって胸を衝き、彼女は嘔吐した。しかし溢れるのは水ばかり、彼女にはそれが海の水であると瞬時に判った。
 海を吐き出すにつれ、身の裡にあった呪いの力が抜け落ちていくことに彼女は気づいた。気づいても、止めようがない。すっかり吐ききって脱力した身には何の力も残されていないことを、受け入れるほかはなかった。
 打ちひしがれる彼女とは裏腹に、槐は喜色満面で彼女を見舞った。
「夫婦の契りを結ぼう、姫。家の体面があるゆえ、正妻にはしてやれぬが、死が我らを分かつまで、ともに暮らそうぞ」
 ただただうつろが広がる身なれど、槐がいれば。一縷の希望に縋るしかない彼女に、是以外のいらえができようか。
「姫、名は何という。もう声に呪いは乗らぬ、わしに名を教えてくれ。呼ばせてくれ」
 彼女は黙って首を振った。
 呪いの有無ではなく、その名は人魚であった時のもの。今の彼女に相応しいものではなく、槐がその名を口にすることは侮辱であるとさえ思えた。好きに呼べばいい、と身振り手振りで伝える。
 吐き出す海水が尽き果てても、目からは枯れることなく水がこぼれた。止めるすべなど知らず、止めようとも思わなかった。
 槐は何くれと面倒を見てくれる。早く歩けるようにとつきっきりで手を引き、肩を差し出し、腰を支えてくれた。
 目にも鮮やかな着物、扇、山海の珍味。南の国の歌う鳥、大陸に住む毛長猫。数限りない品々を彼女のために用意し、夜ごと彼女をおとなって床をともにした。ヒトの言う夫婦の契りというものを初めて知ったが、彼が熱に浮かされた海獣のごとくに高ぶるほど、自身のうつろを思い知らされるようで萎え、冷めた。
 どうして。彼女はまたも自問する。陸には槐との幸福があるはずだった。住む場所の隔たりさえ除けば、睦むために憚りとなる人魚の力を失えば、安らかに穏やかに、天寿まで蜜月を過ごせるはずだった。
 どうして。――自問の答えは、やはりない。
「姫。海での暮らしを聞かせてくれ。鬼が巨万の富を隠し持っているという噂を聞いたことがあろう。それはまことか? 次に鬼どもを攻めるときこそ、彼奴らの最期。金銀財宝の雨を降らせて見せようぞ。さあ、泣くのはおよし。笑っておくれ、わしの姫君」
 槐の睦言は今やいばらとなって彼女を責め苛む。彼女の望んだ幸福と槐の語る幸福が少しも重ならぬことにようやく思い至り、高いびきをかく槐の腕からそっと抜け出した。
 頼るべきはただ一つ。
 物入れの奥から手探りで掴み寄せたそれは、何もかもが変わり果てた彼女に静寂を湛えて寄り添う。
 ――遠慮なく斬れ。
 男の強い口調が耳に蘇る。
 陽炎のごとくまなうらに立ち上る剛毅の鬼の姿が、彼女を突き動かした。
 衣紋掛けに広がる白無垢に、彼女は刃を振り下ろす。真白の絹が舞うさまは、雪か雲間の光か。
 月が冴え冴えと青い夜のことであった。

 そして彼女は船上にある。目指すはヒトの、黄金の都。
「……若、あの」
「なんだ」
 石を海中に投げ込む調子で応じる傍らの男を見上げる。その視線ははるか遠く、黄金の都を差して燃え爆ぜていた。
「呼んでくださいませんか、わたくしを」
 彼女に結ばれた眼が胡乱げに眇められ、やがて吐息がこぼれた。
「白露」
「……有難う存じます、スミレさま」
「誰がその名で呼んでいいと言った」
 途端に苦虫を噛み潰したようになる男の狼狽ぶりに、戦を控えた身ながらふふ、と笑んでしまう。
「呪いの声は失いましたがゆえ、それほどお焦りにならずとも」
「そういう問題ではない」
「では何か不都合でも、菫さま?」
 ち、と大きな舌打ちとともに身を翻した鬼の背に、白露は確かに見た。
 身一つで海に生き、死んでゆく者の矜持を。己の足で立つ者の誇りを。
 ――自らの手で望みを果たさんと、爛々と閃く炎を。

 うつろがひたひたと、満ちてゆく。


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サークル名:灰青(URL
執筆者名:凪野基

一言アピール
剣と魔法と理屈のファンタジー、文系SFを執筆しています。初の直参となるテキレボ4では、これにファンタジー的ディテールを加筆した完全版を含む、海と人魚の短編集を発行予定です。ピピピと来た方はwebカタログをご覧くださいませ。

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白露” に対して4件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    まさかの再びあやかしの世界へという展開ヤバイ。好き。
    人間として暮らすのが幸せというエゴイストの書き方もスゴい。

    1. 凪野基 より:

      お読みいただき有難うございます。
      好きと言って頂けてとても嬉しいです!
      普段はあまり暗いものを書かないので、試行錯誤でした。ヒトと人魚と鬼、それぞれにエゴがあってぶつかり合って理解しあってないギスギス感が出ていればいいのですが。

  2. 跳世ひつじ より:

    ラストの展開にドキドキした!!
    選び抜かれた和の単語と、世界観の堅牢さがとても好きでした。色っぽい。完全版をものすごく読みたいです……。

    1. 凪野基 より:

      お読みいただき有難うございます。
      滅多に書かない和ものを猛者たちに集う場に提出するのはどきどきでした……。
      嬉しいお言葉に舞い上がっています。
      完全版は、恐らく少し違った印象になるのではという感じで、絶賛手入中です。よろしければテキレボ当日、お手に取ってお確かめくださいませ!

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