「指輪」抄

「疲れたなあ。ここのところ稼働率が低いから、仕事の量が調節できると思ってたけど、甘かったよ」
 妻の沙織が並べてくれた夕食を食べ、ひとごこちついた瞬間、湯瀬ゆぜ真二は、ため息をついてしまった。
 沙織は可愛らしく微笑んだ。
「それは仕事に真剣な証拠、真二さんのいいところよ」
 沙織とは知人の紹介で結婚した。美男美女でお似合いといわれるが、正直、自分にはもったいない妻だと思う。その若くはずんだ声を聞くだけで癒される。湯瀬の胃に穴があいた時も、献身的に尽くしてくれて、彼の入院中、身内へも職場へも密に連絡をとってくれた。仕事に復帰できたのも彼女のおかげだ。ストレスによる病気だろうと、人との接触が比較的少なくてすむ総務へ、配置換えまでしてもらえた。そんな配慮を上部からひきだしたのも、妻の奔走のおかげだ。自分はこの職にふさわしいのかと悩んだ時も、「あなたの和を重んじるところって、ホテルマンに向いてると思うの。嫌になったのじゃないなら、続けてみたら」と励ましてくれた。
「お風呂のあと、すこしマッサージしましょうか」
「うん、ありがとう」
 片づけようと皿をもって立ち上がった湯瀬に、沙織は目を細めた。
「そういうことが、自然にできる人なのよね。疲れてるのに、自分のことはきちんと始末。育ちがよくて、ほんとに真面目」
「皿洗いぐらい普通だよ。一人暮らしの時は、ぜんぶやってたんだし」
 沙織はふと真顔になり、
「ねえ、あなたでも、嘘をつくことってあるの」
 キョトンとする湯瀬に、沙織は微笑みかえした。
「ごめんなさい、なんでもないわ」

 肩まで湯に沈んで、湯瀬は考える。
 沙織に嘘をついた記憶はない。
 つく必要がないし、ついたところで見抜かれるだけだろう。
 湯瀬も職場でなら、多少の機転をきかせることならあるが、客への配慮を、嘘かと糾弾されても困る。
《そういえば》
 一度だけ、無表情な同僚が、人らしい顔を見せた時のことを思い出した。

「あっ。今日の視察、リネン室に伝えてなかった」
 モニターチェックをした友田千紗の顔から、血の気が引いている。
 契約しているリネンサービスの女性たちが、十名ほど、五階の廊下に座り込んでおしゃべりしていた。
 定時のチェックアウト後、チェックイン前の時間帯だ。普段なら、休憩室以外でくつろいでいても、さして問題にならないが、視察にくる本社の人間が、それを見たらどう思うか。外部スタッフとの連携がとれていないホテルと判断されるのは間違いない。
「僕がいってくる」
 角がたたないよう、彼女たちを移動させればいいだけの話だ。湯瀬は小型のホワイトボードとペンをもち、五階へ向かう。
スタッフが彼に気づくと、シーッと口元に人差し指をあてて、ボードを見せた。
《この階に、新婚旅行中のお客様がいます。起こさないであげてください》
 女たちは無言でたちあがり、笑顔を見せると、そのままリネン室へひきあげていった。
 ほっとして総務へ戻った湯瀬を、心配顔の友田が迎えた。
「すみません、湯瀬さん」
「謝る必要なんてないよ。お静かにって、伝えただけだし」
 新婚さんが寝てますから、というのは、共感をえるための嘘だが、長期滞在中の客が室内で仕事をしていたり、休んでいたりするのは事実なので、罪はないだろう。
「私、あそこで注意して、真間ままさんに逆上されたことがあるんです」
 若い契約スタッフだ。名前は湯瀬も知っている。
「感情の起伏の激しい人らしいね。気にしなくていいと思うよ」
「でも、湯瀬さん、魔法を使ったみたいでしたよ」
 湯瀬は苦笑し、種明かしをした。友田はひどく感心した様子で、
「そんなやり方が……でも、私が同じことをいっても、だめだと思います。やっぱり、結婚してる男の人って違いますね。頼もしい」
 おや、と湯瀬は思った。
 独身男に幻滅しているような物言いだ。浮いた噂をきいたこともないが、実はつきあっている相手でもいるのだろうか。
「ありがとうございました、湯瀬さん」
 かばったわけではないが、瞳を輝かせて礼をいう友田を、湯瀬は初めて綺麗だと思った。ふだん人にみせている表情はつくりもので、これが本当の顔なんだな、と。

「あれ、携帯落ちてる。これ誰の?」
「この部屋にあるってことは、お客様の落とし物じゃないわよね」
「中、みてみない? アドレス帳で誰のかわかると思う」
「ロックされてるんじゃないの」
「されてないみたいよ。メールを見なければいいんじゃない?」
 総務室に置き忘れられていた携帯電話は、ストラップもついていない色気のないものだったが、見覚えがある気がして、湯瀬も画面をのぞき込んでしまった。
 そして、顔色をかえた。
 アドレス帳のYの欄に、自宅の電話番号が見えたからだ。
《総務課の人間なら、職員の個人情報が、どこに保管されてるか知ってる。でも、携帯に登録する必要なんて》
 友田が戻ってきた。
「ごめんなさい! 私、ケータイ置いてってませんでした?」
「これのこと? 誰のかと思って、開けちゃった」
 悪びれず答える同僚たちに、友田は薄い微笑で応え、そして電話を受け取ると、ふたたび外へ出て行った。

