モーション・ピクチャー・サウンドトラック

ブラウン管に映る男は絶叫していた。叫ぶことで、身の内に宿った、害為すものを吐き出そうとしているみたいに。

粒子の荒い像から表情はほとんど伺えないけれど、大きく開く捻れた唇が、彼の苦悶を象徴していた。背後のドラム・セットを叩く腕は常人離れした技で性急なビートを刻み、ひずんだギターの不穏な音色が、絶え間なく続く錯乱じみた唸り声に寄り添っている。とても、音階の感じられる歌声ではない。けれど、心を掻き乱す叫びと不安を煽るリズム、地の底から這い寄るような重い質感を持つ弦楽器の音は、たしかに陰惨な音楽を成り立たせていた。画面の中のうす青くぼやけた空間に。ブラウン管に繋げられた旧式のスピーカーが、映像から現実へと一風変わった葬送曲を送り込み、鈍色に閃く音が夜気を満たした。演奏している彼らとは時間も距離も隔てた、この小さな部屋でも。

ベラとゾーイは大きな長椅子の上で、テレビの中のバンドを見つめている。二人はいつもそこを寝床として使っていて、眠っても構わないよう毛布にくるまり、すでに灯りは消してあった。カーテンの隙間から射し込む、繁華街のぎらつくネオンと、室内に置かれた古ぼけたブラウン管の放つ青く冷めた光が、狭い部屋の暗がりを仄かに照らしている。

ベラはふいに画面から視線を落として、ぼんやりと浮かび上がる部屋の様子に目をこらした。ゾーイが買ってくる音楽雑誌、どこからか手に入れてくるインディーズ・バンドのファンジン、といった品が所狭しと散らばっているせいで、床はろくに見えなかった。ジンのカヴァーを飾っているのはたいてい黒を着て青白い肌をした男たちで、この世界への呪詛の言葉をバンド名として名乗っていた。ベラは「黒死病」とか「神の仔羊」とかを取り上げた記事を熱心に読むタイプではなかった。けれどいつも一緒にいるおかげで、ゾーイが夢中になっているバンドのうちの幾つかについては、演奏する音楽を思い浮かべることができる。折り重なる紙の束に焼き付けられた、彼らの写真を見れば。
雑誌をかき分けるように置かれた小さなテーブルは、ベラが輸入品の量販店で買ってきたものだった。小洒落てはいても安っぽいプラスチックでできていて、床を埋めつくす表紙の黒とは対照的に、ピンクと緑のパステルカラーで塗られている。ただし、天板の上には床と同じぐらい乱雑にものが置かれていた。ゾーイのマグカップには、飲み切らずに冷たくなったコーヒーがまだ入ったままだ。淹れたのが今日に入ってからだとすればまだましだな、とベラは思い、床、テーブル、人間らしく生きるには整理整頓の必要があるということを胸に刻んだ。

やがてベラは再び奇妙に暗い音楽に聴き入ったが、曲調が変わることはなく、歌い手はなお、取り憑かれた様子で叫び続けていた。その姿には、実際、まるで見えないなにかに無理やり喉をこじ開けられているような印象があった。ヴォーカリストの男は、彼以外には見ることのできないなにものかと闘っていた。勝つ気配はない。

一方、ゾーイはずっと、音楽に合わせてかすかに頭を振りながら、小さく歌詞を口ずさんでいる。彼は、演奏されるほとんどすべての曲の歌詞を覚えていた。お気に入りのバンドの映像を再生するのは、幾度となく繰り返した彼の入眠の儀式だった。今では、書かれた歌詞がなければ何を言っているものやらさっぱりわからない唸り声にだって、完全にタイミングを合わせて歌うことができる。ベラは不吉さを漂わせた黒づくめの楽師たちから目を離すと、低く歌っているゾーイの横顔を見つめた。

ゾーイは美しい。彼自身が、どれほど自分のことを醜いと感じていても。
尖った石でできたナイフを思わせる鋭い面差しに、少年のあどけなさの残滓が宿っていた。甲のごつごつした大きな手が折りたたまれた膝をぎゅっとつかみ、だぶだぶの袖が静かに震える腕を包んでいる。どことなく不均衡なものを感じる彼の佇まいに、端正な、という言葉は似合わない。けれど、ベラはゾーイを美しいと思った。それはとても不完全で歪な、泥の中でうっすらと輝く欠けた水晶みたいな美しさだった。
じっとベラが見つめても、冬の朝に燃える火が残す灰の色をした瞳は、うつろに画面へと固定され、彼の方を見ようとはしない。
「くそっ」ゾーイが視線を動かさないまま呟いたとき、ベラは一瞬、それがおどろおどろしいバンドの歌詞の一部なのか、彼が自分で発した言葉なのか、判断がつかなかった。
「効く気がしねえ、あの馬鹿医者……」
ゾーイは言葉を続け、ベラは、彼が睡眠薬とその処方医に対して何度めかの悪態を吐くのを聞いていた。ガリッ、と音を立ててゾーイは錠剤を噛み砕いた。ガリッ、ガリッ、という音が彼の苛立ちを象徴しているようで、ベラは居心地が悪かった。暗がりに光る置き時計の文字盤は、いい加減真夜中を過ぎた場所を指している。自分はすでに眠気を感じ始めていたことも、どうにも落ち着かないきまりの悪さを強めていた。

