相思鼠

 真っ白な布の端に、それはぽつりと落ちていた。穴を穿ったような黒い染み。これは、鼠の血だ。
 かさついた血痕を隠すようにハンカチの両端を折り畳む。均等に三つ折りにし、やはり白い襦袢で隠された胸の稜線の下に当てた。絹紐の擦れ合う音が畳を這う。コツコツ、コトコト、カタカタ、と、微細なリズムで軒を叩く……雨垂れか、それともあれは。
 ――鼠が、いるのよ。
 妻の、困ったような声を聴きながら、私は青灰色の絹地を拡げる。
 長引く梅雨のこんな日は、樹脂の匂いが一際濃い。

 比奈子をスタンドに固定すると、セピアがかった店内に、淡い色彩が咲いた。ダスターでテーブルを拭いていたかなでがちらと視線を寄越し「もうそんな時期っすか」と無関心に呟く。
「へえ……マスターは飾らないのかと思ってたけど」
 奏が拭いたテーブルにシュガーポットを配置しながら、瑠里が言った。ヒヨコのような金茶頭の奏と並ぶと落ち着いた印象ではあるが、鬱蒼としていた前髪を切り、ふわりとパーマをかけた短い黒髪が、以前とは比べ物にならないほど《彼》の表情を明るく見せている。トレイを空にしてしまうと、好奇心を隠しもせずにいそいそとカウンターに戻ってきた。
「きれいな子ですね。この着物は青? 灰色?」
 人形のような大きな眼を瞬かせ、瑠里は比奈子に鼻先を寄せた。「触っていいですか」と慣れた様子で尋ね、そっと振り袖の袂を指先に載せる。
「襦袢は紫。おしゃれですねぇ。お名前は?」
「お前、ほんとウェットだな」
 呆れたように鼻を鳴らし、奏が横に並んだ。そうしてまじまじと比奈子の顔を覗き込み、透き通った銅色の鏡面に自分を映す。
「前も言ったけど、マスター、いつかこのアイくださいよ」
「お前も大概だよ」
 無邪気な強欲振りに苦笑して、私はカウンターを出た。そろそろ開店の時刻だ。
「あ、行きますよ」
 すかさず瑠里が言ったが、比奈子のポージングを頼んでそのまま階段を上がった。半ばまで登った時「一日しか出さないんだ」と奏が説明する声が聴こえた。
「どうして?」
「命日だって。……の」
 囁き交わすトーンになった二人の声。階段を上り切り、小さな扉に手を添える。瑠里は顔を顰めているかもしれない。ドールオーナーも様々だが、私や瑠里のようなタイプは努めて同類を避ける傾向にある。誰しも、鏡を始終見つめていたくはないものだ。そこに映る面影が今は居ない誰かに重なってしまうのなら、尚更に。
 穴蔵を抜けると、低く垂れ込めた青灰色の空が待っていた。
 丘陵の住宅街を包む濡れた匂いは、窪地の公園から溢れた池の腐臭だ。嵩増した水が、池底にこびり付いたヘドロを剥がしながらごうごうと音を立て、街の地下を流れている。
 廊下に立て掛けていた小さな看板を引っ張り出す間、足の継ぎ目が微かに痛んだ。
 《金糸雀カナリア珈琲》
 私がこの店をはじめてから、五年の月日が過ぎようとしている。

「――鼠が居るのよ」
 布地の真ん中で、比奈子が言った。青を基調にした淡い色彩の絹の波。くけ台と裁縫箱がぷかぷかと浮く座敷は、小さな池のようだ。
「鼠?」
 汀から、私は妻に尋ねた。
「天井を走っているの。一匹ではないみたい」
 ほら、また。
 と、その視線につられ、天井を見上げる。しばし待っていたが、耳を打つのは軒端の雨音ばかりだった。「気のせいじゃないのか」と首を戻した、その瞬間、部屋の隅でコトコトコト……と何かが鳴った。小さな生き物が逃げて行くような、微かで素早い音だった。
「ね? ……ッ、痛」
 小さな悲鳴をあげ、妻が針を落とす。
 指の腹にふっくらと盛り上がった血が、一滴、縫い掛けの袂を汚した。掌に載る大きさの袖に、じわりと赤い滲みが拡がっていく。
「やり直しね」
 溜め息と共に、指を端布できつく押さえる。妻の傷はすぐに塞がるが、反物には限りがある。
「これで何枚目かしら」
「一度検査を受けてみたらどうだろう、俺も行くから」
 始めは己の粗忽だと取り合わなかった妻も、さすがに思うところあったか、思案げに目を伏せた。この振り袖を縫い始めてから、妻は四度指を刺し、縫い終わりに近い着物をその度に汚していた。
 造形作家だった私は当時、創作少女人形の展示を控えていて、彼女が纏う着物の製作を和裁士である妻の比奈子に頼んでいた。灰色に薄く青を混ぜ込んだような儚げな色無地は、昔、比奈子が古着屋で見つけてきた懐かしいものだ。
 ――相思鼠そうしねずっていうのよ。
 色の名前を教えてくれたのは、他ならぬ妻だ。
 その色無地で縫われた、一着目の振り袖を見た時のことだ。
 ――同じ着物が二着あったの。いい年して人形とお揃いなんておかしいかしら。
 比奈子は一着を自分用にして、もう一着をほどき、人形用の振り袖を縫った。残りの生地は以来ずっと仕舞われたままだった。
 人形作家として食ってはいるが、我が家にある、我が家のための人形は、実のところ一体しかいない。
 紫の襦袢に青灰色の裾引きを艶やかに重ねた少年は、鼠というよりも、まるで片割れを失くした小鳥のように見えた。青褪めた白い肌に血をさしたような頬。短い黒髪から覗く、褐色のグラスアイ。
 私が造り、比奈子が着せた最初の人形。
 比奈子は彼を《白菊》と名付けた。

