街のうつろにこだまする

 おいでよ。こちらへ、おいでよ。
 ここは居心地がいいよ。身を切る風もなく、暖かい。
 苦しいことは何もない。
 悲しいことも何もない。
 やらなければならないことも、いっさいない。望んでも手に入らなかったものが、すべてここにはあるんだよ。
 おいでよ、君も。

 そびえ立つビル群のせいで見上げる空は狭かった。切り取られた青には一片のくもりもない。頬をなでるのは、冬の寒さに別れを告げつつある風だった。
 その風がやむと、どこからともなく声が聞こえてくる。おいでよ、と。
 耳元では聞こえない。どこから聞こえてくるのかはよくわからない。それでも、堀田に呼びかけ、誘っているのはわかった。
 歩き疲れた堀田は、枯れた街路樹にもたれ掛かった。そばのビルを見やる。窓ガラスで無事なものはひとつもなかった。壁の表面は所々はがれ落ち、歩道には大小の瓦礫が転がっている。その歩道は、歩く人もなく手入れもされないまま風雨にさらされているため、ひび割れて雑草が顔をのぞかせていた。
 車道も似たような有様だった。車はあれど、動いているものは一台もない。車道の真ん中で突然運転手を失って取り残されたように、自動車の群は無言でそこにいる。信号はともらず、スクランブル交差点を埋め尽くすように移動する人々もいない。
 それでも、おいでよ、と彼に呼びかける声はやまなかった。
 かつてこの国の首都であった街は、名実ともにゴーストタウンとなり果てていた。
 『それ』が具体的にいつ始まっていたのか、誰にもわからない。多くの人々が気が付いたときには、もう手遅れになっていた。
 いや、手の施しようなどなかった。誰にもどうすることもできなかった。
 