以前、神経を昂らせるような音楽を寝がけに聴くのはよくないんじゃないか、とベラが言ったとき、ゾーイは不機嫌そうに答えた。
「そう思って寝る前に静かにしていてみろよ? あっという間にごちゃごちゃした考えで頭が一杯になって、眠れたもんじゃない」
彼は、薬が効き始めるのを寝床で静かに待つことを嫌っていた。寝付くまでの空白の時間に耐えられず、轟音にうずもれながらスイッチが切れたように眠ることを望んでいた。歌い手の絶叫が不安をかき消し、頭の中を真っ黒に塗り潰してくれる、というのがゾーイの考えだった。闇の中で彼を抱きかかえる静寂は、いつだって嫌な記憶を呼び覚まし、恐怖が薄い目蓋を開いたまま縫い留めたから。
再び、尖った歯が、金属の味を感じる錠剤を噛み潰そうとした。耳触りな音がひときわ響き、ベラは我に返った。
「ちょっと待った、」
「なにを」ゾーイは自分の手首をつかんだ男の子の顔を見つめた。仄暗い部屋の中で、慈悲深い眼差しが、ろうそくに灯る火のように浮かび上がった。そして、やさしげな顔立ちが。べラは、いつかゾーイが教会で見た古ぼけた天使の彫像に似ていた。
「そんなにのんだら良くないよ」
「なにを」彼は、巻き戻した機械のように同じ言葉を繰り返した。ゾーイは色の薄い瞳でベラを睨みつけ、ベラは何も言わずにただ彼の視線を受け止めた。厚く伸ばした灰褐色の前髪が、壊れかけた天使の悲しみを覆い隠していた。問いに答える代わりに、ベラはゾーイの手が握りしめた銀紙をそっと引っ張った。銀紙に貼りついた透明なフィルムの中の錠剤がきらきらと光を反射し、なにかとても大切なもののように輝いた。皮肉なことに。
「知っているか」
「なにを?」意外にも、簡単に針金のような指先を離れた銀の台紙を、自分の掌に包みながら、ベラは尋ねた。その光沢に似つかわしい冷やりとした感触が、肌を切る。
「たくさんのんだって、苦しいばかりで死にやしない……」硬直していた少年の顔が--険しいけれどどこか少年の時代の気配を残した表情が、今は完全に、かわいそうな子どもみたいに見えた--泣き笑いのように歪んだ。「二百も三百もいっぺんにのまなきゃならないんだとよ? のみ切る前に寝入るだろ。さすがに。睡眠薬で死ねるなんて、本当は嘘なんだ」ゾーイは、さらさらと砂が流れ落ちるときの音のような静かな声を立てて笑っていたが、ベラは、彼が彼のやり方で泣いているのが分かった。ブラウン管の中では相変わらず、旧い人々が遺した写真のように白と黒の色のない男たちが、苦しみの声を上げ続けていた。ゾーイは突然、ちゃちなプラスチックのテーブルから旧式の機械を取り上げると、画面に向けて赤いボタンを押した。呻き声と歪んだ音の重奏が、ふいに途絶えた。
窮屈な部屋の外では、眠らない夜の街が狂ったように動き続けている。繁華街のそのまた奥には、時を問わず働く発電所と工場の群れがあり、鉄塔が遠く光を投げかけてくる。ベラははめ殺しの窓から覗く夜景の切れ端を見て、その光を想像した。暗い空へ帰ろうとしているみたいな鉄塔たちのように、ベラもゾーイもどこかへ帰りたかった。どこへかは分からない。

--睡眠薬で死ぬことなんかないってことよりも、僕はずっと良いことを知っている。ベラはぽつりと呟いた。「嘘なんだよ」
「なにが」
--医者にかかれば良くなるってこと。誰かに従えば、重低音も絶叫も聴かないで済む心持ちになれるってこと。努力すればまともになれるってこと。うるわしいこと。正しいこと。全部嘘さ。
「だから、生きていていいんだ」

ようやく効き出した薬がゾーイを無感覚な眠りで包み込み、彼は淡い意識の向こうでベラの声を聴いていた。慣れ親しんだ悪夢が彼を呑み込む前に、温かい腕が抱き止めた。ゾーイと一緒に眠りに落ちる寸前、明日は床をきれいにして、新しいコーヒーを淹れてやろう、とベラは思った。帰るべき正しい場所を持たないいかれた二人は、毎晩、呪いと祈りを繰り返して生きるだろう。いつか魂が擦り切れるまで。救われないものどものための音楽が鳴る、小さな世界が朽ち果てるまで。


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サークル名:黒い羊(URL
執筆者名:絲しじま

一言アピール
「望みはないけど救いはある」をテーマに、今ここでないどこかを舞台にしたBLのようなそうでないような仄暗い話を書いています。どことなく終末感の漂う世界観が多く、作者の趣味で廃墟やレトロフューチャーっぽいモチーフが出てきます。新刊はディストピアBL(?)の予定です。

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