梅酒のロックはぬるいのしか飲んだことがない

 駅から徒歩十二分。
 お世辞にも駅近とは言えない場所にある和食居酒屋に向かって歩く男女が一組。空色のワンピースを着た小柄な女子と、細身でシンプルな装いの男性。傍からはカップルにしか見えないが、この二人にそういう感情はない。
「また新しい服か」
「あんたこそ、そのジャケット高いやつでしょ。こんなとこに着てきていいの?」
「これってそんなすんの? 部屋にあったの適当に着たんだけど」
「うっわ、今頃ルームメイトさんキレてるんじゃない?」
「まああいつこんなの大量にもらってくるから大丈夫だろ……お、もう来てるな」
「ほんとだ。お疲れー!」
 ピンヒールで器用に駆けていって、先に到着していた男性二人組のうち背の高い方に体当たり。そのまま腰に抱きつく。
「あれ? 希一郎、筋肉ついた?」
「昨日まで蔵書点検期間で毎日十時間の強制筋トレさせられてたから、多少は」
「へえ、いいじゃん。このまま鍛えなよ」
「嫌だ。ごつくなりたくない」
 くすぐったいと手を払う隣をすり抜け、追いついた男性が背の低い方に話しかける。
「早いな松馳。いつもビリなのに」
「この辺で外回り直帰にできるように営業ルート組んだんだよ。今日は遅刻者が圧倒的に不利だからな」
 松馳鳴海、薬原華凛、梓河士恩、簾希一郎。
 いつもの四人組。毎晩のように集まって酔っぱらう二十五歳。
「大将ー、いつもの席使うからなー」
「あいよー!」
 希一郎が引き戸を開き、店の最奥、唯一畳敷きの狭いスペースへ四人は吸い込まれていく。
 階段の裏を無理矢理客席にしているので壁側は天井がやたらと低く、膝立ちになれば頭を打つ。故にたとえ満席でも普通の客は通さない席。月に十五回以上顔を出すヘビーリピーターの彼らは、いつもここで好き勝手にどんちゃん騒ぐ。
普段は勝手に出てくる皿とグラスを空にするだけだが、今日は少々趣向が違う。
 全員が定位置についたのを確認して、華凛が右手をぶんぶん振った。
 左手にはスマホ。グループトークの画面が開かれている。
「はーい、じゃあルールのおさらいしまーす」
「よろしくー」
「予算はみんなで二万円。ただしこれは食べ物代だけ。酒代は別会計。ここまでOK?」
「おっけー」
「順位は、店全体で生ビールのオーダーが二百に到達した時点の食べ物代によって決定。二万を超えてたら酒代の一番安い奴、二万以下なら酒代の一番高い奴が――今集めた二万で足りない分全部払うこと。OK?」
「おっけー!」
 毎日のように同じメンツで飲んできて、そろそろ変わったことがしたくなった。それだけの理由で。
 華の金曜日、午後六時二分。四人の戦いは始まった。

「枝豆、チャンジャ、冷やしトマト、茄子の漬物、たたき胡瓜、たこわさ、銀杏炒め」
「……スピードメニュー総ざらいでいいです?」
「ん、それでよろしく」
「あと秋鹿ね、つーちゃん」
「和助の水割りもらえる?」
「待って、オレもハイボール追加」
「それと、海藻サラダに鴨の山椒焼き、馬刺し、卯の花つくね串、するめ天ぷら」
「ごめん、やっぱジンジャーハイで」
「ビールなんだけど瓶にしてもらってもいい?」
「わー、そんなに一気に言わないでくださいよぅ」
 名札に丸文字で『つぐみ』と書いた学生バイトが、必死で伝票にメモを取る。食べ物と飲み物を別に書き、しかも飲み物は誰がどれを言ったかまで書かなくてはならない。
 華凛と希一郎、梓河のペースは異様に早く、乾杯の一分後には空グラスが畳に置かれた。そんな呑兵衛が互いに競うように注文するため慣れた店員でないと聞きもらすのだ。故にいつもオーダーは取らない。普段ならおまかせで、気づいたら置かれている皿とグラスを適当に分けている。
 だが今日は違う。事前に店主には相談してあったが、いざこうなると追いつかない。
 しかもこいつら、大学時代から知っている後輩が相手だからと更に容赦がなく悪質だ。
「おいおい、松馳。全然減ってないじゃんか!」
 梓河が持ち上げたのは、グラス満杯のカシオレ。減ってないどころか、氷が溶けて増えている気さえする。
「そんなんじゃ負け決定だな」
「うるさいな。俺は特別に酒代三倍にしてもらってるから大丈夫なんだよ」
 松馳は四人の中で唯一酒に弱い。カクテルを二杯も飲めば便器と友達だ。
 だから特別ルールを作った。松馳は酒代三倍勘定。
「そんなことより、こんなのもあるって知ってた? このページめっちゃ美味そうなんだけど」
「へえ、刺身ってこんなに種類あったのか」
 まだ酒しか来ていないテーブルにメニューを広げ、釣られた希一郎と二人してあれこれ品評。
 あらかじめ頼んでおいた、価格が全て黒塗りされたメニューだが、写真がやたらと食欲をそそる。そうでなくとも字面が美味い。
「羽釜茶碗蒸しって何これ、絶対美味い。ちょっとつーちゃん!」
「華凛、肉味噌出汁巻きと大根の唐揚げと餅チーズの春巻きも言って」
「揚豆腐の出汁おひたしってやつも頼む、あと刺身五種盛り」
 残りの二人も寄ってたかって注文を追加し、つぐみは泣きそうになりながら書き留める。
 スピードメニューの一品目が届く前に空のグラスが三つ並んだ。ボーナス直後の金曜とあって結構混んでいるらしい。なんとか小鉢が出揃った後、肝臓の強い三人は酒の種類を変えた。
 和食居酒屋の看板を掲げているため料理はほぼ全て和食だが、酒だけは古今東西あらゆる種類が揃えてある。それこそこの飲んだくれどもに愛されてしまう原因である。
「希一郎、お前白いく?」
「あー、ボトル?」
「辛いやつな」
「分かってるよ。……これは割り勘になるんだっけ?」
「つーちゃん、伯楽星ね!」
「烏龍茶ひとつ」
 少しずつ運ばれてくる料理をいちいち感嘆しながら取り分けて、四人はいつものように会話する。
 この店真面目に頼むとこんなに色々食えるのかとか、松馳の野菜嫌いが酷いだとか、華凛の取り分ける量が等分じゃなさすぎるとか。あるいは梓河が借り物の高級ジャケットに刺身醤油をひっくり返したとか、希一郎プレゼンツ世にも奇妙な蔵書紹介とか。
 昔話はしない。これは通常のルールだ。
 話すのは今のことと未来のこと。あるいは阿呆話。それがサイジョーのために飲むときのルール。仕事の愚痴は言わないが、三年後どんな仕事をしたいかは大いに語る。
 一通り飲んで食べて空の器が増えた頃、ほとんどオレンジジュースのカシオレとファジーネーブルで潰れる寸前の松馳が呟いた。
「……俺、やっぱり文章で生きていきたい」
「奇遇だな、同じこと考えてる」
「右に同じ」
「あたしも」
 五年前、大学三回生だった彼らはいつも五人だった。
 作風はてんでバラバラなれど互いに尊敬しあう質の文才を有し、厳しく批評をぶつけては殴り合いの喧嘩になるほどのこともしょっちゅう。
 その中で最も優れていた者は、名を斎城と言った。
 あの頃、文章で食べていこうと腹を括っていたのは斎城だけで、実際にその機会にも指先が触れていた。
 散らかったテーブルの上、誕生日席にグラスが一つ。中身は梅酒のロック。氷はとうに溶けきっている。
 汗をかいたそれをそっと手に取った華凛が、自分のハンカチで水滴を拭う。
「あたし、サイジョーの小説、また読みたいなあ……」
 彼らは誰も筆を置いてはいない。もう紡げない斎城以外は。