 給湯室もまた、リネン室同様、さざめきに満ちる場所だ。
 湯瀬は噂話には、なるべく混ざらないよう心がけているが、今日はこっそり、立ち聞きしている。
「友田さんて、不倫願望でもあるの」
「なんでそんな話に?」
「男に興味ないのかと思ってたけど、最近、湯瀬さんと仲良くない? こないだの飲み会の時も、そっと胃薬なんか渡したりしてたし」
「調子悪そうだったから、自分のをわけてあげただけですよ」
「まあ、わかんないでもないけどね。結婚してる男の方が、女のあしらい、うまいもん。それに人のものだと思っても、好きになっちゃうのは仕方ないし。湯瀬さん、まあまあ頼れるし、気さくで親切だしね」
「でも、既婚者に手を出すシュミはないですよ、私」
 友田はさらりと答えているが、追求はとまらない。
「でも、いつも湯瀬さんの左手の薬指、見てるじゃない」
「ふふ」
 初めてきくような笑い声。それに続いて、
「私がホテルで働くようになったのは、人の幸せを見るのが好きだからなんです。自分も幸せな気持ちになれるから。知ってる人なら、なおさらです」
「どういう意味?」
「湯瀬さん、仕事の邪魔になるかもしれないのに、いつも指輪をはめてるってことは、奥さんをすごく大事にしてるってことでしょう」
「湯瀬さんの奥さんを、知ってるみたいなこというのね」
「だって奥さん、湯瀬さんが休んでる間、よく電話かけてこられてたじゃないですか」
「ああ、あの可愛い声の」
「そうですよ。あの声をきいただけでわかりますよ、奥さんと湯瀬さん、本当に仲がいいんだなって。割り込む気なんて、おこりませんよ。湯瀬さんは素敵な人だと思いますけど、それは奥さんを裏切ったりしないからであって、もし不倫してたりしたら幻滅しちゃうじゃないですか。変な噂、たてないでくださいね? それとも、湯瀬さんに迷惑かけるつもりですか」
「そういうわけじゃないけど」
 人が動く気配がしたので、湯瀬はそっと給湯室の前を離れた。
《自分は何をいわれた?》
《人の幸せを見るのが好き?》
《あの透明な微笑は、俗っぽい欲を超越している、それだけのことなのか?》
 湯瀬はそのまま、「休憩に入ります」と告げて、ホテルの外へ出た。
 少し休みたかった。
 ひとびとの憩いの場であるはずの、ホテルから。

 モヤモヤしたものが少し落ち着いてから、湯瀬は総務室へ戻ってきた。
 ちょうど友田がいて、空いている共用デスクで、資料整理をしている。
「友田さん。この間つくってもらった企画資料、報告用と控え用にだしてもらえる?」
「はい、すぐプリントしますね」
 友田はパソコンの前に座りなおし、自分の社員番号と、八桁の個人パスワードを、タタン、と打ち込んだ。
「この資料のことですよね?」
「そう。三部コピーしてくれるかな」
「わかりました」
 湯瀬は前から、気になっていたことがあった。
 パソコンのロック解除用の個人パスワードは、セキュリティ上、自分の誕生日などを使用しないよう命じられている。しかし友田の指の動きを見ていると、彼女のパスワードは一九から始まっているように見えた。禁止されている数字を使っている可能性がある、それなら注意しなければ、と思っていたのだ。
 しかし、その八桁の数字は、友田の誕生日ではなかった。
 彼女は自分より年上のはずだから、違うのはすぐわかる。
 そう、そこに打たれた数字は……沙織の誕生日を八桁にしたものだったのだ。
《湯瀬さんは素敵な人だとは思いますけど、奥さんを裏切ったりしないからで》
 なぜ友田は、湯瀬の自宅の番号をこっそり登録しているのか。
 彼に電話をかけたいなら、湯瀬の携帯番号にすればいいはずなのに。
 沙織の声が、耳に蘇ってくる。
《あなたでも、嘘をつくことって、あるの》
 もしそれがあの時の話なら、沙織は誰から、それをきいた?
「できました。これでいいですか、湯瀬さん?」
 透明な微笑が目の前にあった。
 友田の瞳は、湯瀬を見ていない。
 おそらく、はるか向こう側を見ている。
《本当の愛というものは、相手の幸福を願うこと、って言葉があったっけ》
 沙織は誰からも愛される、非の打ちどころのない妻だ。
 そう、それは、つまり――。
 湯瀬はうつむき、低く呟いた。
「うん。いいよ、それで」


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サークル名:恋人と時限爆弾(URL
執筆者名:鳴原あきら(Narihara Akira)

一言アピール
【恋人と時限爆弾】は、鳴原あきら(Narihara Akira)の百合・BL・ミステリサークル。第四回テキレボは、美少年興信所シリーズ「ルツの夢」で委託参加です(BLですが百合要素あり)。アンソロ掲載作は、以前書いた連作短編から「指輪」をリサイズしました。誰もが平和を望んでいるはずなのに……!

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「指輪」抄” に対して1件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    うわー、ゾワゾワしました。うわー!

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