甘んじて、逸脱

 くらく、深く。軋んで、泣くような、それでいて烈しく響く音が、世界の終わりに奏でられる地鳴りのように、城を震わせていた。
 重い鍵盤をしなやかに長い指先が沈めている。滑らかに白黒の盤上を走り、それでいて激しい感情の起伏を音に変えたような曲は、即興で演じられているものである。同じものはもう、聴くことはない。
 ギュスターヴは呻いた。がらんとした城の廊下、ピアノの音から遠ざかりながら、壁を伝って身体を引きずっていた。眉のない強面、浅黒い肌は、嫌な汗をかいていた。眩暈がして吐息が荒い。酸素を求めて開かれた大きな口、牙がこぼれる口元には、唾液が垂れた跡があったが背中には鞭で掻かれた幾条もの傷から、血がしみて赤く、裂かれた白の長衣は破けて、海老茶色に血を吸っていた。
 編み込んで余った部分を巻いた砂色の金髪が、俯くと一房、汗ばんだ額に垂れた。ギュスターヴは髪を耳に掛けて、ある部屋の前まで来ると、扉を押した。努力しても、呼吸が整わない。
 だが苦痛の喘ぎは殺風景な機械音に遮られた。それだのに、ピアノの音色は遥か遠いが悪魔のさえずりのように届いている。
 無機質でいて雑然、ギュスターヴの入った部屋は、復元した遺失技術の粋を集めてつくられた旧時代の病室、かつて未来と呼ばれた前世紀じだいの集中治療室を彷彿とさせる、否、それ以上の特別な病室であった。ギュスターヴには理解が及ばない機械類、くるめく人工心肺や心電図、人工呼吸器がひしめきあっている。
 ギュスターヴが虚ろな目をやったのは、ベッドの上だ。そこには鳶色の髪の少年が昏々と眠っていた。青白い顔、瞼には医療用のテープが軽く留めてある。口を覆う人工呼吸器や腕を刺す無数の点滴、身体を鋭く貫く胃瘻いろうは、凄惨な痛々しさがあった。
 ギュスターヴは鳶色の少年を睨んだ。本当は睨んでいなかったかもしれないが、背中の痛みが自然と顔を強張らせていた。少年はギュスターヴが来たところで、ぴくりともしない。ただ少年の世話のために常駐している家事用の自動人形がギュスターヴに目礼しただけだ。少年を前にしてギュスターヴはない眉の間に深い皺を穿った。同情なんて生温いものを打ち殺す虫唾が走った。死んでいるも同然、或いは今死に続けている、死を繰り返している少年に、憐れみなど不要であったのだ。アルコールとエーテルの匂いが漂う部屋の中で、ギュスターヴはやっと、上下する肩を落ち着かせることが出来た。病院の匂いがこの少年を守っている環境の代表みたいに思えて、無性に腹立たしかった。
 窓辺で歌う小夜曲の名を持つ少年は、その名ほどに繊細ではあるが、その名に含まない憎たらしさをかさついた唇に結んでいて、胃瘻の先ではきっと暗い笑みを隠し持っているのだ。
 そんな少年とギュスターヴの間には大きな緩衝材が介在していた。だからこの二人は、互いに何か思うことがあっても、上手くやる事ができたのである。
「閣下が、ピアノを弾いてらっしゃるね、ギュスターヴ」
 合成音声が、ベッド脇の電動知能コンピュータから流れた。二つの投光器から白光が迸り、交点で像を結んだ。浮かび上がった亡霊は、伏している鳶色の少年の姿である。
 ギュスターヴは唇を噛んだ。この憐れむべき少年がギュスターヴの来訪を聴覚だけで悟り、今まで何も言わずにいたのが、苛立ちの種となる。
 耳だけは、聞こえるのだ。どんなに身体が朽ちようと。ギュスターヴは以前、何処かでそんな話を聞いたことがあった。
「……聞いていたなら黙っているな、セレナーデ」
 ギュスターヴが苦い顔をすると、光で出来た少年セレナーデは市立病院オテル・デュウの入院患者よりも上等なパイル地の白い服を着た格好の映像で言った。
「また閣下に鞭をもらっていたんだ……この城は音がよく響くから、聞こえてきたよ。それなのに閣下は、もうピアノなんて弾いていらっしゃる」
あるじは神経質で病悪的なお方だ……おれを鞭打つ音と、楽器の音色はあの方にとっては別物の作用を持つ薬なんだろう」
 主、或いは閣下。ギュスターヴとセレナーデの緩衝材が、それであった。
