和やかなる時~衣川~

 陸奥国府・多賀城から、北へはるか百五十里の距離に、安倍氏の住まう衣川の館がある。
 藤原経清ふじわらのつねきよは、黙々と北へ続く奥大道を歩んでいた。
 初夏の雨上がりの道はぬかるみ、泥を跳ね上げ、馬で進むには難儀である。徒歩のほうが馬の具合を気にしなくてよいと判断してのことだったが、さすがに歩みが百里を超えたときには疲労を覚えた。
 水を含んだ空気が肌にまとわりつき、背には絶えず汗が流れ続け、経清の衣はぐっしょりと濡れている。夜を徹して歩き続けたせいか、脹脛が腫れズキズキと痛む。だが、奥大道の道筋に植えられた紫陽花の愛らしさが、経清の心を和ませた。
(都も暑いが、陸奥も夏の暑さは存外に変わらないものだ。北国だから夏も涼やかだと思っていたのにな)
 経清は苦笑いを浮かべると、緩んだ草鞋の緒を結び直し、歩みを進めた。日暮れまでには安倍の館に到着したい。今宵は安倍一族の宴があるのだ。
 経清は都の藤原一族の流れを汲む貴族であった。もっとも、貴族とはいっても、中央で職を賜るほどの家柄ではなく、十八の年に陸奥国・多賀城に赴任してきた。
(この地に住んで、もう二年か。長かったような、あっという間のような……)
 経清は、西にそびえたつ栗駒山を見上げた。都育ちで山は見慣れているはずなのに、栗駒山の大きさには圧倒される。雄大な栗駒山を見るだけで、陸奥の広大さがわかる気がする。
 経清が向かう衣川には、陸奥・奥六郡を支配する豪族・安倍一族が住まう。安倍氏は数代前から陸奥の地を治めてきた。
 土地は朝廷のものである、というしばりは、今は綻んでいる。新たに開墾した土地の所有を認められる現在、豪族たちは土地を求め始めている。摂関家や寺社に土地を寄進し、力を得、実効支配権を得るものもいた。かくいう経清も、亘理に所領があるのだ。
 安倍氏は租税を多賀城に納めることで、陸奥の地の支配を認められている。米だけではなく、山々から生み出される金、良質な馬、北海の海豹の皮、上質な絹など、その品々は朝廷や国府を満足させるものだった。税さえ納めれば、朝廷は安倍氏に対して何も言うことはなかったのだ。陸奥守にいたっては、これだけの税を納めたのだから安倍氏に対して礼を尽くすべきだと、こうして経清を衣川まで赴かせているのだ。
(もう陸奥では、坂上田村麻呂や阿弖流為の大戦は、過去のものになっているのだろう)
 日が傾きかけている。経清は大きく息を吐くと、足裏に力を込めた。

