ブラックベルベット・サァカス
鵺の襲来を告げる鐘が、常夜の闇に響き渡る。次いで聞こえる歓声、銃声、悲鳴、鵺の鳴き声。
身を包む聖吾の濃紺の制服の腕は、つい先ほど鵺の爪にひっかけられてどろりと濡れていた。脈打つにあわせてじくじくと痛みが広がる。そう大した傷ではないが、鵺の獣臭さだの夜攘い衆の熱に浮かされた馬鹿騒ぎだのに当てられて、何やら妙に疲れてしまった。傷の手当てをするからと小隊を離れ、今はひとりきりである。
(野蛮人め、畜生どもめ。何が夜攘い衆だ、これではどちらが獣かわからないではないか!)
苛立ちに任せて布を裂き、手早く応急処置をすませていく。消毒液がひどくしみて、品がないとわかりながらも聖吾は思わず舌を打った。
ここ、
まやかしだ。偽物だ。嘘っぱちだ。偽りの常闇だ。
作り物の夜に区が覆われて、六千跳んで幾数百日。
常夜の主の名は鵺。
鵺は数千日前のある日、この区にやってきて空を常夜に染め上げた。以来、第捌拾弐区に太陽が昇ることはない。隣の区との間には
だがここの区の野蛮人どもは、鵺の襲来を歓迎している節さえある。民草はどうだか知らぬが、鵺の襲来以降、夜攘い衆だのと呼ばれるようになった軍部の野蛮人どもは、鵺との命の取り合いに浮かれ、まるでお祭り騒ぎだ。栄えある天ツ軍として、恥ずかしくはないのだろうか。鵺を退治し、この区に真の空の青を取り戻し、天ツ上に返上する気が本当にあるのだろうか。まったく、嘆かわしい。
(くそっ、くそっ!)
聖吾は地団駄を踏む。こんなこと、この区に来るまでしたことがなかったのに。下品な立ち居振る舞いを野蛮人からうつされてしまった。本来の聖吾はもっともっとエレガントであるはずなのに!
舞った砂埃に眉を顰めながらも、気を鎮めようと聖吾は深く制帽を被りなおす。そうすると幾分か気が引きしまり、下品な振る舞いをしてしまった自分が恥ずかしく思えてきた。
常駐監士として第捌拾弐に派遣されてきた聖吾が、この身を白に包むことはない。夜攘い衆の連中の白の軍服は、この常夜の中でも目立つためにある。鵺に見つけられやすいように。鵺にやられて散った仲間の遺骸を見つけやすいように。
ふと、ふわりと花の香りがした。梅の香りだ。紅に白、ちらちらと視界に花弁が落ちてくる。
「……ふん」
同時に獣の臭いも充満しはじめ、向かいの屋根の瓦が滲んで見えた。
「そこにいるのかね、鵺」
目立たぬ濃紺に身を包んだ聖吾をわざわざ見つけ出すなんて、ご苦労なことだ。鵺とあれほど遊びたがっている夜攘い衆があちこちにいるのだから、そちらにいってやれば良いものを。
ヒィイィィ
聖吾の声に応えるように、鵺の鳴き声がした。花と鵺に誘われて、夜攘い衆の面々の足音もこちらに集まりはじめる。
「この僕が、貴様のような野獣にやられなどするものか」
落ち着いた所作で聖吾は拳銃にリロードする。先ほど引っかかれた傷が、羞恥で熱く痛むようだ。こんな獣が、この霧之宮聖吾の軆に触れて、あまつさえ傷を負わせるなど。
「反省したまえ、野獣!」
とんだ屈辱だ。ゆるしがたい。
怒りを込めて、次々に発砲する。屋根瓦の上、姿を明確に現した鵺は紅い目で聖吾を見下ろしていた。
紅い目が爛と燃える猿の顔に、狸の毛皮で覆われた太い胴。蛇の尾は夜に揺れ、虎の手足には鋭い爪が光る。つい先ほど、あの醜い爪が聖吾の肌に憎たらしく傷をつけたのだ。
リロードして、何度も弾丸を撃ち込む。しかし鵺は堪えた様子を見せず、その巨体が揺らぐこともない。
距離は目視で二十間ほど。鵺が跳べばその距離などすぐに詰められてしまう。近接武器も携帯しているが、あの獣臭さは厭わしい。あれに狂喜し戯れる夜攘い衆どもの方が異端なのだ。
鼻の奥をツンと刺激する悪臭から逃れるように、聖吾は発砲を繰り返しながらじりじりと鵺から距離をとる。
「貴様から逃げるわけではないよ、鵺! 勘違いはよしたまえ!」
あくまで聖吾が逃れたいのは、この悪臭だ。鵺に怯えているなどと、不名誉な勘違いなどもってのほかだ。
「ああもう、さっさと来たまえよ、野蛮人ども!」
聖吾の声が届いたわけではないだろうが、下がる聖吾と入れ替わるようにして、背後から白い影が跳びだした。
「――ぬ ェえ!」
濁点に錆びた狂喜の声をあげて、そいつは抜き身の刃をぎらつかせ、鵺の巨体に斬りかかった。
「……ふん、遅い。まったく、野蛮なことだよ。どちらが獣かわからんね」
侮蔑をこめて、吐き捨てる。
それが、たったいま鵺に斬りかかった獣の名だ。
白い髪に白銀の目。白の軍服に身を包んだ彼は刀を手にし、いつだって真っ先に鵺にじゃれかかる。鵺狂いだ。いかれているとしか思えない。
夜攘い衆の足音が集いはじめ、鵺が暴れ、家屋が崩れる音もする。気狂いじみた愉しげな笑い声が、幾重にも夜に響く。
