和解

 ゴウゥッ、と購入してから十年が経とうとしているエアコンが、唸るような低い稼働音を響かせながら冷風を吐き出す。部屋には女が二人、脚の短いテーブルを挟んでソファに腰かけていた。
 卓には汗のかいたグラスが二つ並び、闇のように深い色を湛えたアイスコーヒーが注がれている。しかし、どちらもそれに手を伸ばすことはなく、まるで飾りのように置かれていた。
「貴女と会うのもこれが最後でしょうから、聞いても良いかしら?」
 二人の女のうち、三十代半ばほどの年嵩の女が口を開く。
「何ですか?」
 鮮やかな紅を引いた二十代の女は、その唇を微笑ませて小首を傾げる。
「あの人の、どこに惚れたのかと思って、」
「そうですね、」頬に垂れた髪を掻き上げ、若い女――愛子は考える。向かい合う女――松子の夫である良人よしひとと出会ったのは、取引先の会社と共同で行うプロジェクトの顔合わせの時だった。
「相手側の会社の責任者が良人さんで、私はお茶汲み件雑用係で企画の末席に入っただけでした。年齢も立場も違うので、言葉を交わすこともなく、興味も特になかったですね。でも、トラブルが起きた時、明らかにうちの会社のミスだったのに、良人さんは一人で各方面の方々に頭を下げて回ったんです。成功は自分の手柄にして、失敗の責任は取らないなんて人は良く目にしていたので、この人は大人なんだな、とそれ以降意識するようになり、頻繁に話すようになっていきました。」一度言葉を止め、愛子はゆっくりと呼吸をして「まあ、もう終わったことですけど、」と弱々しく笑う。
「何で、こんな質問をしたんですか?」
「何でかしらね?」頬に手を当て、松子は首を捻った。「私以外であの人を好きになった女性が何処に惚れたのか、最後に知っておきたかったのかもしれない。」
「あんなことの後でも、ご主人のことを愛しているんですね。」
「どうかしらね、」
 ふるふると首を横に振りながら松子は答えた。自分を裏切り、他の女へとその愛情を注いだ夫へ一時は激しい怒りを抱き、同時に悲しみに苛まれたが、こうしてその愛人と面と向かって話し合い、決着がついた今はむしろ心にぽっかりと穴が穿たれたように、何の感慨も抱けずにいた。
 はぐらかされた気がしたのか、愛子は「私も答えたんですから、奥さんも良人さんを好きになった理由を教えてくださいよ。」と、若い女特有の好奇心に輝く大きな瞳で、同じ質問を返す。
「もう十数年も昔のことだから、あまり覚えていないわ。」彼と二度と会うことのない彼女に、松子は餞別代りに語ることにした。「大学生だったころ、良人は私と同じサークルに所属していたの。変わり者なんて言われながらも、部員からは好かれていたわ。でも、私は彼のことを『つまらない人間』と思っていた。だから、親しくしようとも思っていなかった。なのに、夏の飲み会の帰り、それが大きく変わったの。
 夏の夜特有の咽返るほどの空気で、私は目が醒め、公園のベンチで寝入っていたことを知った。隣には良人がいて、私は思わず「なんで、」と呟いていた。
 周囲を見渡せば外灯もまばらで、人の気配なんてまるでなかった。彼は私の鞄を抱えたまま、呆れたように溜息を吐いて、現状を不愛想に伝えた。
「サークルの飲み会でしこたま飲んで、帰り道の公園でひっくり返った。で、見かねてベンチに移して介抱し、ようやくお目覚め。今ここ。」
「ごめん、」腕時計の針が午前三時を指していて、彼がどれだけの時間を私の所為で無駄にしてしまったかと思うと、自然と詫びの言葉が口から出ていた。
「違うだろう。」不服そうに彼は首を振った。「ありがとう、だろう。」
 その一言が、今まで変わり者の『つまらない人間』と思っていた彼の印象を一変させた。
 それからサークル内でも会話を良くするようになって、卒業後一年して結婚。仲良くやっていたつもりだったけれども、まさか浮気されていたなんて、半年前までまったく気が付かなかった。」
「すみません。」
「あ、ごめんなさい。今更貴女を咎める気なんて露ほどもないの。もう、終わった話なんだから。」
「そう、ですね、」
 愛子が小さく頷くと、会話はそこで打ち止まり、リビングには置時計の秒針が時を刻む音だけが耳障りに響く。手許のグラスのコーヒーは氷が解け、表面には結露した無数の滴が浮かび、コースターへと流れ落ちていく。
「忘れないうちに、渡しておくわね。」立ち上がり、松子は棚の抽斗から白い封筒を取り出してテーブルの上に置く。「約束のお金よ。」
