究極の嘘つき

「まやかしに用はない。お前はもう要らない」
 身一つで放り出された十五年前。彷徨う俺を拾ってくれたのは所長だった。その二年後、俺は探偵事務所の所員になった。
「士郎と一緒に取り戻しなさい。人としての尊厳を。生きる意味を。八代拓海としての人生を」
 士郎さんは三十歳、祐弥はまだ七つだった。
 当時、まだ両親から沢山の愛情を注がれる祐弥は愛らしく、彼の叔父である士郎さんも柔らかな表情で目を細めて眺めていた。ごくありふれた家族の風景の中で、一人異質な自分。それでも、彼らは笑いかけ、語りかけ、空っぽな俺に色々なことを教えてくれた。
 人はどんな場面で笑うのか、喜ぶ時はどんな仕草でどんな表情をするのか、愛情表現とはどんなものなのか。最初に覚えたのは笑顔の作り方。感情は何一つ伴わなかった。
「一朝一夕にはいかないものさ。一つ一つ習得していけばいい」
 所長はそういったが、失われた十七年は考えている以上に大きかった。身なりは大人でも、中身は赤ん坊以下。ぎこちない表情で、ぎこちなく動く俺。見るに見かねたのか、頼まれたのか。所内でも排他主義で有名だった士郎さんは、俺に探偵としてのイロハと日常生活を送るイロハを叩き込んでくれた。
 少しずつでも積み上げていく毎日は、あっけなく終わりを告げる。祐弥のご両親が亡くなった。
 亡くなったご両親に代わって甥っ子を引き取った士郎さんは、時間が不規則な探偵を辞め、喫茶店経営を始めた。でも、排他主義は加速し、甥の為と言いながら九つの少年を突き放した。少年は倒れ、昏睡した。
 この世には、共感力者(きょうかんりょくしゃ)と呼ばれる人がいる。彼らの多くは澄んだ目をしており、触れるだけで、近づくだけで、相手の感情と思考を読み取る。相手の全てを受け止め、身の内に留める。そして引きずられたら最後、彼らは自我を失って相手そのものになる。その為、共感力者は他人の感情が溢れかえっている場面に出くわすと昏睡状態に陥る。自我を守るために。
 この世には、感応力者(かんのうりょくしゃ)と呼ばれる人がいる。彼らの多くは深くて暗い漆黒の目をしており、触れるだけで、近づくだけで、自分の感情と思考を与える。相手に自分の全てを放出する。放出――感応させられたら最後、相手は自分を失い、彼そのものになる。その為、感応力者は誰も寄せ付けようとしない。自分の全てを悟られないように。
 この時、俺は初めて知った。彼らが、俺を放り出した人たちと同じ人種なんだ、と。深く眠る少年は共感力者なんだ、と。少年を引き取った叔父は感応力者なんだ、と。
 共感力者と感応力者はその能力故に、自分と他人の境界線がとても希薄だ。他人と混じり合ってしまう共感力者、他人に自分を織り交ぜてしまう感応力者。どこまでが自分なのか、どこからが他人なのか。とかく境目を見失いがちな彼らはとても不安定で、人との接触を強く拒み、孤独だ。でも、そんな不安定な彼らに寄り添って支える人は存在する。彼らが彼らであるという自負を与えられる道具もある。
 前者は、共感力者に干渉を与えず、感応力者の影響を受けず、強固に自我を保ち、自分が自分であると迷わず、揺るがず、他者への境界線を明確に引ける。後者は、そういった人種の身代わりとして作られる道具。祐弥のお母さんは前者、俺は後者だった。
「何も考えるな、何も感じるな。お前はただの器であればいい」
 物心つく前から、そう育てられた。人としての部分をすべて削ぎ落され、真っ白に塗り潰された。名前もない。自分もない。あるのはこの身一つで、共感力者に干渉を与えるだけの感情と思考がない。感応力者に感情と思考をぶつけられても、感応する軸となる感情と思考がない。俺は足し引きされても何も変化しないゼロと同じだ。強固な自我を持つ祐弥のお母さんとは違う。でも、その彼女はもういない。
 人を寄せ付けまいと深くて暗い漆黒の瞳で身構える叔父。自分を守るように眠る少年。
「何のために用意したと思っている。役目を果たせ、慰み人形」
 俺はかつてそうしたように少年に手を伸ばした。
「何をしている。本物がいる今、まやかしに用はない。お前はもう要らない」
 乾いた笑いが口からもれた。今まで本物と暮らしてきた人達に何が出来る? 俺はただの道具なのに。まがいものなのに。伸ばしかけた手を引っ込める。俺は踵を返して家を後にした。
「どこに行くつもりだ、拓海」
