雪解け、桜の舞う夜に

「……っざけんなよ」
 腹の底から怒りを吐き出して、手元にあったグラスの水を男の顔面にぶちまける。
「ごめ、ごめんなさい……もうしないから! みゆちゃんが一番だから! 俺はみゆちゃんのこと愛してるから」
「どの口で言ってんだよこのチンカス野郎!」
 泣きながら謝罪する男へ罵声を浴びせるのに、躊躇いなどない。
 さらに言葉を重ねて罵ってやりたいところだったけれど、生憎、この怒りに見合うだけの言葉が浮かばなかった。
 もう、終わりにしてやろう。
 深雪みゆきは、荒々しくため息をついた。
「……私のことはもういいから。せいぜいそのコと仲良くすれば? じゃ」
 さよなら。
 静かに捨て台詞を吐いて、深雪は席を立った。

   ***

 どこにでもある別れ話。男の浮気が原因の。
(女の子に言い寄られて困ってる? 断り切れなくてサシ飲みはしたけどそれだけだった? この世のどこにそんなてめぇに都合の良い話が転がってんだよ、馬鹿じゃねぇの? 私のことなら騙せるって思ってた? 私ならバレても許してくれるって? まさか、彼女公認で浮気できるとでもお思いでした? 馬鹿にするのも大概にしろよ)
 居酒屋を出て、口の中で毒づきながら夜の繁華街を歩く。
「はぁーあ」
 天を仰げば、いくつかの星とおぼろ月。そよぐ風は春の匂いがした。横目に淡い紅色がちらついて、そちらに視線を向けると、小さな公園をぐるりと囲むように桜の樹々が花を咲かせていた。スーツ姿の人たちがそれらを見上げて、スマートフォンを片手に即席の花見をしている。
 深雪は吸い寄せられるように、ふらりとその公園の敷地に入った。
 石造りのベンチに腰かけ、バッグの中のスマートフォンを取り出す。画面を確認しても、着信のあった形跡はなかった。あれ程のことがあったにも拘らず、あの男は連絡一つ寄越さない。
 そういうことだ。
「愛している」などというのは、口から出任せ。嘘八百。本心としては、こちらのことなど既にどうでも良いのだ。ついさっきまで彼女をしていたからこそ分かる。
 あの男はきっと今頃、言い寄ってきたという女の子に連絡を取って、「元カノ」の悪口を垂れ流していることだろう。変わり身が早いのも当然だ。そもそも「元カノ」のことを、口で言う程愛していなかったのだから。
 十中八九、もう二度とあの男から連絡が来ることはないだろう。しかし念のため、着信拒否の設定はしておきたい。
(……あとでいっか)
 スマートフォンをバッグの中に仕舞う。着信拒否の操作すら、今は面倒臭い。あの男のために使える労力など、今の深雪にはこれっぽっちも残っていなかった。
 風が吹く。
 桜の花弁が、一斉にはらはらと散っていく。
(そういえば)
 ふと思い出した。
 何日か前に「花見に行こう」なんて話を、あの男としていたのだった。この状況では、もう行くことなどないのだけれど。
(……いやぁ)
 寂しいとは思わない。
 それどころか、予定が真っ白になって、なんだかすっきりしてしまった。
 自由。
(……私は、自由なんだ)
 清々しい程に、未練などというものが存在しない。
(それってさ)
 散りゆく桜の花弁を眺めながら考える。
(何だったのかなぁ)
 あの男と過ごした日々は、一体。
 連絡しないと拗ねるので、毎日連絡を取ってあげた。休日に会えないと「なんで」と理由をしつこく尋ねられるので、彼のために予定を開けておいた。友達と出掛ければ「何故先に俺を誘ってくれないの」と怒られるので、どこへ行くにも、友人よりも先に声をかけてお伺いを立ててきた。
 ところが、深雪がそういった心がけをしていたからといって、彼も同じようにしてくれていた訳ではない。彼の方から連絡を取ってくることは稀だったし、彼の用事でデートの予定が急遽キャンセルになったこともあった。また、こちらの知らない間に彼が別の人と出かけてしまった、ということも、何度もあった。
 それを、深雪は何とも思わなかった。いや、思わないようにしていた。愛していたから、というよりは、良い彼女でいるためにそうしていたように思う。
 そうやって多少の理不尽を許してきた深雪でも、この度の浮気だけはどうしても許せなかった。事実を知った時には「もう好きにしてよ、私は降りる」という言葉しか浮かばなかった。他の女性と取り合いをしてまで、彼の傍にいたいとは思えなかった。
 あっさりと冷めてしまった恋。振り返ってみれば、本当は、孤独の穴埋めだったのかもしれないし、周囲への見栄だったのかもしれない。それを、「これは本気の恋だ」とつじつま合わせをしているうちに、いつの間にか、自身の心にさえ「彼を愛している」と、嘘をついていた……そんな気がする。
(……大嘘つきだな)
 彼も、自分も。
 女は甲斐甲斐しく男を世話して、良い彼女のフリをして。
 男はいつも軽々しく「愛してる」と口にして、女をその気にさせ続け。
 そういう意味では、自分たちは「お似合い」だったのかもしれない。
「ふ……」
 怒りなどとうに通り越して、なんだか可笑しくなってきてしまった。
 今一度、天を仰ぐ。
 おぼろ月と、春の匂い。
(そっか……)
 心地良い胸騒ぎが、深雪をベンチから立ち上がらせる。
 そういえば、今は春だった。
(とりあえず、明日は何をしようかな)
 雪解け、桜の舞う夜に。深雪は「彼女」を脱ぎ捨てた。桜の花弁が硬い蕾を押し退けて、花開くように。


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サークル名:謂はぬ色(URL
執筆者名:梔子花

一言アピール
テキレボ初参加です。登場人物たちが人との関わりの中でもにゃもにゃ考えたり悩んだりする話を書いていることが多いように思います。当日は別のイベントで出した既刊を持っていきます。無配もあります。お気軽にお立ち寄りください。

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