温故

「手でかき混ぜるんじゃないのか」
「糠が付いたら面倒だろう?」
 Aが竹箆を渡してきた。
 昭和初期に建てられた一軒家を購入し、リフォームした。広い庭もついていた。だが、まだ家庭菜園にまでは踏み切れてない。どちらも現役生活を送っているので、そこまで手を伸ばせないのだ。野菜には世話が必要だと聞いている。その時間が、どちらにもなかった。
「まずは第一歩として」
 糠床は冷蔵庫に置くことができるらしい、と突然言い出したAが糠床を作ると言い出した。
「第一歩?」
「ああ」
 何の第一歩なのか。この家で、二人で暮らすことを決めた第一歩ということのなのだろう。一方的に解釈した。
 冷蔵庫に収まる大きめのタッパーに、糠を入れて、湯を入れて、Aは砂場で子どもが遊ぶように、熱心に糠を捏ねていた。出来上がった初期の糠床を持ち上げ、その底をに手のひらをあて、温い、とその発酵を楽しんでいた。
 数回すでに使用した糠床は、初めはしょっぱく、徐々に味に深みが出てきていた。単なるプラスチックの容器から、伝統文化の味が生み出されるのが不思議だった。家は三鷹にあった。三鷹という土地は、一般の家でも畑をやっている者も多く、糠床の野菜は彼らから頂戴したものだった。数を増やそうかな、と食卓に上がる漬物を摘み、その味を心行くまで楽しみながら、Aは何度か言っていたが、糠床はまだ増えていなかった。
 糠床の主導権はAにあった。世話をするのはA、中を取り出すのもAが行っていた。
 だが、今日は違った。糠床から取り出して、と、糠床を作ると言い出した時と同じように突然、言ってきたのだ。
「わかった」
 取り出し方は知っていた。糠床がどのようなものかも知っていた。だが、未知なるものへの緊張があった。漬物を食べてはいたけれど、一から十まで関わるのは、その日が初めてだった。掻き出したことすらなかったのだ。
 冷蔵庫からタッパーを取り出した。ひどく冷たい。知っている糠床は、茶色の甕に入っていた。知っている、というのはおかしいかもしれないが、自分の知っている糠床はタッパーではなく茶色の甕なのだ。では、今手に持っているのは何だというのだ。その中身も知っているというのに。
 蓋を開ければ、ぷん、と糠の強烈な匂いがする。唾液が刺激される匂いだ。手を洗わねば、とシャツの袖を捲れば、Aが食器洗い洗浄機から竹箆を取り出した。そして、それを差し出してきた。
「糠床は手で取るんじゃないのか」
「箆で取った方が楽だろ」
「取った後、手で掻き回すのが作法だと聞いていたが」
『女のエキスを吸って美味しくなるのよ』
 母が昔言っていた。糠床を茶色の甕で作っていたのは母だった。それを育てていたのも母だった。
「底の糠が空気に触れればいいんだよ。箆で問題ない」
「……そうか」
 母の言うことを本気にしていたのではない。そうではないのだが、もしかしたら、人間の手に存在している菌によって、何かうまみ成分のようなものが、発酵を促進される何かがあるのではないか、と漠然と思い込んでいた。
「箆で糠をある程度落として。これに乗せて、洗って」
 Aは黒織部の平皿を渡してきた。いつまでもためらっていても仕方ない、と初めて、糠床に箆を差し込むと、すぐに野菜にぶつかる。
(こんな浅くていいのか)
疑問を持ちながら、野菜を掘り出す。本当に砂遊びの延長、土いじりの延長のような、ぬかるんだその糠床は、掘ってみればそれほど冷たくはないようだった。ほとんど姿を現した野菜を取り出すときに、指先に触れた糠床はほんのりと温かみがあった。一本、二本、ときゅうりを全部で四本取り出した。
「それで全部だ」
 洗って、と言ったAは、味噌汁の準備が終わったようで、表面にところどころ糠が残ったきゅうり皿を受け取った。流水でそれらを洗い流している間、自分は空になった糠床を眺めた。穿られ、無残な姿になったそれを整えなければならない。しかしその前にやらねばならぬことがある。
(四等分で行こう)
 四角いタッパーに、十字を描くように薄く線を入れた。一つの線上に箆を差し入れる。底まで当たったところで持ち上げ、手首を返して上下にする。一つ、二つと集中してやっていると、
「いつまでやっているんだい、人事君」
 と、Aは皿を持ったまま、こちらを眺めていた。人事君というのは、人事を尽くして天命を待つ、という自分の座右の銘を茶化して言っていた。
「人事を尽くした方が、よりいっそう、糠床がよくなるのだろう」
「そりゃそうだが、優先事項というものがあるだろう」
「だが」
「俺はうまい夕飯を食べたい」
「ああ」
「で、夕食を食べた後のことまで考えている」
「……」
 二人とも現役で働いているので、夕食をゆっくり食べていられる時間すらないことの方が多かった。外科医と外資系コンサルタントというお互いの職業では、二人で夕食どころか愛を育むチャンスもめっきり少ない。言われてみれば、今日は夕食後にも時間があるという、数少ない、めずらしい日だった。
「そうなると、」
 最後まで聞かずに残っていた二つ分を一気にひっくり返すと、Aは「いい子だね」と母親のような口調で言い、目を細めて微笑んだ。


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サークル名:Prompt(URL
執筆者名:かみむらおうか

一言アピール
黒子のバスケ二次創作がメインで活動しています。二次創作にオリジナル設定を詰め込み過ぎて、三次創作になりがちです。ラブに恋する話より、どちらかというと、日常の一部を切り取った話を好んで書きます。

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