和平の証の涙曇り

 クロドが知らせを受けたのは、歴史学の講義が終わった後だった。家庭教師と入れ替わりに執事が書斎を訪れ、耳打ちした。
「――幸い、ご本人も教師も怪我はされませんでしたが、部屋はめちゃくちゃです」
 いつも表情を崩さない執事が、眉間にわずかな皺を寄せる。クロドは一瞥を投げ、椅子から立ち上がった。
「怪我がなくてなによりだ」
「しかし、おじい様が大事になさっていたタペストリーが少々破れました。他の家具や装飾品も、無傷のものはありません」
「誰も怪我はしていないなら、いいじゃないか。それより、イーリスはまだそこにいるのか?」
「自室にお戻りになりました」
「そうか。きっとまた泣いているんだろうな」
「……イーリス様の魔力は強すぎます。お言葉ですが、封印することを考えた方がよろしいのでは。教師も、それも一つの手だと仰っていました」
 部屋を出ようとしていたクロドは、執事を振り返った。
 祖父の代から仕えている執事は、祖父も父も亡くし十三歳で家督を継いだ少年の良き相談相手であり、頼りになる助言者でもあった。
「イーリスの魔力は、彼女の才能だ。それを伸ばす手助けはしても、危ないからと封じ込めることはしない」
 だが、その執事の言葉でも、受け入れられないものもある。イーリスの件がその筆頭だ。執事はそもそも、彼女がここエクカール家に来ることに――クロドとの結婚に賛成はしていなかったのだ。
「しかし、教える方がいらっしゃらねば上達のしようがありません」
「……辞めたのか?」
「自分の手には負えない、と」
 執事の眉間から皺は消えていたが、今度はクロドが眉をひそめた。
 エクカール家の領内に住む魔術師で、腕がいいと評判の者を捜し出して教師を頼むのだが、いずれも長続きしない。今回のように、教師である魔術師が逃げていく。今回で三人目だ。領主からの頼みとあっていずれの魔術師も自信ありげに意気込んで来るのだが、誰もイーリスに魔力を手懐ける術を授けられていない。
 クロドは魔術師ではなく、魔力も持っていない。イーリスも魔術師ではないが、魔力は持っている。しかるべき師の元で学べばいずれ才能を開花させ、優れた魔術師になるだろう。イーリス自身も、魔術師になってクロドの役に立ちたい、といじらしいことを言ってくれた。
「次の者を捜してくれ。イーリスに教えられるほど優れた魔術師を」
 魔力を持たないから、それを操るという感覚は想像することしかできない。魔術師の優劣の判断も、素人目にしかわからない。ただ、大風を吹かせたり派手な火の玉をつくって見せたりする魔術師が、必ずしも優れているわけではないらしいということは、この半年の間にわかった。
 では、どんな者が優れているのか。あいにく、それがまだわからない。とにかく、イーリスの魔力を目の当たりにしても逃げない者を見つけるしかなかった。封印など以ての外だ。イーリスはクロドの役に立ちたいと彼女なりにがんばっている。夫のクロドがその気持ちを踏みにじることなどできない。
 それに、イーリスの才能を封じてしまえば、彼女の実家に何を言われるかわからない。イーリスはエクカール家が仕えるタスクォール王家の出身なのだ。
 執事は、かしこまりました、と淡々と言った。イーリスに魔術の教師を付けることに反対しているが、わざとだめな魔術師を捜してくるようなことはしないはずだ。主の希望を最大限に叶えようと常に努力をする。そう信じている。
 書斎を出たクロドは、まず、イーリスが魔術の講義で使う部屋へ足を運んだ。侍女たちが忙しなく動いて掃除をしている。だいぶ片付いていたが、執事から聞いて想像していた以上に室内は荒れていたようだ。
 壁に掛かったタペストリーは、真ん中くらいまで無惨に裂けている。ほかにも細かな裂け目がいくつも。窓にはまったガラスは砕けて散っていた。これでよくイーリスも教師も無傷でいられたものだ、と驚くと同時にぞっとした。すでにこの屋敷から去っている魔術師は、それなりの腕前ではあったのだろう。
 クロドは侍女たちにねぎらいの声をかけ、足早にイーリスの部屋へ向かった。
 自分が来たことを告げて扉をノックしても、イーリスの返事はなかった。入るよ、と声をかける。やはり返事はなかったが、クロドは部屋へ入った。
 奥の壁際に置かれた寝台を見やると、真ん中がこんもりしている。小さな体をさらに丸めて、クロドの妻は上掛けの中にこもっていた。
「イーリス」
 クロドは寝台の端に腰を下ろした。嗚咽は聞こえないが、きっとまだ涙は涸れていない。
「イーリス。怪我はしなかったかい?」
 しばらく待つと、うん、という小さな声が返ってきた。クロドは丸まった背中をそっと撫でる。
「……クロド、怒ってない?」
「怒っていないよ。どうして僕が怒るんだい」
「部屋の中をめちゃめちゃにしちゃったし、先生は怒ってどこかへ行っちゃったし……」
 消え入るような声で、執事は怖い顔をしていたし、と続ける。