 生ビールのオーダーが二百杯に届いたことをつぐみが知らせに来たとき、食べ物の合計額は一万九千飛んで八円になっていた。
 すなわち、もっとも酒代の高い者――終盤に高い日本酒を大量に頼んだ華凛の負け。
「よーしよし、この華凛様が奢ってやるのだ、感謝しろ!」
 べろべろの華凛が笑う横、松馳がトイレへと小走りで抜け、その後ろを梓河が介抱のために追いかける。
「悪い、華凛は頼んだ」
「あいよ」
 希一郎があがりを頼み、薄まった梅酒のグラスを引き寄せた。半分ほどを飲み込む。
 財布のファスナーを掴めずに唇を尖らせる華凛の顔を上げさせ、ちゃんと焦点が合うことを確認する。
「大丈夫か? 金足りるか?」
「足りますぅ。希一郎より給料高いんだからね」
「だから大して変わらないって。財布見せてみろ……ほら、足りないだろこれ」
「足りるしぃ」
 華凛は、サイジョーの話でしんみりすると必ず悪酔いする。
「タクシー代、また俺が出すのか?」
「……返したじゃん」
 不貞腐れるのを宥めすかして金を半分出してやり、つぐみを呼びつけてお釣りを待つ間に梅酒を飲ませて湯呑みを持たせる。
「ごめんね、つぐみちゃん。いつも迷惑かけて」
「いいんですよ。その分お金使ってくれてますし」
 しばらくして戻ってきた梓河が梅酒に口をつけ、残り一人にグラスを回す。
「おい松馳、お前の分だ」
「んー」
 差し出されたグラスに口をつけ、少しだけ残ったそれを嚥下。
 梅酒なんてとても飲める体質じゃない松馳は、それでもこの一口だけは必ず飲む。
 サイジョーに捧げる一杯は皆で分ける決まりだから。
 グラスを置くのも困難で、転がりそうなそれを梓河が代わりに支える。
 そのまま肩を貸して希一郎が鞄を持ってやり、全員が店外へ出たところで華凛がまた右手をぶんぶん振って呼びかけた。
「はーい、二軒目行く人ー」
 聞くまでもない質問に、ふらふらの松馳も小さく手を挙げる。
「わーい!」
 嬉しそうに飛び跳ねる足元はピンヒールが折れそうで冷や冷やする。希一郎はたまらず腰に手を回して動きを止める。
「希一郎、セクハラー」
「はいはい、危ないからじっとしてろ」
 二十五にもなって何馬鹿なことやってんだと思う一方、ずっとこのままでいたいとも思い、しかし今の状況はもどかしいとも感じ。
 金曜の夜は、まだまだ終わらない。


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サークル名:春夏冬(URL
執筆者名:姫神 雛稀

一言アピール
関西系創作サークル春夏冬(あきなし)です。ジャンルごった煮、季節風に左右される。今秋は「菓子」がテーマの合同誌『四季彩』Vol2が出ます。
今回の寄稿作は和風居酒屋でひたすら飲み食いする話。
作者個人Twitter=@Copy_hmgm

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梅酒のロックはぬるいのしか飲んだことがない” に対して1件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    とにかく食って飲んで騒いで、ちょっとしんみりして食って飲んで。イイ関係ですね、彼ら。

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