 美しく魅惑的な、魔性の貴公子。ギュスターヴとセレナーデはその従者であり、奴隷であった。二人はその主人がいなければ同僚以下の存在で、互いのことに今以上に興味がなかったことであろう。ギュスターヴは理由あって隠居している主人の手足となり、身体が動かないセレナーデは主人の頭脳の片鱗として、主人の側にいる。完璧ゆえに不完全な主人の、従者として。
「おれは明日の朝から薬の治験。ギュスターヴ、明日はぶたれないといいね」
 何の感慨も心配もなさそうに、セレナーデは言った。ギュスターヴの背中の傷が、忘れていた痛みを思い出していた。関心もない見世物小屋でふらりと見かけたものへの興味程度の乾いた親しみに舌打ちして、ギュスターヴはつくり笑いを呈した。互いへの関心が砂漠のように干からびてぱさついたものだと、ギュスターヴは知っている。セレナーデが同じ思いかは分からないが、そんなことは知ったことではない。
 ギュスターヴとセレナーデの間にあるのは主人と、砂塵のように飢えた憐れみだけであった。二人をつなぐ主人という共有物があるからこそ、砂礫はかろうじて命の水を吸い脆い形になっている。
 セレナーデは身体が使い物にならないのに、楽しく生きている。そして檻のなかに飾られた獣を高みの見物するみたいにいつだって歩み寄ってくるのは、この少年が見世物の興行を見る気分なのは明らかで、ギュスターヴにとっては癪であった。
 主人という糊がなくなったとしたらと、そんなときには無性に考えてしまう。
「ギュスターヴはおれと話しているとき、いつもむすっとしているね。そんなにおれが嫌なんだ?」
「……嫌だとは思わない」
 首をかしげた立体映像に、ギュスターヴは鋭く吐き捨てた。
「どうでもいいものに対して、おれは嫌だとは考えない。所詮、頭だけの存在のお前に思うことなんてない」
 セレナーデは黙った。自分が無意識のうちに視線にこめていた賤しい者を見る光の成分を、本人ですら分からないところで悟られていたことに、胸を突く思いがあったようだ。
「……じゃあギュスターヴは閣下の手足でしかない。おれみたいに頭脳にはなれない」
「それは承知だ。それとおれにはお前と下らない議論をする義理はない。何より、頭がないと言ったのはお前のはずだ」
 いつしかピアノの音は止んでいたが、ギュスターヴもセレナーデも、狂気を沈めた音色が空気に鋭い切り口を入れる足音となって近づいてきていることには気づいていなかった。
「閣下がいらっしゃらなかったら、おれたちはどうやって生きていたのかな」
「まあ出会わなかっただろう、それだけは言える」
 話題を変えたのはセレナーデの青さである。別にギュスターヴにセレナーデを言い負かすつもりはなかったが、ギュスターヴの言い方にセレナーデが窮したのは明白であった。
(主が、いなかったら、か)
 ギュスターヴがそう口のなかで呟いたとき、部屋の扉が突然開いた。現れたのはギュスターヴを鞭打った麗人、主人である。いつもノック抜きで扉を開く主人にセレナーデは慣れているらしく動揺しないが、ギュスターヴはびくりとした。脳髄の奥深い場所が、疼痛めいて妖しく跳ねた。
 主人は色眼鏡のレンズの下で、凛々しく睫毛が長い目を少しばかりひらいた。ギュスターヴが此処にいると思っていなかったようだ。
「やあセレナ……ああギュスターヴも。珍しいじゃないか、二人でお喋りだなんて」
「貴方の話です、主」
「そう、それはいい話だろうね」
 背中の傷が生温かく痛むのは、鞭でない乾いた視線に掻かれていたからかも知れない。セレナーデは笑ってはいるが、言わずもがな拵えられた微笑である。
 主人は満足げに言った。
「君たちが仲よしで……僕は嬉しいよ」
 ギュスターヴは目を細めることもしなかった。
 ただそこに演じられているだけの和という穏やかな偽りに、自らと同僚と、主人の歪みを見ていたのである。


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サークル名:黒の貝殻(URL
執筆者名:緑川かえで

一言アピール
耽美と退廃、幻想と心酔。

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