「確かに、頂戴いたします。」中身を確認することなく、愛子は封筒を鞄にしまう。「これで、本当にすべてが終わったということですね。」
「ええ。このお金ですべてを清算するという約束だったでしょう。」
「大丈夫、覚えています。もう二度と、顔を見せることはありません。田舎に帰って、両親が持ち掛ける見合いにでも出向いてみます。」
「上手くいくと良いわね。」
「男運のない私への、皮肉ですか?」
「いいえ。心の底からよ。」
「ありがとうございます。」頭を下げ、温くなったコーヒーを飲み干すと愛子はソファから立ち上がった。
 ちらりと視線を向けた先に、良人の写真が飾られていた。真一文字に結ばれた唇に、カメラに向けられた真っ直ぐな眼差しは、被写体の性格をよく表していた。
 嘘の吐けない真面目な人間だから、浮気がばれてこんなことになったのだろうか。今となっては問うことのできない疑問を写真に投げかけながら、「バイバイ。」と最後の別れを告げて、愛子は部屋を出て行った。
「ふぅ、」
 一人になった室内で、松子は大きく息を吐く。「終わったわ、」
 これですべてが終わった。半年前に夫の浮気に気付いてしまい、悩み苦しんだ日々のすべてが、彼女の帰宅で終わったのだ。
 怒りに任せ、松子が良人に浮気相手を連れてくるように迫ったのが、三ヵ月前。
「で、どっちを選ぶの?」
 愛子がやってくるなり、松子は良人に問うた。春も終わろうとしていた時季なのに、空気は冷たく張り詰め、二人の女の視線が刺すほどに鋭く良人を見つめた。逃れることのできぬ状況で、松子と愛子は判断を迫った。
 それなのに、彼は笑った。その場を繕うように、誤魔化すように、ぎこちなく、人の神経を逆なでるように、笑った。
 その笑みを見た瞬間、確かにあったはずの足場が唐突に抜け落ち、奈落のように深く、暗い深淵に叩き付けられたかのような衝撃に松子は襲われ、光を求めて視線を彷徨わせた。そして、同じ虚ろな色をした双眸に出会う。
 愛子の眼だった。
 彼女も、松子の眼を見ていた。
 互いの瞳に帯びる色から、二人は相手の感情が手に取るように理解できた。いや、そこに己の心を見た。そして、昏い瞳にわずかにたぎる炎の閃きも。
 怒り――いや、それは殺意に近かった。しかし、本気で人を殺めようと思えるほど、強いものでもなかった。一人では――。
 有耶無耶で終わった会談の後、松子は一人で愛子に接触し、あの時芽生えてしまった感情を確かめ合った。そして、相談を持ち掛けた。「保険金を分け合って、それぞれ新しい人生を歩み出さない?」と。提案は容易に同意された。そして、犯行を実行した。
 何事もなかったかのように和やかに夫婦二人で夕食を済ませた後、包丁で背後からずぶり。刃が肉を裂き、身体の奥へと突き刺さっていく感触が伝わるにつれ、握り締めた手からは血が引くように体温が失せ、全身を包む。でも、それだけだった。悲しみや恐怖心は微塵もなく、松子は愛子と打ち合わせていた通り、彼女に不在証明をしてもらい、容疑を免れた。
 もちろん、一切疑われなかったわけではないが、亡くなった夫の愛人がわざわざその妻の有利になる証言をするとは思えず、次第に疑惑は薄れていった。
 そしてほとぼりが冷め、手に入れた保険金を松子は愛子へと手渡した。
 一人残された部屋で、松子は隅に置かれた仏壇に飾られた遺影を見つめながら、語り掛ける。
「貴方か悪いのよ。同じ気質の女を二人も愛そうとした貴方が、」
 あの日、あの時、奈落のような悲しみと怒りを覚えたが、人を殺害するまでのものではなかった。だが、彼女たちは重ね合わせてしまった。その怒りと、その悲しみを。良く似た二人の女の二つの感情が足し合わさった、その和が、殺意という刃を生み出した。
「これが私たちの感情の和――。
これが貴方のしたことの解――。」
 ぱたりと遺影を伏し、松子は部屋を出て行った。愛情や怒り、悲しみなどの感情が放出された後のその内側は、波も嵐もなく、ただのどかだった。


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サークル名:妄人社 サイト/ツイッター等なし
執筆者名:乃木口正

一言アピール
テキレボアンソロ三回目の参加です。

いつも通りの作風なのですが、思い返すと三作とも登場する夫が『ゲス』という共通点が浮かび上がってきました。
そのことを家族に相談したら、「いい自己紹介じゃん。」とのこと。

……そんな小説です。

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