 道に出たところで腕をねじり上げられた。感情も思考もないけれど、痛覚はある。ギリリと軋む腕の痛みはあったが、俺はヘラリと笑って見せた。俺が唯一習得した、懐柔術。たいていの人たちは、この作られた笑顔に騙される。でも、所長には通用しなかった。当たり前だ、この人は依頼人じゃない。探偵事務所を構えるトップだ。
「付き合え」
 問答無用で引きずられた。連れて来られたのは、先ほどまでいた家の一室。少年は眠り続けていた。
「お前は恩を仇で返すつもりなのか? 世話になった者たちに、後足で砂をかけて逃げるのか?」
 “何をしている。本物がいる今、まやかしに用はない。お前はもう要らない”
「……いだろう」小さく呟く。所長は眉根に皺を寄せた。
「聞こえない。はっきり言え」
 俺がどんな境遇か知っているくせに。それでも俺の口から言わせたいのか。
「救えるはずがないだろう。俺は、ただの道具なんだから。まがいものなんだから」
 何故だか分からないが、視界が霞んだ。
「俺は祐弥のお母さんにはなれない。本物には、なれない……人形は、人にはなれない……誰も救えない……俺は用なしの器だ……」
「たく」
「だ、れ……?」
 少年は眠たげな瞳を擦りながら、俺らを見上げた。全てを見透かす澄んだ瞳が突き刺さる。ビクリと体がすくんだ。
「なに? 拓海お兄ちゃん」
 少年の手がすっと伸ばされた。俺は咄嗟に目を閉じた。
 暴かないでくれ。俺がまやかしで、まがい物だということを。役立たずであることを。
 奪わないでくれ。君らが与えてくれた人らしさの欠片を。初めて人らしく過ごせた思い出を。
 その手で奪わないでくれ。
「お兄ちゃんの手、あったかいね」
 握られる小さな手。ふわりと落ちる声。目を開けると少年は、ひまわりみたいな顔で笑っていた。ご両親が亡くなってから初めて見た、甘えるような笑顔だった。
「もう少し、繋いでても良い? なんか安心する。お母さんみたいで」
 少年はニギニギと俺の手をしばらく握ると、コトリと眠り落ちた。
 涙がこぼれた。取り繕う必要などない場面なのに、涙が止まらなかった。所長は子供をあやすように俺の背中をさすった。
「まやかしだって良いじゃないか。今、彼らを救ってやれるのはお前だけなんだから。まがいものだって良いじゃないか。それだって八代拓海の一部なんだから。そうだろう?」
 あれから十一年。愛らしかった少年は立派な大学生になり、排他的だった士郎さんは柔和な笑顔を向けるバリスタになった。俺も見てくれだけは三十過ぎのいいおっさんになった。中身は相変わらず空白が多いが、それでも仕草や表情はだいぶ増えた。感情もだいぶ覚えた。
「これだから、拓海は」
 かつての上司は珈琲を淹れながら、俺に言う。
「ほんと、拓海さんらしいな」
 かつてとろけるような笑顔を見せてくれた少年は、低い声で俺に言う。
「ちょっと酷くない? オレ、頑張ってるのに」
 俺はヘラリと笑って見せる。
「言葉と表情が一致してない」
 二人に突っ込まれる。
「またやってるよ、あの三人」
 喫茶店内の常連客からクスクスと笑い声が漏れた。
 いつの日か、祐弥と士郎さんは俺がまがい物であることに気が付くかもしれない。
 いつの日か、俺がずっと二人を欺き、自分さえも騙して空(から)でいることに気が付くかもしれない。
 いつの日か、再び本物が現れるかもしれない。
 いずれにしても、その時が来れば二人はきっと言うだろう。
「お前はもう、要らない」
 それでもいい。それまでは側にいられるのだから。役に立てるのだから。
 俺は今日も二人に嘘をつく。自分を偽る。いつの日かまでのツナギとして。
 でも、叶うことなら、そんな日がこなければいいと思う。
 本物が現れる日も。本物の「八代拓海」になる日も。
 俺は、他人も自分も欺ける究極の嘘つきのままでいたい。この先も、ずっとずっと。

 まやかしだって良いじゃないか。彼らを救ってやれるのは俺だけなんだから。
 まがい物だって良いじゃないか。それだって「八代拓海」の一部なんだから。

 そうだろう? 祐弥、士郎さん。


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サークル名:シュガーリィ珈琲(URL
執筆者名:ヒビキケイ

一言アピール
ちょっぴり不思議な現代物メインのサークル。恋愛、現代ファンタジーなどのジャンルの他、戯曲も頒布しています。寄稿文は現代ファンタジー「アリアドネの珈琲」のスピンオフ。テキレボ4のアンソロジー「士郎の何でもない幸せな一日」の世界観と同一です。

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