嘘細工

 規則的な篩の音が薄暗い工房を満たしていた。夜明けに火を入れる窯は午後の程々で落としてしまい、今は作業台の上にランプが一つ灯るだけである。夜へ向けてはひたすら鉱石やガラスの屑、海岸の砂粒や道端の石ころだとかを洗い、破砕し、振い分けて、明日の仕事の仕込みをする。十二歳で弟子入りして約三十年、男の生活は一切がこの繰り返しだった。
「おっさん、これ読んでよ」
 少年がやって来たのは、隣の肉屋や向かいの銀細工屋の店じまいの音が聞こえ始めた頃だった。きっと表では、はしけの船員達が次々と酒場へ吸い込まれているのだろう。
「店番はどうした」
 篩の規則は乱れない。少年は壁際に寄せてあった椅子を取って来て、男のいる作業台の近くに座った。勿論、邪魔にならない程度の距離を開けている。
「勝手に閉めやがったな」
「物好きのいない時間だからさ」
 少年はまっ白な指先で玩具のような紙束を弄んでいた。茶色い紙を筒にして、その上から白いレースのリボンで巻いている。筒の長さは掌に収まる程度だろう。
 男はようやく手元から視線を持ち上げ、すぐさま眉間に皺を寄せた。元々、しかめっ面が板についた顔ではある。しかし今のその深さ、厚みは抉れるかと思う程だ。
「おいガキ、どういう了見だ」
「何が」
「恋文だろうが」
 若い薄い水色の瞳が大きく瞬いた。恐らく全く想定していなかったのだろう。対する男は顔中に集めた皺を解いた。この時ばかりは少年が見た目通りの十五、六歳に見えたからだ。
「恋文って、何?」
 男は黙り込んだ。この港街では恋文にレースのリボンを掛ける習わしがある。少年は半年程前にふらっとやって来て店番として働き始めたので、その習慣を知らなくとも無理はない。
 だがしかし、己が何を語れるというのか。自分は職人一筋、独身で女っ気もないし、少年のように女性好きする顔でもない。色恋の説明なんか持っていない。
「とにかく、自分で読め」
「無理、無理。読めないもん」
「じゃあ本人にそう言って返せ」
「えー、そうだ。普通はどんな事が書いてあるのか教えてよ。話を合わせるからさ。俺、そういうの得意なんだ」
 名案だと胸を張った少年は、全くもっていつも通りの顔に戻っていた。男の片眉が自然と跳ね上がる。
「どうせ、俺にこうして欲しいとか、ああして欲しいとか、こうあって欲しいとか、そんな事でしょ? いいよ。今更注文が一つ二つ増えたところで大差ないさ」
 少年は恋文を作業台へ放り投げ、端に寄せられていた拳大のごつごつした塊を取った。まだ研磨されていないそれは透き通った海色をしている。それでいて内部に薄い曇りがあり、そして角度を変えるとサテンのように光るのだ。彼は目元を綻ばせる。
「これ出来損ないでしょ。いいな。欲しいな。貰っていい?」
「気に入らねえな」
 唸るような声が男の口からにじり出た。険しい目は作業台へ突っ伏したレースへ向いている。
「字が読めねえなら読めねえ。それだけだろうが」
 少年は答えずに手元をランプへかざし、口元に笑みを浮かべた。この塊を磨き上げて作るものを嘘細工と言う。男は嘘細工の職人だ。
「それにテメェ、勘定も出来ねえな」
「バレてたか。でも、間違ったことないからいいだろ」
 珍しく滑らかになった男の口が、自分でも気付かないまま己の視線を尖らせていく。男の見たところ、少年はどうやら売り物とコインの組み合わせで釣銭を覚えているらしかった。
「気に入らねえ」
 より明確に言葉が落ちた。
 少年は塊を静かに作業台へ戻し、それから男の眉間の皺をじっくり見つめた。海の瞳はただ遠さだけを映すようで、ゆっくりと暗く塗り替わる。浅い溜息が吐き出されていた。本人も知らないうちに。
 そして少年は勢いをつけて椅子から立ち上がった。一度だけ、肩で息を吸う。
「わかったよ。出て行くよ」
 ドン、と岩のような拳が作業台を打った。ランプが振え、台の上の道具達がわななく。男の目に怒りが光っていた。
「おっさんの思う通りにしろって事だろ。それが出来てないから気に入らないんだろ。俺に嘘を着せるなよ」
 少年は既に薄暗い工房の出口へ数歩進んでいる。あと数歩でドアを抜けてしまうだろう。男は両手を拳にして立ち上がっていた。
「嘘だ? 俺が嘘吐いたってのか!」
 少年が首だけを捻って男を見返した。足は止まらない。尖らせた眼差しが線を引き、呼気に喉を膨らませる。表情まではわからなかった。その瞬間、
「わっ」
「おっと」
誰かの声に靴音が乱れる。僅かに遅れてごたついた音がした。
「ごめんごめん。いやあ、前は見た方がいいよ。特に今日は」
 工房の入り口をエプロンをした巨体が幅一杯に塞いでいた。丸い指が少年の腕を軽々と握っている。予想するまでもなく、少年がこの膨れた腹に衝突したのである。
「南の方の大きい船が早く着いたみたいでね。あっちは荒くれ者が多いからさ。坊ちゃんなんか危ないよね」
 呼吸を終える程度、時が静止した。そして少年は体の向きを反転させ、肉屋のいる出口とは反対側へ歩き出した。顔は不自然に俯けている。行く先には少年が寝泊まりしている小部屋がある。
 この巨漢は隣の肉屋の主である。嘘作りの男と古馴染みで、男とは正反対なことに背も高いし横幅も広いし、雰囲気もぬいぐるみ的だ。肉屋は短い首を傾けて少年を見送った。それはもう扉が開いて閉まるまでたっぷりと。