 誰かを乗せたエレベータが別の階に到着したとき、そこには誰もいない。すし詰めの満員電車から、乗ったはずの誰かがいつの間にか消える。夜景の一部となっているビルの一室から、そこにいたはずの誰かが消える――。はじめのうち、おそらくそうやって誰かが消えていたのだろう。
 人口がこの国でいちばん多い都市で、いつの間にかひっそりと消える。他人ではそれに気付けない。知人身内のたぐいでも、失踪ととらえる。
 そうやって、少しずつ、街から人が消えていった。
 『消えた』のだ。姿をくらませたわけではない。文字通り、煙のように消えてしまったのだ。運転手が突如消えた車が自損事故を起こしたとき、初めて、街から人が消える、という奇妙な現象が広く世間に知られることとなった。
 もちろん当初は、誰もがそれを信じたわけではなかった。ばかげている。運転手は事故を起こして逃げただけだ、と言う人は大勢いた。
 似たような事故は、それからたびたび起きるようになった。近頃は街中に監視カメラがあり、車載カメラの搭載が義務づけられている。運転手が消えた瞬間をとらえていた対向車の車載カメラ映像がニュースで流れると、類似事故が増えたこともあって、人が消えるという現象を信じざるを得なくなっていった。
 実際の映像を見ても、信じない人は大勢いる。そんな彼らでも、満員電車一両分の乗客がごっそり消えたときには、否応なく現実を受け入れなければならなかった。
 人の消失が認知された当初、その現場は、エレベータや自動車、電車、オフィスの一室など、小さな空間内だった。閉じられた空間に長居してはいけない。人々は窓を開け放ち、消失を免れようとした。
 それでも、一人、また一人と消えていき、それが起きる現場は小さな空間に限らなくなった。小さなビルの中の人が消え、大きなビルの中の人が消え、地下街から人が消え、一区画内からごっそりと人が消えた。
 この現象はいずれ全国各地に広がるのではないかと恐れられたが、人が消えるのは、首都と呼ばれる区画の中だけだった。人々が逃げるように街を去るのは早かった。逃げる前に消えた人も多かった。
 首都の機能が、かつて都と呼ばれた場所に移ってから五年。街はすっかりゴーストタウンとなっていた。
 人がいつの間にか消えてしまう街。そんな場所に人を入れないため、街は高いフェンスでぐるりと囲まれた。おかげで、街に寄りつく人などいない――と思われたが、ひっそりと訪れる人は今も後を絶たない。堀田もその一人だった。フェンスには人が通り抜けられる程度の穴があちこちに開いていた。
 名実ともにゴーストタウンとなったかつての首都。ここに人はいないが、その代わりに幽霊はいる。ビルの中から顔を覗かせ、おいでよ、と呼びかけてくる幽霊が、あちらこちらに。
 消えた人々と入れ替わるように現れたのが、この幽霊だった。どうして人が消えたのかわからないのと同じで、どうして幽霊がいるのかもわからなかった。ただ、この幽霊は、消えた人々ではないかと言われていた。
 消えた人が幽霊になって今も街をさまよっている。知り合いの幽霊に会った、というまことしやかな噂がひっきりなしにささやかれていた。
 人々は、突然消えた親しい者との再会を求めて、一度入れば戻ってこれないかもしれない街を訪れる。
 おいでよ、とビルの二階から堀田を見下ろす幽霊が言った。中年の見知らぬ女性だった。若い男がその隣から顔をのぞかせ、おいでよ、と言う。生きていても赤の他人だった彼らに「おいでよ」と親しげに言われても、心は揺るがない。だが、親しい者に同じように言われたら、果たして冷静でいられるだろうか。
 堀田の親友・北島は、地方都市への出張から帰ってきたときに妻子が消えていた。北島の実家がある田舎へ移住するのを都会育ちの妻が嫌がったため、引っ越しを先延ばしにしていたことをひどく後悔していた。
 会社が地方都市へ移転し、一人になった北島はその地に引っ越した。しかしある休日、妻子に会いに行く、と堀田に電話をしてきた。止めたが無駄だった。
 北島から電話があって一ヶ月。北島の家族は彼の向かった先を知って、すでに諦めていた。
 堀田も諦めるべきなのだろう。
 この街では人が消える。消えて、幽霊となる。
 かつてこの国で最も人口が多かった街だ。幽霊はうんざりするほどたくさんいて、その中から知っている顔を見つけ出すなど至難の業だ。見つけたところで、おいでよとしか言わない幽霊と会話が成立するとは思えない。
 だが、足が棒になるほど探し回って、求めていた幽霊を見つけたとき、懐かしい声でおいでよとささやかれたとき――冷静でいられる者などいないだろう。
「おいでよ」
 道路の真ん中に停まる車から、懐かしく、探し求めていた顔がこちらを見ていた。助手席には彼の妻、後部座席には彼の子供たち。まるで、今からドライブに行こう、というように北島が言った。おいでよ、こちらへ。
 この街では人が消え、幽霊となる。おいでよ、と誘うだけの彼らと話が通じるとは思えない。それでも残された人々は、懐かしく愛おしい面影を求めて街に足を踏み入れる。
 おいでよ、と北島が言う。
 おいでよ、と北島の妻が言う。
 おいでよ、と北島の子供たちが言う。
 堀田は絶叫した。
「おいでよおいでよおいでよおいでよ――俺の気持ちも知らないで、気安く誘うな!」
 無数にいる幽霊の中から知り合いを見つけ出すのは困難だ。
 ここに来れば、北島は一人だと思った。妻子の幽霊に会えないまま消えて、一人でさまよっていると思っていた。一人でいる北島の幽霊においでよと言われれば、迷わず向こうへ行っただろう。ようやく彼と二人きりになれると思えば、ためらうことなく。
 おいでよ、と北島が言う。堀田の名前を呼んで、おいでよ、と繰り返す。その隣では北島の妻が、堀田の名前を呼ぶ。
 堀田は声の限りに叫んだ。叫びながら走り出した。
 親しい者の元へ行くために、自らこの街へ乗り込む者は後を絶たない。
 そして、生きることから逃げ出すために足を踏み入れる者も絶えなかった。
 幽霊たちはおいでよと親しげに誘う。優しい声で、こちらには苦しいことも悲しいこともないとささやく。この世から逃げ出したい者にとって、それは魅惑的な誘惑だろう。
 だが、自分は見知らぬ幽霊の誘惑には乗らない。堀田はそう思っていた。しばらく探して北島に会えなければ、立ち去るつもりでいた。北島のいない日常から逃れるのは諦めて、彼の思い出と共に生きていくつもりでいた。
 そもそも、こんなところへ来るべきではなかったのだ。家族を探しに行くと北島が電話してきたとき――いや、それよりもずっと前。気持ちを伝えられないまま、結婚する北島を祝福するふりをしたときに諦めていればよかったのだ。
 道々で幽霊たちが呼びかけてくる。
 おいでよ。こちらへ、おいでよ。
 ここは居心地がいいよ。身を切る風もなく、暖かい。
 苦しいことは何もない。
 悲しいことも何もない。
 やらなければならないことも、いっさいない。望んでも手に入らなかったものが、すべてここにはあるんだよ。
 おいでよ、君も。
「嘘だ嘘だ嘘だ! 嘘をつくな!」
 無人の街を、堀田は叫びながら走り続けた。
 北島には会えた。だが、彼は家族と共にいて幸せそうに笑っていた。堀田の望んでいるものはそれではなかった。そんなものは見たくなかった。向こうに行っても、堀田が本当に望むものは手に入らない。行けばよけいにつらくなる。そんなところへ行きたくはなかった。
 おいでよという声が降り注ぎ、どこまでも追いかけてくる。北島や、彼の妻や子供たちがあちらこちらから顔をのぞかせ、堀田を優しく誘う。君もおいでよ、と。
 堀田は叫び、走った。もうすぐ街の境界だった。消えてなるものか。向こうへなんか行くものか。誰もいない街に堀田の絶叫と足音が響き渡る。境界を示す錆びたフェンスが見えてきた。あと少しだった。
 やがてこだまは消え、無人の街を風が吹き抜けていった。


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サークル名:夢想叙事(URL
執筆者名:永坂暖日

一言アピール
異世界ファンタジーを中心に、現代物やSFっぽいものを書いています。軽めのものから真面目でシリアスなものまで、雰囲気は幅広いです。
既刊は異世界ファンタジーの短編集、新刊は多種多様なジャンルの短編集を予定しています。

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