 夕陽を背にした衣川の安倍館は、鶴が羽を広げているかのような優美さをたたえている。
(何度見ても圧倒されるな。亘理の我が館とは規模が違う)
 案内の男についていくと、館内は宴の華やかな雰囲気に包まれていた。女たちが次々と酒を運び、かわらけがどっさりと用意されている。脂したたる鴨肉や雉肉、たくさんの干し鮭、あわびの蒸し物の匂いが、腹を空かせた経清にはたまらない。
 高く盛られた強飯には、麦や粟が混じっていない。干ばつのため飢饉に喘ぐ西の地では、役人といえど麦・粟・ヒエまじりの飯がほとんどだったなと、経清はため息をついた。末法思想が広がる都の疲弊ぶりと陸奥の豊かさの差異を、経清はまざまざと知った。
「亘理の経清どの! 今宵ははるばる遠いところを、ようお越し下された」
 安倍一族の当主・頼良に声をかけられ、経清は頭を下げた。四十に近い頼良は若々しく、色白いながらも逞しい体つきをしている。はるか昔、坂上田村麻呂と戦った阿弖流為はこのような男だったのだろうかと、経清は頼良の笑顔を見つめながら思った。
「此度は、安倍の皆さまの宴にお招きいただき、恐悦至極に存じます」
「そう堅苦しい挨拶をされるな。多賀城では、いつも経清どのにお世話になっておりもうす。特に、息子貞任のことでは、経清どのには何とお礼を申し上げればよいやら」
「あ、いえ……」
 貞任とは頼良の次男で、経清と同い年の青年だ。多賀城で顔を合わせて以来、妙にウマが合い、経清とよく弓や剣の稽古をしているのだ。貞任が亘理や多賀城の藤原館に寝泊まりするほどに、二人は仲が良い。
「私も貞任どのからは、良き刺激を受けております。出来ましたら、今後ともお付き合いを続けていきたいと思っております」
「そう言ってくださると嬉しい。しかし、近々貞任を厨川の柵に行かせることにしましてな」
「えっ?」
 厨川は、衣川よりさらに北の地にある。厨川には安倍氏の城柵が築かれていた。
「それはまた、なにゆえにございますか」
「貞任も、もう二十歳になりまする。いつまでたっても、この衣川で遊ばせるわけにはまいりませぬ。ふたつ年下の弟の宗任には鳥海柵の守りを任せられるというのに、あの子ときたらフラフラしてばかりで、これでは安倍の跡取りとして不安にございます。厨川は北の守りの要。貞任にも柵の主としての自覚を持たせねば」
「……」
「今宵は、貞任を送る宴にございます。どうぞ、ゆるりとお過ごしくださりませ」
 頼良は微笑むと、女たちに酒をもっと運ぶよう指示した。
(貞任が、厨川に行くのか)
 経清は、貞任の姿を探した。宴の主役だというのに、どこにも見当たらない。渡殿を歩いていると、西の対屋の隅でちょこんと座っている貞任を見つけた。
「貞任」
 経清の声に、貞任はしばし首をかしげて、ゆっくりと振り返った。
「……なんで、経清がここにいるんだ」
 貞任はぼんやりと経清を見上げ、ぽつんと呟いた。その表情はいつもの勝気なものとは違い、どこか寂しげだった。色白く、美しい顔立ちをしているだけに、貞任からは儚さを感じる。経清は貞任の隣に腰を下ろした。
「私も宴に呼ばれていたんだ。頼良どのから聞いていなかったのか」
「聞いてない、と思う」
「なんだよ、思うって」
 経清は笑みを浮かべると、女たちに声をかけ酒を運ばせた。用意された蒔絵の瓶子は見事な品で、安倍一族の豊かさをあらわしている。経清は貞任にかわらけを差し出し、酒を注いだ。しかし、貞任はぼんやりとかわらけを見つめている。
「なんだ、飲まないのか。お前、あんなに酒好きなのに」
「別に、好きじゃない」
「美味い美味いと、私の館ではガブガブ飲んでいたくせに。というか、お前が宴の主役なんだぞ。早く戻った方が良いんじゃないか」
「こういう宴って好きじゃない。それに、自分が主役だなんて、嫌だ」
「お前なあ……」
 経清は深いため息をつくと、酒を飲んだ。陸奥の酒は美味い。この酒を飲むと、体中に力が湧いてくる。体の熱を掻き立てられる。
「貞任」
「なんだよ」
「厨川柵に行くのが、嫌か?」
 経清の言葉に、貞任は目を瞬かせた。そして目を伏せると、こくんとうなずいた。
「嫌なら、頼良どのに願えばいい。安倍の跡取りとしてお前に期待している頼良どのは、さぞがっかりされるだろうがな」
「やだ。親父に頭を下げるなんて、死んでも嫌だ。それに、俺を跡取りだなんて勝手に決めやがって、あのクソ親父が。宗任がいるってのに」
「じゃあ、出立の日まで衣川で真面目に働くんだな。貞任が心を入れ替えた、衣川になくてはならぬ男になったと、頼良どのが厨川行きを見直すだろう」
「働くなんて俺には向いてねぇし。各地から届く書状を読んだり、細々したことをやるのは、本当に苦手なんだ。兵たちと一緒になって武芸の鍛錬をするほうが向いてるんだ」
「あれも嫌、これも嫌。お前は本当に子どもだな」
「……厨川に行ったら、もうお前と弓比べも剣の稽古も出来ねぇし」
ぽとんと落ちた貞任の言葉に、経清は思わずかわらけを落としそうになった。
「なんだ、貞任。結局のところ、私と別れるのが寂しいのか」
「そんなんじゃねぇし。ただ、お前みたいな強い奴と稽古が出来なくなって、つまんねぇだけ。都の貴族様だと思ってナメてたら、えらい目にあったもん。お前、強いんだもん。ただ、それだけ。それだけだからな!」
「ふぅん」
 貞任の白い首筋が、真っ赤に染まっている。つられて経清も真っ赤になった。
(まったく、この友人ときたら、嬉しいことを言ってくれるものだ)
「別に、永遠の別れというわけではなかろう」
 経清はかわらけに酒を注ぐと、貞任に押し付けた。貞任は頬を膨らませ、ぐいと酒を煽った。
「だって、衣川と多賀城だって遠いんだぜ? 厨川は衣川からさらに百三十里も離れてるんだ。俺、もう多賀城に行けねぇよ」
「馬があるだろうが、馬が」
「そうだけどさ」
「なんなら、私が厨川にまで行こうか」
「ふん。経清は都育ちだからな。厨川では凍えるんじゃないか」
「多賀城ではうまくやっているし、厨川でも問題なかろう」
「陸奥の冬をナメやがって」
 酒を酌み交わすうちに、二人の顔に笑みが浮かんだ。
「あ、いたいた! 貞任兄上に経清どの! まったく、何こんなところでコソコソと酒を飲んでるんですか。それに貞任兄上!兄上が主役なんですから、早く主殿に来てくださいよ! 全く、もう……」
 貞任の弟・宗任のぼやきに、二人はくすくすと笑って立ち上がった。


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サークル名:時代少年(URL
執筆者名:ひなたまり

一言アピール
:日本史、特に奥州藤原氏や安倍氏を中心に創作しています。現在、藤原基衡世代の長編小説「わだつみの姫 奥州藤原氏~安倍宗任の娘~」を頒布しております。今回のアンソロジーでは、藤原清衡の父・経清と安倍貞任の掌編を書かせていただきました。

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