 夕方近くなって尋ねてきた立夏は「今年も別嬪だなぁ」と一頻り比奈子を構った後、ニヤついた笑みを浮かべて言った。
「ま、俺はマスターが最萌えだから」
「ありがとね。リカちゃん」
「本気なのになー。いつかメイクさせてよ、特に手と脚」
「いま外そうか」
「マジで? やべ、筆持ってきてねぇんだけど」
「その会話引く……」
 ケタケタ笑う立夏の向かいで、幸人が眉を顰めながらコーヒーを啜った。地毛の茶髪を撫で付け、今日も営業職を思わせるアクのない好青年ぶりだ。黒髪に一筋グリーンのメッシュなど入れ、自身も孔雀めいた華やかな顔立ちの立夏とは、どう気があったのか同居しているらしい。二人とも常連だが、立夏の方が付き合いが長い分、こちらも砕けた物言いになる。
 幸人は控えめに咳払いをし、私の手袋に視線を注いだ。
「マスターってその、どこまでアレなんですか」
「アレって?」
「パーツっていうか」 
「右手右足」
 私より先に立夏が答える。
「あと、左目」
「へええ」
「眼はダメなんだよな、先約があって」
 奥で洗い物をする奏の後ろ姿をちらと見遣り、立夏はぼやいた。
「アプローチされてるだけだよ」
「こええよ。サイコパスの巣かよ」
 幸人が至極真っ当な悲鳴を漏らしたが、立夏はすげなく鼻で笑った。
「バーカ、フェチと執心は全うな精神の証。俺はてめえが一番やばいと思うけどな」
 薄く瞼を眇めた様子は軽い侮蔑ともとれたし、どこか、自分には触れられぬ眩しいものを眺めているようでもあった。気怠げな視線は、静かにカウンターへ移ったがグラスを磨く私の義手ではなく、その傍らに座る、一日限りの看板ドールに注がれている。
「毎年この着物見ると安心するんだ。マスターもケンゼンに変態なんだなあって」
 皮肉な笑みをふと和らげ、立夏は囁いた。
「なあ、白菊?」

 人形と着物が完成した日、初めて鼠が罠に掛かった。
 私はかつて母がそうしていたように、鉄檻の中で忙しなく鼻をひくつかせるコマネズミを水を張ったバケツに沈めた。コポコポと細かな泡を吐きながら、小さな体が健気にもがき、動かなくなる。妻に見つからぬうちに死体を捨て、私は針子部屋の座敷に戻った。
 座敷には畳まれた振り袖と、新作の少女人形が既に揃っている。
 薄曇りだった空が暗くなり、庭のバケツにいつしか波紋が浮かび始めた。
 こんな日は、樹脂の匂いが一際濃い。
 補正のための白いハンカチを三つ折りにする時、ふと、布の端に黒い滲みが見えた気がした。
 いや……思い違いか。
 目を擦り、再び作業に集中する。蒼白い裸体を無心に包んでいく間、開け放しの眼から注がれる、無垢な視線を感じていた。没頭すればするほど、その瞳の色が曖昧になる。この日のために造り込んだ一体であるはずなのに、不思議と私の中で印象の薄い人形だった。髪かたちの全てが朧である一方で、青灰色の、その着物だけがいやに鮮明に浮かび上がる。
 私が抱く、これは誰だ。
 腰紐を結わえ、改めて彼女の造形を確かめようとした、その時だった。
「あなた」
 広縁で比奈子が目を瞬いてこちらを見ていた。
 ゆったりしたワンピースから覗いた素足がいやに寒々しい。
「それ、白菊よ」
 驚いて、私は手元を見下ろした。その瞬間、朧だったイメージがはっきりと像を結ぶ。違えるはずはない。しかし手の中にあるのは確かに、青灰の裾引きを纏った《白菊》だった。仰向いた褐色の瞳。池のおもてに浮かぶ、小鳥のような微笑みまで――違えるはずは、ないのに。
 少女は私の傍らに落ちていた。
「あら……また」
 凍り付いた私の横で、妻が天井を見上げた。
「なにか探しているのかしら」
 言いながら、白い手が何気なく腹をさする。
 鼠の足音は、私の耳には聞こえなかった。

  ◇ 

 トランクを閉める間際、タイヤの間に何かが駆け込んだ気がした。
 梅雨を忘れるほどの暑気に、陽炎がそこかしこに立ち上っている。ギャラリーまで自家用車を使うことにしたのもひとえにこの気候のせいだった。
「メイクが融けないかしら」
 比奈子は自分の体より、私の人形の心配をした。
「高速を使えば、すぐだよ」
 ――車輪に潜ったのは、鼠だったかもしれない。
 私は、キーを回した。
 助手席の紅潮した横顔をちらと見遣る。
 青灰色の着物を纏った妻は、今日も白菊によく似ていた。


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サークル名:馬猫文庫(URL
執筆者名:晴川穂浪

一言アピール
創作幻想小説(晴川名義)、版権二次創作(刀剣乱舞/佐堀名義)両方で活動しています。今回のアンソロには近刊『小鳥少年』からドールカフェのオーナーを主軸にした掌編を書き下ろしました。『小鳥少年』各章の登場人物たちも僅かではありますがピックアップしています。少年ドールとそのオーナーたちの有象無象の愛と執心、ほんのさわりではありますが、雰囲気だけでもお伝え出来たら幸いです。

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