「彼も怒っていないよ。先生は驚いただけさ」
「ほんとに?」
 動転した教師の様子が、イーリスには怒っているように見えたのだろう。執事は――怒っていないとはいえないかもしれないが、それを口にすることはないはずだ。
「本当だよ。だから、そこから出てきて、僕に無事な姿を見せてくれないかい」
 小さな山がもぞもぞとうごめく。上掛けをかぶったまま、イーリスがようやく顔を上げた。案の定、青い瞳は真っ赤になっていた。その瞳から、堰を切ったように涙が溢れる。
「クロド……!」
 飛びついてきた少女を、クロドは両手で受け止めた。
 上掛けの中に潜っていたせいなのか、あるいはその前の出来事のせいなのか、黒く艶やかな髪が今はぼさぼさだった。
 泣きじゃくる少女の背中を、クロドは黙ってゆっくりと撫でた。まだ成長しきっていないクロドの掌と比べても、幼い妻の背中は小さかった。
 イーリスは七歳。遊びたい盛りだろうに、文句も言わずに一日の大半を魔術をはじめとする勉学に費やしている。十四になったばかりのクロドもまた、一日の大半を勉学と領主の仕事に費やしていた。
 まだ若い領主に降嫁したのは、わずか七歳の王女。お互いにとって早すぎる結婚の発端は、十二年前にさかのぼる。
 当時のエクカール家は、タスクォール王家の家臣ではなく、その隣国の主だった。領地の境界線を巡る小競り合いは昔から続いていて、歴代国王より野心の強かったクロドの父は、領地拡大を狙って大軍で攻め込んだ。タスクォールは不意を突かれたが、結局、敗れたのはエクカールだった。
 国も王家としての地位も失ったが、タスクォール王家に忠誠を誓うことで、一族の存続といくらかの領地を手に入れることができたのである。
 ただし、そこはタスクォール王家に長年仕える有力家臣たちの領地に囲まれた場所だった。クロドの父はその処遇に不満を抱き続け、いつか必ず奪われた国を取り返すのだとクロドに言い続け、他界した。
 父のことは嫌いではなかったが、好きでもなかった。彼が野心を抱かなければ一国の主でいられたのだ。敗残した王でありながら、タスクォール王家の温情で処刑を免れた。そんな己の過ちと受けた恩を省みないところが、好きではなかった。
 イーリスとの結婚話が持ち上がったのは、クロドが当主となって間もなくの頃だ。タスクォール王家の方から、家督継承のお祝いと和平の証としてどうか、と持ちかけられた。
 父のタスクォール王家に対する態度は、あまり褒められたものではなかった。それを挽回しこの国の中でよりよい地位を築くために、クロドは承諾した。父のように、みすみす滅びる道は歩まない。自分は違う。エクカール家当主として、この家を盛り上げていくのだ。一国の主に返り咲くのは無理だとしても。
 打算だけでした結婚だった。降嫁する王女は七歳だというので、妻としての役目などいっさい期待しておらず、子供の面倒を見るようなつもりでいた。
 漆黒の髪に青い瞳の幼い妻は、自分の立場や置かれた状況をどれほど理解しているのか、無邪気なものだった。屋敷に来た当初こそ人見知りをしていたが、己を取り巻く環境にすぐに慣れ、クロドにもよく懐いた。
「はやくクロドの役に立ちたい……」
 イーリスの涙はなかなか止まらなかった。
 幼い妻は夫の役に立ちたいらしい。勉学に励むのはどうやらそのためのようだ。降嫁する前に誰かにそう言われたのかと思っていたが、イーリス自身の意志と知ってから、クロドは彼女の向上心に応えるよう取りはからうようになった。
「今でも役に立っているよ」
「ほんとに?」
「本当に。だから、焦らなくていいよ。ゆっくり少しずつ、イーリスにできることを増やしていけばいいんだ」
 邪険にするわけにもいかずイーリスの相手をしているうち、父と同じ轍は踏まないと躍起になっていた少年の心は少しずつほぐれ、落ち着いていった。イーリスと一緒にいると安らかな心地になる。
 幼い妻はちゃんと夫の役に立っている。
 イーリスがじっとクロドを見上げる。彼の言葉の真偽を判別するような目だ。しかし、長続きはしなかった。涙のあとが残る顔を綻ばせ、クロドに改めて抱きついた。
「もっと役に立てるように、がんばるね」
 ぼさぼさの頭を撫でつけながら、楽しみだな、とクロドは笑った。


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サークル名:夢想叙事(URL
執筆者名:永坂暖日

一言アピール
異世界ファンタジーを中心に、現代物やSFっぽいものを書いています。軽めのものから真面目でシリアスなものまで、雰囲気は幅広いです。
異世界ファンタジーの短編集と、SFっぽいものと現代物とサイト公開済短編を収録した短編集を頒布予定です。どちらもわりと真面目な雰囲気の短編集になります(予定)。

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