「何突っ立ってやがる」
 肉屋が厚ぼったい両手を自分の禿げ頭に貼り付けた。僅かに頭が下がり、その分上目使いに男を見る。
「機嫌悪いのかよ。やめてくれよ。俺カアちゃんに蹴られた尻がまだ痛いんだからさあ」
「じゃあケツを庇いやがれ、間抜け」
 男がドカッと椅子に腰を下ろした。作業台に肩肘を乗せ、体の半身だけ肉屋へ向ける。張り詰めていた背中がようやく息を吐いた。ちなみに、肉屋の言う「カアちゃん」とは彼の妻のことである。
「ケンカかい?」
「そんな大層なもんかよ」
 肉屋は薄い髪を撫でるのをやめ、掌をエプロンで大雑把に拭った。そして作業台の上の未研磨の嘘細工を手に取ってランプの光を入れる。先程少年が欲しがっていたそれである。おや、と肉屋は額を持ち上げた。いつもより随分と曇りがあるような気がする。
「あいつは全部嘘にしちまう。何でも、全部だ」
 男のもう若くはない首の裏が、どこかぽっかりと作業場に浮かび上がった。肉屋は血色の良い指先で嘘細工を転がしながら、丸い目を何度も開け閉めする。彼は関節まで膨らんでいるようではあるが、元々目も大きいのである。
「伝わらないのは悲しいよねえ」
 暑苦しい胸元に嘘細工を抱き締め、なぜかしみじみと肉屋が呟いた。
「俺もさ、カアちゃんに『全然太らないね』って言ったら激怒されちゃってさあ。何でだろうなあ」
 男が両目を持ち上げる。歪んだ口から浅い笑声が吐き出された。
「そりゃ、太れないの間違いだろ」
「わかんないなあ。褒めたつもりなのになあ。あ、恋文」
 肉屋はそう言って視線でレースをつついた。だがそれだけで、今度は一つしかないランプを取り、勝手知ったる工房を壁際まで歩き出した。手の中に嘘細工を握ったままである。抗議の声が聞こえたが、そんなものは背中にしてしまえば気にならないらしい。
 彼はやがて備え付けの棚の前に立つとランプを置いた。一方、男のいる作業台の辺りは仄暗い闇に包まれている。
 肉屋は棚にあった親指程の石を光に翳した。楕円型の表面は滑らかに磨き上げられていて、色は透き通った蜂蜜である。曇りはない。ただ、中に数粒の泡があって売り物にしなかったと言う。
 嘘細工の材料は屑やどこにでもある砂である。そんな彼の嘘細工は、いつもどこまでも曇りなく、こんな風に透き通っていた。
 しかし、と肉屋は未研磨の嘘細工を再び見た。やはり曇りがある。珍しい。そこで彼は男の師匠の嘘細工を思い出した。あれは確かこんな風だったかもしれない。己に細工の良し悪しはわからないが、師匠の細工も好きだった。ちなみに、少年は男の嘘細工を気に入って、押しかけ店番になったと聞いている。
「なあ、これは売り物にはしないのかい?」
 肉屋の手には未研磨の石があった。作業台辺りからの応答はない。
「失敗作かい?」
「そうじゃねえ」
「じゃあ売り物だ」
「そうでもねえ」
 男が腕を組んだ気配がした。元々、男はどんな失敗作でも切断し、研磨し、仕上げをする。途中の物が作業台の上にただ転がっている方がおかしいのである。
「気に入らねえ」
 言い捨てた男の視線は、肉屋へも嘘細工へも向いていなかった。
 肉屋はランプを持って作業台へ戻った。再び浮かび上がった男の顔は相変わらず岩のようで、眉間にくっきりと皺が刻まれている。改めて見れば髪に白いものが混ざり、頬も首筋も窯の熱で焼けていた。
 肉屋は男の前に嘘細工を置いた。そして胸の前で指を組み合わせ、組み換え、指先だけもじもじとしながら男を見た。
「売り物にしてやりなよ。ねえ」
 男は作業台に肘を立て頬杖をついた。己の仕事に口を出されるのは嫌いである。それでも今日は手も出さず口も出さず、どうしようもなく溜息を吐いた。そしてふいに疑問が浮かぶ。
「そういやお前、何しに来たんだ」
 いくら隣で古馴染みだからと言って、用事もないのに行き来する趣味はない。一方の肉屋は「あ」の形に口を開け仰け反って、片手を額に当てている。
「カアちゃんが肉団子作ったから呼んで来いって。今日酒場は混んでるし危ないからさ」
 突如、バァンと音を立てて扉が開いた。そして軽い足音と共に見慣れた姿が工房へ飛び込んで来る。少年である。
「行く! やったー! 肉団子!」
 そのまま肉屋の太い胴に抱きついた。抱きつかれた方は抜けた笑顔で「肉団子美味しいよね」などとクルクル回っている。
 男は呆気に取られた顔ではしゃぐ少年を見つめた。しかし、すぐさまムズムズと眉間に皺を寄せ、力強く瞳を開いた。
「おいガキ、戸締りしねえとはどういう了見だ」
 聞き慣れた声に、少年はぽろっと笑みを零した。


Webanthcircle
サークル名:たむや(URL
執筆者名:亀屋たむ

一言アピール
不幸でも幸福でもなく、優秀でも落ちこぼれでもない、浮きこぼれが気楽に小説を書いています。1年ほどなんちゃって詩人の修行をしたので、今回は詩で参加致します。アンソロに詩を出せれば良かったのですが、テーマに沿って書くという高度な事が出来ませんでした。

Webanthimp

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください