「そなたは此処に残り、我が最後の楯となるが良い」
立ち上がろうとしていた俺は、単眼なる一族の偉大なる長から与えられたお言葉に、一瞬、耳を疑った。
最後の楯──?
我らが偉大なる長は、あの侵入者どもが己が許へ辿り着くことを愉しみになさっている。
裏を返せば、長をお護りすべき我らには、不埒にもこの地下神殿に踏み込んできた侵入者どもを倒すことは許されていない。彼奴らの相手をして良いのは一族の中でも下等の連中のみで、最上位種である我らガンツォ族は手を束ねて見過ごすことを求められているのだ。
だが、長は俺に「最後の楯と」なれ、とお命じになった。「殺してはならぬ」と命じている侵入者どもの前に立ち塞がれと。
つまり、それは、長からの御下命に他ならない。──そなたは死ね、と。
ガンツォ族の長亡き後、そなたこそ我の一の腹心、と幾度も仰せくださった、その俺に向かって──?
ひとつ切りしかない巨きな目が、俺が思わず上げてしまった顔を面白そうに覗き込まれる。
「それこそが、今やそなたの唯一の望みであろう? 我が楯となり、あの黒魔道士の手に掛かって息絶えることこそが」
……そのお言葉で、俺は悟った。
偉大なる長バドマ様は、侵入者どもの一員であるあの黒魔道士から離れられなくなってしまった俺をとうに見抜いておいでで、それを”許せぬ裏切り”とお考えなのだ、と。
無論、今迄俺は、バドマ様の前では決して、嘘は吐いてこなかった。
あの黒魔道士が何者で、俺が何を企図して奴に近付いたか、そして接してきたか──バドマ様の前で口にしたことは全てが事実であり、欠片も嘘を含んではいなかった。
けれども、嘘を吐かぬことと、真実を語ることとは、決して同義ではない。……バドマ様は、俺が語ろうとしなかった真実をこそ、死に値する罪だと判じられたのだ。
あの黒魔道士と”再会”したのは、我ら単眼なる一族が再び人間世界へと召喚されて間もない頃であった。
……古の戦いは、我らが元々棲む魔世界の時間で百五十年近く昔のことだが、人間世界の時間では二千二百年も前のことになるらしく、人間どものような寿命の短い生物は既に代替わりを重ねていた。
だが、高等魔族である俺は、魂の形で相手を見分けることが出来る。あの古の戦いで、我ら単眼なる一族を魔世界へと逐い戻した、にっくき黒魔道士──彼奴の魂を見間違えることなど有り得なかった。
況して、俺はあの時、長に会わせろと我らの神殿に単身乗り込んできた彼奴が何を目的としているのか、口を割らせる為に散々”可愛がった”のだ。間近でつくづくと眺めた魂を、どうして見誤ることがあろう。
……しかし”再会”した時、俺の目には、奴の魂は全く覚醒していないように見えた。魂の器も頗る未熟で、俺の指先で捻り潰せる程度の魔力しか行使出来ないらしかった。
あれでは、二度と我らの脅威になる筈もない。
そう感じて、俺は、放置した。
ところが、奴は程なく、またしても俺の前に姿を見せた。未熟さには何の変わりもなかったが、とにかく、バドマ様がお命じになった任務を遂行していた俺の用務先に踏み込んできた。
その時点で、用心すべきだったのかもしれない。
俺の行く先々に奴が現われるのは偶然ではないのだ──と。
その後、あの古の戦いで我らを逐った四人の魔道士どもの内、三人までもが一緒に旅をしていることに気付いた時、俺は流石にバドマ様への御報告の必要を感じた。我らが人間世界に再召喚されることを予見していたかのように、わざわざ御丁寧にもこの時代を選んで生まれてきているばかりか、行を共にまでしている以上、古の戦いを記憶の表層には留めておらずとも、いずれ我らを再び排除しようと動き始めるのは目に見えている。
だが、あの魔道士どもの生まれ変わりなど今の内に片付けてしまえと息巻く同族らを抑えたのは、バドマ様なら必ず「面白い、我が手で捻り潰してくれる故、今は生かしておけ」と仰せになるに違いないと予想したからだ。
……ただ、俺は同時に、連中に”ちょっかい”を出したい衝動を覚えていた。
殺すなとは命じられるだろう。だが、傷付けてはならぬ、とまでは命じられない筈だ。殺しさえしなければ、バドマ様の御不興を買うことにはなるまい。
そこで俺は、軽い罠を仕掛けてみた。近くの国の王とやらの妃を拐かし、連中がその女を殺害せざるを得ない状況に引き摺り込んだのだ。
ところが驚いたことに、未熟な器に魂を包んでいながら、あの黒魔道士は、手遅れになってからではあったが、俺の仕掛けをほぼ正確に看破した。人間にしておくのは惜しい、と素直に感じたほどであった。
……多分、その時に思い至るべきだったのだ。
奴が”徒の人間”ではない可能性に。
次に奴と出会った時、奴は負傷し、まともに動けなくなっていた。奴のその傷を弄ぶのは心愉しいことだった。苦痛に引き攣り歪む相手の表情は、何処か懐かしくもあった。
だが、ふと鼻先を掠めた”匂い”に気を惹かれ、手に付いた奴の血を舐めた瞬間、俺は、奴が”徒の人間”ではないことに気付いた。
こいつは、オルガとアクラネイの血を引いている。
魂の器を満たす魔力も、こちらで”再会”した当初と比べると、内心で驚くほどに増大している。成程、それもその異世界種族の血の故か、と納得が出来た。
更に、奴の名を聞いた時、俺は、奴が或る”器”としての資質を具え過ぎるほど具えていることにも気が付いた。そして、その魂に刻まれている、闇世界の王タルガルが刻印したと容易に知れる深い疵にも。
これは使える──と思った。
闇と魔に深く愛される為に生を享けた”人間”……その血を利用して揺さぶりを掛ければ、存外簡単に”仲間”とやらと引き離すことが出来る筈だ……
……あの時に俺は、奴の中に潜む闇と魔の香りにうかと惹き寄せられ、関心を持ってしまった。剰え、相手を踏み躙らずにはおれぬ誘惑に駆られて”血の契約”まで結び、奴と血を啜り合う”とも”となり、血の絆に浸る接触を重ね……
気付いた時には、引き返せなくなっていた。
……否、引き返したいとすら思えなくなっていた。
アクラネイ族は、魔世界の住人つまり魔族であり、その頂点に魔世界の永遠の女王セメネーを戴く一族だ。外見も体力も人間どもと殆ど変わらぬのに、強大な魔力を有する、紛れもない高等魔族。魔世界に棲む我ら魔族のみならず、人間世界に適応した魔物どもをも無自覚に魅了出来る能力ゆえに”愛されアクラネイ”とも呼ばれている。
つまり、我ら魔族にとり、アクラネイ族は魔性の存在。軽率に近付けば魂の果てまで魅了し尽くされ、相手ゆえに身を滅ぼすことさえ歓びとしか感じられなくなる。
如何に利用したくとも、アクラネイの血を引く者に近付き過ぎるのは禁物──バドマ様からそう警告された時、俺は、仄かに苦い、乾いた諦念を覚えた。
手遅れだ、と。
俺は、もう、奴に関わり過ぎてしまった。その血の味を知り、心ゆくまで舐め啜る愉楽を独り占めする悦びを味わってしまった。
偉大なるバドマ様にお仕えして、魔世界の時間では四百年と少し。その間に挟まる、人間世界に召喚されて過ごした”五百年”ほどを加算すれば、体感では都合九百年──その間、常に冷静で徒に情に流されることなく概ね淡々と生きてきた筈の俺が、たったひとりの”人間”に執着するまでに堕ちたのだ。
余りに馬鹿げている、と理性では思う。
だが、あの黒魔道士の身に潜む闇と魔の香りに、恋とやらでもしているのかと呆れるほどに囚われている己も、同時に自覚している。
この執着の果てに待つは、死の一字のみ。
ならば、いっそのこと、奴の手にこそ掛かろう。
そもそもバドマ様は、我らガンツォ族が奴に手を下すことを禁じておいでだ。その御下命に背いてバドマ様から”お愉しみ”を奪うことが出来ぬ俺に許される歓びは、偉大なるバドマ様をお護りしながら奴に殺されるという未来へ進むことだけだ。
……ただ、そんな思案を馬鹿正直にバドマ様に語るつもりはなかった。語ったところで仕方がないし、迂闊に語って要らぬ疑いを身に招きたくもない。俺が奴に近付いたのは、バドマ様の”お愉しみ”の為、奴を闇と魔の深淵に引き込む道筋を付けておく目論見あってのこと。その目的自体には、些かのぶれもない。奴に殺される未来の到来を待ち望むという何処か倒錯した思いは、俺の心の中の問題に過ぎない。
だが、バドマ様は、そんな俺の心の持ちようをこそ憎まれたのだろう。
偉大なるバドマ様の為だけに全てを捧げることが出来なくなった──なのに、そのことに罪悪感を覚えていないばかりか、その心模様を全く明かそうとしなかった──
語る言葉に一片たりとも嘘がなくとも、心の裡にある真実を”隠した”ことこそが、バドマ様にとっては許せぬ”嘘”であったのだ。
「……その望み、叶えてやろう」
バドマ様の含み笑うような表情が迫り、その青い単眼が俺を如何にも優しげに見据える。
「前回この世界に召喚される以前より長き時を我と共に生き、その才を我の為に惜しみなく捧げ続けてきた、これまでの尽力に報いて」
「……有難き幸せ」
俺は跪いたままで深々と頭を垂れ、低く応じた。動揺がないと言えば嘘になるが、偉大なる長が何故、一の腹心とまで仰せくださった俺に「死ね」と命じるに等しいお言葉を賜うに至られたかを考えれば、寧ろ長は最大限の慈悲を垂れてくださったのだ、とさえ思えた。
詰まるところ、偉大なる長には、我ら一族、心の裡を隠し果せることなど出来はしないのだ。
俺は静かに立ち上がると、長に一礼し、その太い指で示された長の傍らに歩を進めた。
そこで待つのだ。
偉大なる長が「行け」とお命じになる、その時を。
偉大なる長の慈悲の下、あの黒魔道士が俺の息の根を止める、その至福の一瞬を。
サークル名:千美生の里(URL)
執筆者名:野間みつね
一言アピール
架空世界物や似非歴史物が中心。架空世界の一時代を描く長編『ミディアミルド物語』が主力。大河ドラマ『新選組!』の伊東甲子太郎先生や超マイナーRPG世界を扱う等、ニッチな二次創作も。今回は、先頃完結した『小説BADOMA』の補遺となる短編を書き下ろし。本編未読でも何となくファンタジー風に読めると思われ。
作者からの蛇足ツイートを、以下に転記しておきます(汗)。
この作品の語り手「俺」は、嘘は吐いてないつもりでいるが、「本当のことを残らず語ったわけではない」という自覚もある。だから「本当のことを言わない態度そのものが許せぬ『嘘』だと一族の偉大なる長はお思いになったのだろう」と察し、その下命を受け容れる。……それが、この作品の表面的な構図。
……だが、『小説BADOMA』最終巻(第5巻/次回テキレボが直参イベント初売り)を読まれる方だけには、作中に潜むもうひとつの「嘘」が見えてくるに違いない……ということは付記しておきたい。