狂騒に呆れ、聖吾は壁をつたって路地を抜けた。
そこには光壁がある。天まで伸びる虹色の壁の向こうは青い空で、まばゆさに聖吾は目を細めた。
(いつか、この区も青天にお返しいたします。我らが皇、天ツ上よ)
いつまでたっても鵺の退治のできない無能な夜攘い衆の監視のためにと、聖吾は第捌拾弐に送られてきた常駐監士だ。彼らの動向を上層部に報告する必要があるが、いつだって文面は同じ。討伐失敗。
だが決して――擁護するわけではないが――彼らの戦闘力が低いわけではない。鵺は、何度斬られても、燃やされても甦ってくるのだ。何度も何度も繰り返し。そのたびに夜攘い衆と鵺の狂宴は催される。
いつになればこんな馬鹿騒ぎが終わるのかと、じくじく痛む傷を押さえて聖吾は伏せていた面をあげた。
そして、ぎょっと目をむく。
光壁の向こうには顔。顔。顔。顔。顔。
隣の区の者達が、興味深げにこちらをじっと窺っているのだ。声は聞こえないが、何やら金銭のやりとりをしている様子も窺える。博打でもしているらしい。おそらくは、鵺と夜攘い衆の命のやりとりに関しての。
「下衆め……」
さすがは下級区だ。やることなすことが下品である。怒りを通り越し、呆れる他ない。
ざ、とひときわ熱く強い風が巻き起こる。舞っていた梅花が空に昇り、立ちこめていた獣臭さもふっと和らいだ。先ほどまで感じていた圧も消え、急速に息が楽になる。騒いでいた鐘の音もやんだ。
鵺がひとまず去ったのだ。だがどうせすぐにやってくる。だって、空は今もまやかしの夜のまま。常夜の主は、今も偽りの夜に君臨したまま。
背後に感じる気配に、聖吾は振り向く。
「ご苦労」
鵺の血で汚らしく濡れた拾を、聖吾はいたわってやった。野獣相手といえ、ねぎらってやる心は持ち合わせている。
「それ以上近寄るのはやめてくれないか。獣臭くて仕方がない」
拾の白の軍服は、鵺の血でどす黒く濡れていた。拾は律儀にこくりと頷くと、慣れた仕草で血振りをしてから白鞘に刃を納めた。それから、すいと聖吾の腕の傷を指さしてくる。
「何だね、君のような野蛮人に心配されるいわれは無いよ。それとも、馬鹿にでもしているのかね」
はたりと瞬き、それから、拾は肩を揺らして笑った。だが喉から漏れるのは引き攣れた掠れた声である。彼は幼い頃に喉を鵺に傷つけられ、半分以上も声を失っているのだ。
手指をひらめかせ言葉に代えようとし、拾は多少の逡巡を見せた。む、と聖吾は眉根を寄せる。
「ふん、この僕が手話を会得していないとでも? 妙な気遣いは不要だよ」
『はは、そりゃあ結構。別段、心配も馬鹿にもしちゃいないが、感想を聞こうと思ってね』
「感想だと?」
『そう。どうだい、鵺にえぐられた感想は』
まるで、御馳走を与えられた犬のように白銀の瞳を煌めかせ、血で汚れた頬を紅潮させ、拾は聞いた。羨ましくて仕方がないとでも言いたげに。
「君のような野蛮人と一緒にするのはよしたまえ。嬉しくなどない。厭わしいばかりだ。僕は貴様のようなけだものとは違う」
『ふうん?』
拾は唇をつり上げてにたりと笑うと、聖吾との距離を詰めた。
『うそつき』
「何だと……っ」
『聞こえるぜ? あんたの心臓は、どくどく鳴いてる。本当は鵺と遊びたいんだろう? 憎い? 愛しい? どっちだか知らねえが、鵺に弾をぶち込みたくて仕方ねえんだろ?』
聖吾は心臓を服の上から押さえる。拾の言うとおり、確かに心拍数は高い。だがこれは襲来による緊張のせいだ。痛みに起因したストレスによる興奮だ。
「――僕は、貴様のような鵺狂いではないよ陵伽院拾。仮に弾丸を撃ち込みたいと僕が望んでいるとするのなら、君のような獣相手だろうね。疎ましくてたまらない!」
『へえ? それも良いな。あんたとやりあうのも愉しそうだ』
心の底から嬉しげに、嘘偽りなく拾は笑う。気持ちが悪い。理解ができない。したくもない。しなくたって良い。ああそうだ、こんなけだものと思考を同じくする必要などない。
聖吾は拾から顔を背けた。
「何を見ているのだね、見世物ではないよ! 散りたまえ!」
光壁の向こうの顔、顔、顔、顔、顔。それらに向け、聖吾が声を荒げる。声は届いていないのだろうが、聖吾と拾のやりとりを見て、彼らはひどく愉しげだ。
まるで、サァカスだ。サァカスの道化にでもなったかのようだ。
ああ、なんて悪趣味なサァカスだ!
サークル名:階亭(URL)
執筆者名:ろく一言アピール
だいたい刀を装備しています。男性主人公で非恋愛。和風×刀×ファンタジー×戦闘が多め(そうでないものもあります)。アンソロ寄稿作品は『鵺が来たりて』の番外掌編。終わらない偽物の夜と、潔癖な青年のある夜の一幕。