オールド・ファッションド

 甘いにおいがした。
 ぼんやりしていた頭が冴えた。ひどく空腹だったことも思い出した。
 誠は覚めた目を上げる。
 においは、砂糖入りのカクテルを思い起こさせた。コーヒーの香りも混じっている。
 目の前を通った若い男が、ひとつ置いた隣のテーブルについた。
 ドーナツショップのイートインだ。甘ったるく油っぽい空気がそこここになじみ、焦げ臭さが隅に澱んでいる。靴底に冷気が張りついているのは、終日エアコンが稼働しているためだった。
 壁際にはベンチシートが据えられ、二人用の小さいテーブルを挟んで椅子が並べられている。今日も隅の席では、背の高い青年がテキストを広げて勉強していた。ベンチのもう一方の端が、誠の定席である。
 男は粉砂糖で化粧されたドーナツを紙ナプキンで包み、口を大きく開けてかぶりついた。頬をふくらませて指で押しこみ、コーヒーを流しこむ。唇の端についたクリームを舐めながら、ふと誠を見た。
 横目で観察していたのを気付かれたのかと、誠はどぎまぎする。
 男は無骨なところのない端正な顔立ちをしていた。中性的で品の良い印象を与える。二十歳は越していないように見える。丸い目やふっくらした唇が人懐こそうだ。
「中学生?」
 男は問いかけながら、隣の椅子に腰かける。
 彼が近付くとにおいが強く漂った。微醺を帯びている様子はない。
「塾の帰り? お迎え待ってる?」
 誠が用意している台詞そのものだった。
 二十一時を過ぎている。中学生が一人で出歩くには不自然な時間帯に入っている。人に訊かれたらそう答えようとし、補導されかけたときも切り抜けた。
「食べない? 何か甘いものを食べたかったから適当に選んだけど、一個で十分だった」
 男はカップをよけて、トレーを誠のテーブルに置いた。プレーンなドーナツとチョコレートコーティングされたものが残されている。
 もの欲しそうに見えたのかと、誠はじわじわ紅潮する。
「……ありがとう」
 声が引き攣れた。なかなか終わらない変声期のため、抑揚まで不安定になる。
「飲み物もおごろうか? 何飲んでるの?」
 男は腰を上げてのぞきこむ。甘く香ばしいにおいがひときわ濃くなる。
 誠のトレーには、飲みさしのミルクと一口分だけ残したオールドファッションがある。
「牛乳、好きなんだ? 成長期だもんな」
 誠は頷きながらカップを口元に運ぶ。
「俺は苦手。学校で変なこと習ってさ」
 男は腰を上げた。
「『チ』のつく日本の古い言葉は、命に関係あるって。牛の乳とか、血液とか。おっぱいも血も成分がほとんど同じだって別の授業で知って、もう吐きそう――ミルクでいい?」
 飲み干しながら、誠はかぶりを振る。
「いいです。ドーナツだけで……ありがとう」
「そう?」
 男はにっこり笑う。立ったままコーヒーを飲み干し、カップだけを手に立ち去った。
 誠はオールドファッションを口に放りこむ。バッグは肩に斜めにかけ、トレーのドーナツはゴミ箱に捨てた。
 反応の鈍い自動ドアにたたらを踏まされながら、夜の町に出た。
 九月も半ばを過ぎれば、夜風は秋めいている。日中は汗をかくのに、日が落ちればカットソー一枚では心許ない。
 途切れそうになるにおいをもどかしくたどる。
 迷いはある。
 男の飲食に卑しいところはなかった。多分育ちは悪くない。赤の他人に分け与えることができるのだ。好きなものを好きなだけ食べられる家庭で育ったのだろう。デリカシーもない。容姿が整った若者が愛嬌を振りまけば、たいていのことが許されていると知っている、確信犯に違いない。胡散臭い男だ。
 コンビニエンスストアの前を通り過ぎようとして、立ち止まる。
 明るい店内で、あの男が雑誌を立ち読みしている。歩道に面した雑誌スタンドから頭が飛び出している。
 携帯電話で話しはじめた男が、不意に外に目をやる。
 スーツ姿の男の陰に隠れて、誠は店内に入った。
 明るい音楽と照明に身をすくめ、トイレに駆けこむ。小用を足す時間より長く個室にこもった。
 洗面台で口をすすぐ。鏡に映る十代の少年は見ないように、終始目を伏せたままだ。毎日のように注文するドーナツの味が、舌にも喉にもこびりついてしまった。
 棚にぎっしり陳列された飲食物は、誠の気をそそらない。高給食料品店にも誠の好物はない。並べられているのは口さびしさをまぎらわすものだけだ。
 雑誌コーナーや防犯ミラーで男の姿を確認する。店内にはいない。
 甘いにおいを追って、大通りに出た。行き交う車の流れが早い。街中とはいえ街灯が少ないためか、ハイビームで走る車が多い。
 路面店はどこもシャッターが閉まっている。雑居ビル入った飲食店や風俗店の電飾看板がけばけばしい。学習塾の明かりも消えていない。
 人通りを気にかけながら、地下通路に下りる。
 通路は、六車線を挟んだ官庁街から駅に向かって伸びている。
