河童のハニートラップ

 土砂降りの雨の日のことだった。車のフロントガラスがしぶきで真っ白になるほどで、ウィンカーを高速で動かしていた。ウィンウィンという音に混じって、ガラガラガラガラと変な音が聞こえて来る。先輩刑事の藤波ふじなみはハンドルを握ったまま「嫌な予感がするな、なんだこの音は」とつぶやいた。助手席の羽鳥はとりも「さっきから、この車のエンジン音、おかしいですよね」と相槌を打つ。後部座席から人相の悪い精神科医が低い声で言った。
「雨の日に車が故障、スリップにより事故という展開が待ってるかもしれんな。警察車両の事故だけに、明日の新聞記事の一面に載るかもしれん」
「不吉なことを言わないでくださいよ、まき先生」
 藤波はため息まじりに言って、「羽鳥ちゃん、地図見て。どこかで車停められないか探して欲しい」と指示を出した。
 刑事の藤波と羽鳥、精神科医の槇はある事件の捜査で隣の県まで資料を取り寄せに行っていた。極秘扱いの書類を閲覧するため、直接三人が現地まで赴く必要があったのだ。その帰り道、メインの国道が大渋滞していたため、山中の旧道で迂回して帰路を急いでいたはずだった。そんな折にエンジントラブルだ。
「藤波先輩、この先に郷土資料館があるようです」
 地図を眺めながら羽鳥が言うと、先輩は「そこから電話で修理会社を呼ぼう」と頷く。真っ暗な林道のカーブを数百メートル走ったところに、コンクリート造りの小さな建物があった。白い看板に「川荘町立郷土資料館」と書いてある。薄汚れた磨りガラスの引き戸の向こうは、ぼんやりと黄色い電灯がついていた。
 三人が車を降りて、中に入ると初老の男性管理人が「お客さんですか? もう閉めましたよ」と困った顔で言う。事情を説明すると、整備会社が来るまで待たせてもらえることになった。
「はあ、警察の方でしたか。ここ、なーんもないですがね、見ていきますか?」
 そう言いながらも、管理人は資料館の蛍光灯をつけてくれる。パチパチっと音がして、明かりがつくとガラスケースが照らされた。壁面にはパネルが貼られ、「川荘町の歴史」として江戸時代からのこの辺りの言い伝えが解説されている。神社や古い井戸の逸話が書かれているが、古びていて一部は色が褪せている。
 藤波は管理人となにやら話し込んでおり、その間に槇はふらりとガラスケースの前に立ち覗き込んでいた。そして、くるりとこちらを向いて「羽鳥くん」と手招きする。
「この掛け軸を見てみろ、河童だ。なかなか傑作だな」
 そう言われて覗き込むと奇妙な絵が飾られていた。川の上の橋で、ふんどし一丁の男が、こちらに尻を突き出している。その下で河童が物欲しげに男の尻を眺めている。
「これは、尻子玉を狙ってるんだな。河童は人間の尻から手を突っ込んで、魂を抜き取って食べると言われている」
 無防備そうな男の尻を指差して「こいつを河童は食べるつもりなんだ」という。そして、今度は男の手を指差して「だけど、これは実は罠なんだ」と言い出す。
「ほら、こいつは網を持っているだろう? 自分の尻をおとりにして、河童が近づいてきたら捕獲するつもりだ」
 確かに、絵の中の男は尻を突き出しているが、手には網を持ち、気合の入った表情をしている。なるほど、これは河童を捕らえるために体を張った罠を仕掛けているというわけだ。
「自分の体をおとりに使うなんて、危険な捕獲方法ですね」
「まったくもって命がけだな。河童との一騎打ちだ」
 槇は真面目な顔でそう言っていた。目があまり良くないようで、ぐっとガラスケースに顔を近づけてかぶりつくように覗き込んでいる。
「先生、河童が好きなんですか?」
「いや、そうでもない。気になっただけだ」
 あっさりとそう答える。彼は「謎」を見つけるとそれを解き明かしたくて仕方ない性分なのだ。羽鳥は「へえ」と相槌を打ってもう一度、掛け軸を見た。妖怪との命がけの闘いの絵は、なかなか趣深い。
 槇はすぐに絵に飽きたようで、今度は資料館の奥のドアを勝手に開けて、どんどん奥に向かっていた。羽鳥も後をついていく。
「お、こんなところに花が咲いているぞ」
 資料館の裏は砂利が敷き詰められ、紫陽花が所狭しと植わっていた。ちょうど見ごろのようで、薄い青や紫の花が満開になっている。雨がしとしとと降り注ぎ、花びらの色をグラデーションのように変えていた。
「あ、子どもが……」
 羽鳥が声をあげると、庭の隅っこにいる七、八歳の少年がこちらを振り返った。黄色い子ども用の傘をさし、紺色の長靴を履いている。紫陽花の前で彼はニコッと笑った。資料館の管理人が孫でも連れてきているのだろうか。ポトポトと傘の先から雫を垂らしながら、こちらを見つめている。そして唇が動いた。
「あ・そ・ぼ」
 羽鳥はその口元を見ただけで「遊ぼう」と彼が誘っているのがわかった。だが、眉をひそめる。声を出さずに少年はもう一度「あ・そ・ぼ」と口を動かす。
「こ・っ・ち・に・き・て」
 反射的に羽鳥は「行かないよ」と大きな声で言った。
「そっちには行かない。遊ばないよ」
 ガタンと隣で音がするので一瞥すると、槇が少年の方に向かおうとしていたらしく、目を見開いてこちらを振り返っていた。
「先生、行っちゃダメです。彼と私たちは交わってはいけない」
 声を低めて言うと、少年に向かって「帰りなさい」と強い口調で言った。彼は目を伏せて悲しそうな顔をすると、傘を握りしめ、羽鳥と槇に背を向けて走り出した。パシャパシャと長靴でたまり水を跳ね上げ、そのまま群生した紫陽花のなかに飛び込んでいく。そして雨に熔けるように半透明になり、すーっと消えてしまった。この世のものではないのだろう。
「あの子、人間じゃなかったのか」
 槇が困惑したようにつぶやいた。羽鳥が「そうなんでしょうね」と答える。
「なんで、羽鳥くんはすぐに気づいたの?」
「生きてる人間の気配がなかったからですかね。蜃気楼というか……そこに映し出された影みたいなもので、実体がないと思ったんですよ」
 槇は「俺はすっかり騙されたな」とぼやいた。
「そうでしたね。先生、謎を追っかけるのもいいですが、気をつけてくださいね。罠に引っかかったら命がけです」
 羽鳥の言葉に、いつもは険しい顔の精神科医は「気をつけます」と苦笑いをした。珍しく自分が優勢なので羽鳥も気が緩んで笑ってしまった。


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サークル名:ヤミークラブ(URL
執筆者名:宇野寧湖

一言アピール
長編サイキックミステリー小説「零点振動」の番外編です。欠落を抱えた人間の「自分のみっともなさに向き合いながら生きている姿」が好きです。ほかに、「恋愛ファンタジー小説」の合同誌や「闇堕ち成人向け小説」も発行しています。

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河童のハニートラップ” に対して2件のコメントがあります。

  1. 塔守 より:

    凄く良かったです。ジャンルミステリの中で、この方向性に手腕が発揮出来る方に魅力を感じます。

  2. 浮草堂美奈 より:

    タイトルに引きずり込まれました(笑) ゾクッとする雰囲気ながらも槇先生がかわいいです。

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