狂わぬ時計

 中庭のチャボが死んだ。
 カナンは女中達の様子を窺う。部屋のベッドを整える者も、食事の用意ができたと呼びに来る者も、チャボのことに触れる様子がない。バゲットにヘーゼルナッツのペーストを塗り、カフェオレに浸して食べる。両親はとっくに家を出ている。何もかもがいつも通りであることを、カナンは居心地悪く感じる。
 朝食を終えてカナンは中庭に行く。中庭には下男のピエールがいて、空になったチャボ小屋の周りを竹箒で掃いている。カナンに気が付くと、ピエールは手を止めて、深々と頭を下げる。その右手首には、庭仕事をするには似つかわしくない銀色の腕時計がピカピカと光っている。
「今朝、変わったことはなかった?」
 ピエールは首を横に振る。
「何かが死んでいたということはなかった?」
 ピエールは首を横に振る。
「何も死んでいなかった?」
 ピエールは頷く。
「そんなことはないでしょう」
 ピエールは首を傾げる。
「言いたいことがあるなら声に出して言いなさい」
 ピエールは首を横に振る。カナンは顔を真っ赤にする。
「声に出して言いなさい。チャボが死んでいたかどうか、正直に言いなさい」
「死んでおりました」
 ピエールは彼特有の妙に行き届いた言葉遣いで言う。カナンはばかを見ているような気持ちになる。
「なぜ隠していたの?」
「リシャールが、不浄のことですからお嬢様にはお伝えせぬようにと申しました」
 リシャールは使用人の頭を務める執事である。
「とにかく死んでいたのね?」
「死んでおりました」
「他に、何か変わったものは落ちていなかった?」
 ピエールは首を横に振る。
「いいえ、落ちていたはずよ」
 ピエールは首を傾げる。カナンは気を揉む。
「瓶が落ちてはいなかった? 正直に言いなさい」
 カナンがそう言うと、ピエールは花壇の隅を指差す。花を囲んだ煉瓦の上に、元は食用油が入っていたと思しき寸詰まりの瓶が置かれ、中は薄く茶色に濁った液体で満たされている。
「そう、それよ」
 カナンはしばらく言葉に詰まり、諦めて先を続ける。
「ピエール、あなた、まさかあれを飲もうと思ったんじゃないでしょうね?」
 ピエールは首を横に振る。
「きっと飲もうと思ったのね」
 ピエールは首を横に振る。
「いいこと、決して飲んではいけないわ」
 ピエールは頷く。
「いけない混ぜ物なの。飲めば死ぬわ」
 ピエールは頷く。カナンはイライラして言う。
「ピエール、何か言うべきことがあるでしょう?」
 カナンが言うなり、ピエールは俊敏な足運びで花壇の隅まで行き、例の瓶を手に取って戻ってくる。
「申し訳ありませんでした。すぐに処分いたします」
「そういうことじゃないでしょ」
 カナンは癇癪を起こす。ピエールは再び口をつぐむ。
「あたしがチャボを殺したと思ったでしょ」
 ピエールは首を傾げる。
「ねえ、思ったでしょ」
 カナンは懇願するように繰り返す。ピエールはまた首を傾げる。カナンは構わずに続ける。
「違うのよ。殺していないの。でもそうするつもりだったわ。そういう、いけないことをするつもりだったの。つらい、ひどい、許されない、ばかで、勝手で、気の違った、××なことをするつもりだったの。でも、今朝早く起きてここに来たら、チャボは先に死んでいたわ。どうしてだと思う? あのチャボは、あたしに教訓を伝えようとしたんじゃないかしら?」
 ピエールは首を横に振る。
「教訓を伝えようとしたと思うでしょう?」
 ピエールは首を横に振る。
「何とか言いなさい」
「何の意味もありますまい」
「あるわよ」
「チャボはただ死んだだけでございます」
「あたしは殺そうとしたのよ」
「殺しておりませぬ」
「殺そうと思ったのだから、そのことに意味があるわ」
 ピエールは首を傾げる。カナンはカンカンに腹を立てる。
「言いたいことがあるなら、言ったらどうなの」
「言いたいことを言うことにより言いたいことを言えなくなる場合がございます」
「あたしにわかるように言いなさい」
「ライプニッツは予定調和を時計の比喩で表しました」
「あたしにわかるように言いなさい」
「二つの時計の時刻を合わせるには、三つの方法がございます。時計を互いに連動させる、時刻を瞬間ごとに合わせる、時計をあらかじめ精密に作っておく。ライプニッツは、第三の方法を自身の立場としました」
「わけわかんない」
「神さまは、世の中がいちばんよくなるように、あらかじめ作っておかれました。ですから、世の中はいちばんよい状態なのです」
「わけわかんない」
 カナンは頬を膨らます。
「いやなこといっぱいあるじゃない」
「いちばんよい状態なのです」
「悪いことばっかり起こるわ」
「いちばんよい状態なのです」
「もしあたしが死んでも?」
「いちばんよい状態なのです」
「あたしが死んでも悲しくないの?」
「悲しゅうございます」
「でもそれがいちばんいいんでしょ?」
「起こったことが最善なのでございます」
「だったら死ぬわ」
 カナンはピエールの手から瓶を奪い取るとその中身を飲み干して死んだ。
 ピエールはカナンの倒れた横に膝をつき、はらはらと涙をこぼす。それから間もなく、立ち上がって人を呼びに行く。使用人が近くにいた者から順に駆け付ける。年寄りの執事がカナンの手首を持ち上げ脈を取ると、女中の一人にシーツを持ってくるように命じる。
 カナンは、誰かが自分の死体に火を点けないかと考える。そうでなければ木の枝で顔を傷つけないかと考える。髪を抜いて市場に売りに行かないかと考える。そんな行為でもないと、バランスが取れないと感じる。
 しかし全ての使用人はあくまで厳粛で、静かにカナンを遠巻きにしている。何人かの若い女中がすすり泣くのみである。カナンは命を賭けて試したことが冴えない結果に終わりそうでがっかりしている。
 ピエールが医師を連れて戻ってくる。医師はカナンの身体をよく検めて、誰もがとっくにわかっていた通り、手の施しようがない旨を執事に告げる。女中がノリの効いた真っ白なシーツを持ってくる。執事は腰が悪いので、代わりにカナンを室内に運ぶよう、ピエールに命じる。ピエールは泣き腫らした目をカナンに向け、その死体にシーツをかける。
 昼が近くなり、高く昇った太陽の光が、ピエールの右手首に反射する。シーツに視界を塞がれる直前、カナンは銀色の腕時計に目を奪われる。
 ――止まってる
と思われた秒針は一秒もしないうちに動き出す。


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サークル名:ナタリーの家(URL
執筆者名:わたりさえこ

一言アピール
お隣さんなら引っ越しましたよ。ほんの二、三日前のことです。行き先? 心当たりはありませんね。他人にそんな興味なんてないでしょう。よくよく考えているつもりの自分のことだって、結局ちっともわかっていないんですからね。あっ、何をするんです。ああっ、あんた、あんた、早く逃げて、逃げてーっ!

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