 夜間に通るものは少ない。照明がちりちりと音を立てて瞬き、笠には羽虫の死体がこびりついている。壁も階段も結露で湿気を帯びている。耳鳴りがはじまり、自分の足音が遠くに聞こえ、現実味が薄れていく。
 長い階段を下り、見回そうとしてぎょっとした。
 昇降口の脇の壁に、あの男が寄りかかっていた。
「お迎え来なかった?」
 男の気配を感じなかった。
 心臓が飛びはねて、膝から下の感覚がなくなる。誠は自分のズボンをつかんで、脚があることを確かめた。
「こんなところを一人で通ったら危ないよ。送っていこうか? 家、どこ?」
 うなだれた誠は、声が出ない。
「帰りたくないとか?」
 口を引き結んで男を見上げる。
 誠の身長は、十四歳のとき百六十センチメートルを越えずに止まった。男の上背は、誠が顎を上げなければ目を合わせられない程度に高い。
「家族と喧嘩したとか?」
 誠は視線を落とす。
 大仰なため息が男から洩れた。
「帰るのが一分遅くなれば、説教は一時間延びる。帰った方がいいと思うけど」
「……でも……」
 誠は言いよどんだ。
 黙っていれば、男は勝手に話を進めてくれる。少しばかり勘が良い。
「まいったなあ……」
 男は癖のある前髪をかき上げる。
「ゲーセンはもう閉まるか……カラオケでも行く? 一時間くらいなら付き合える」
 あいまいに頷く誠の肩をポンと叩いて、彼は駅の方へ歩きはじめる。
 後ろについて歩くだけで、男のにおいにむせてしまいそうだ。
 男のシャツの肩甲骨の下あたりに、濡れたような汚れがついていた。
 誠はそれをつまむ。
「何?」
 振り返った男の脇に素早く回り、誠は顎にめがけて拳を突き上げる。
 男はその腕を抱え、誠を横倒しにした。
「ひょっとしてカツアゲ?」
 呆気にとられて、誠は声も出ない。
「欲しいのは金? 俺の血? 両方?」
 仰ぎ見る男の上で、灯りが不規則に明滅している。
「金はあげるほど持ってない」
 腕をほどかれて、誠は地面にくずおれる。
「一ヶ月に一リットル。それでどう?」
「どうって……?」
「欲しかったんだ、奴隷」
 においだけで、男の血が誠の好みで美味であることはわかる。ごちそうが安定供給されることは魅力だ。隷属を誓ってもかまわないとよろめいてしまう。
「……奴隷って? 何するんだ?」
「使い走りとかかな」
 男はカフスをはめたまま、肘までシャツをたくし上げた。カーゴパンツのポケットから五徳ナイフを出し、ライターで刃をあぶる。
「中学にも行ってもらおうかな。マコちゃん、本当は二十六だっけ?」
 自分の素性が知られていることに、誠は改めて呆然とする。
「……あんた、何者だよ?」
 ねめ上げて詰問したいのだ。それなのに、口の端から涎があふれてきそうで、はっきりものも言えない。酔って懇願している気分だ。
「詳しい話はまた後で」
 男の腕が目の前に差し出され、肘の内側にナイフを当てようとしていた。体の細さに不釣り合いなたくましい前腕に血管が浮いている。
 誠は膝立ちになった。彼の指を取り、額におしいただく。そうしなければいけないと知っていた。
 軽い足音が聞こえた。
 立ち上がるべきかと思っても、誠は動けない。みっともなさを誰に蔑まれてもかまわなかった。一刻でも早くこの男の血を舐めたいという欲望に屈服していた。
 耳鳴りが強くなった。
 誠の体が前のめりに倒れる。
 痛みが遅れた。勢いよく殴打されたらしい。脳味噌がぐらぐら揺れている。首が折れたかもしれないという恐怖がひと刷け、心臓を撫でる。
 男が自分の両肩を支えていることに、誠は感賞した。今すぐにでも主人に取りすがりたい気持ちと裏腹に、指一本動かせない。
「チカ! 何やってるんだ!?」
 別の男の罵声が構内に響く。
「餌にもなれなきゃ、来るのも遅い。どやしたいのはこっちだ!」
 耳元で怒鳴り返すチカの声が遠ざかる。眠る前に聴くノイズ混じりのラジオに似て心地よい。
「餌撒いたって、こいつらの好みに合わなきゃ食いつかないだろ」
 チカに誠を押しつけられた男は、真っ黒に焦げたパンのにおいがした。きっと濃すぎる血は赤錆の釘のような味がする。彼がイートインの隅に毎日いても、食指は動かなかった。
 ホットミルクには飽きている。ミルクがぬるくなるまでの時間潰しに齧るドーナツにも、辟易していた。
 目が覚めたら、久しぶりにまともな食事にありつけるだろうか。気前のよい極上の朝食を期待したい。
 誠は笑みを浮かべながら、白濁する意識の底に沈んだ。


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サークル名:みつたま(URL
執筆者名:平坂慈雨

一言アピール
万事この調子で、軸足はファンタジー。
今回は『進撃の巨人』二次創作を頒布。『星の時計のLiddell』オマージュと『銀河英雄伝説』ダブルパロディの2本所収。
無料配布はオリジナル読切(予定)。

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