やっとさー
「一号迫二尺アップ、三番、二十三番ダウン、ロープダウン。まもなく一号迫六尺アップ」
桜波劇場舞台課の内野の声に、右側にいる男がボタンを押した。上方から降りてくる二本の吊り物。舞台上では十人の役者が殺陣を繰り広げている。
内野は左側にあるオーケストラの指揮者を映すモニターに目を向けた。指揮者は指揮棒をティンパニに向けて大きく煽った。テンポが上がり、打楽器奏者がマレット(ばち)を振り回して叩き始める。つられるように、殺陣が激しくなっていく。
センターの役者がリズムに合わせて目の前の男を蹴り上げ、上手側の役者は洋刀を振り上げた。蹴られた男は後方へ転回し、刀を受けた男は下手側目掛けて駆けだす。内野は上げたままの右手はそのままに、左手で袖幕をまくり上げた。
幕の隙間を役者が駆け抜ける。雷のサウンドエフェクトが劇場中に響き渡った。内野は一気に右手を振り下ろした。
「一号どうぞ!」
クン、と舞台の一部が迫上がっていく。内野は目は舞台に、右耳は差し込んだイヤホンに意識を向けた。間を置くことなく、「マット、ミニトランポリンオッケー」とスタッフの声が聞こえ、小さく息を吸い込むと、右側で舞台機構を操作している男とインカムの向こう側のスタッフに指示を出した。
「まもなく一号フラット、続けてダウン。西田さんロープアップスタンバイ」
この一曲の間に吊り物と迫のタイミングを示す右手を何度上げ下げしたか分からない。
殺陣は終盤に差し掛かっていた。役者が一人、また一人と散り散りに近くの袖へ消えていき、ピンスポットで抜かれている主役だけがセンターに取り残される。主役の絶叫が場内を震わせた。
照明バトンに吊るされているムービングライトが唸りを上げ、舞台を不穏な色の明かりに染め上げる。指揮者は折れそうなほど指揮棒を振っていた。
「一号ダウン、ロープアップ。まもなく二十二番ダウン、連続吊り物飛び切りアップ」
ピンスポットを残して明かりが落ち始める。上手袖内では主役を介錯するスタッフが飛び出す準備をしている。
爆音のサウンドエフェクト。舞台上の全ての明かりが消えた。
「二十二番ダウン、三番、二十三番アップ、六番、中割、二十五番まもなくダウン」
左耳で曲を聴きながら、スコア(総譜)に目を落とす。スコアには舞台機構と大道具が入れ替わる転換が小節及び拍単位で書かれている。台詞が並んでいるだけの台本は役に立たない。
続く曲に足でリズムを刻みながら、イチ、ニ、と小節を数える。シ、ゴ、「六番、中割ダウン」右手を振り下ろし、左手で指揮者にタイミングを知らせるランプをスタンバイに切り替える。ナナ、ハチ、キュウ、「二十五番ダウン、まもなく二十八番、二十九番アップ」
突然、スタッフの声が右耳を襲った。
「内野! 上手の大道具のキューが来てない!」
ハッとしてスコアから舞台面に視線を移す。吊り物は上方へ消えつつあるが、本来あるべき次のシーンのセットが見当たらない。背中が急速に冷え、膝が震えた。
「落ち着け」
バン、と背中を叩かれ我に返る。焦って上手側と下手側の大道具にタイミングを知らせるランプのスイッチに目を向けると、全てのランプがスタンバイに切り替わっていた。え? と思った瞬間、背中を叩いた舞台監督が声を上げた。
「二十八番、二十九番アップ。まもなく指揮キュー」
後ろから伸びた舞台監督の右手が、ランプをスタンバイからゴーへ切り替えた。
息を吹き返したように、下手側から、上手側からセットがせり出してくる。曲は終わりのコーダに移っており、震える手を指揮者に合図を送るスイッチに添えた。同時に、右手を上げながら「二十二番振り落としまもなく」と操作の男に声を掛ける。
「二十二番どうぞ!」
膝の震えは止まらなかった。
終演後、「お疲れ様でしたー」とスタッフルームを去っていく仲間とは反対に、内野は台本と平面図を前に呆然としていた。帰り支度すらしていない。
「帰らないの?」
同じ舞台課の先輩である花音は、内野の顔を覗き込んだ。内野は顔を逸らし、「帰りますよ」と呟く。
「なら、ちょっとお姉さんに付き合いなさい」
花音と共に電車に揺られ、何駅が過ぎた頃、「降りるよ」と声を掛けられた。
降りたそこは、別世界だった。
輪唱のような掛け声、腹に響く太鼓の音、耳をつんざく鐘の音。高架下を見下ろすと、大通りには人の群れ、その真ん中では派手な浴衣を身にまとった男女が跳ねていた。
「見失わないでね」
そう言うと、花音はエスカレーターに乗った。改札を出ると、熱気と音と人の多さに圧倒された。
「こっち」
花音は怯む内野の腕を掴み、臆することなくズンズンと歩き出した。観衆と踊り手が徐々に遠ざかる。少しばかり歩くと、入り組んだ住宅が連なる生活通路と思われる細道に出た。賑わっている大通りから離れたせいか、人通りは少ない。しかし、声、太鼓、鐘の音はここからでもはっきりと聞こえる。内野は、大通りにいたら人の多さと音量にやられたな、と思いながら先を行く花音の背中を見つめた。花音は黙っていた口を開いた。
「辛い?」
ポンと放り出された単語に首をひねる。
「辞めたいと思った?」
内野は足を止めた。
「いえ」
「そっか」
花音は足を止めてクルリと振り返った。
「じゃ、そんな顔しなさんな。舞台監督、泣くよ?」
半月前に初日を迎えた劇場主催のミュージカル公演。フリーの舞台監督と外部スタッフと共に内野と花音は稽古から今日まで舞台裏をかけずりまわってきた。だが、明日から五日間、進行を担ってきた舞台監督は劇場を留守にする。吊り物、大道具、明かり、音、オーケストラ。全権を握って指示を出す進行は、舞台の要だ。内野は明日から五日間全七公演、一人きりでその要を背負わなければならない。
「責任が、重くて」
引継ぎからこれまで、ミスがなかったわけではない。だが、今日のミスに比べたら可愛いものだった。
舞台機構が複雑に動く転換は、常に危険と隣合わせだ。あの時、舞台監督のフォローが無かったら、役者やスタッフに怪我を負わせたかもしれない。公演自体を駄目にしたかもしれない。
「なんで俺だったんですか? この仕事について一年の俺よりも」
「いずれ、君は舞台監督の立場になる。必ずね。だから舞台監督は君に引き継いだ。いきなり全日程をこなすことがどれだけ大変なのか知っているから。舞台監督の親心だよ」
「それは分かりますけど」
「じゃあ逆に聞くけど、どうしてこの仕事を選んだの? 知ってたでしょ、この仕事は危険だし、キツイし、休みはないし、そもそも家に帰れないことだって多い。でも、君は選んだ。そして、最終的には自分の意思で進行を引き継いだ。なんで?」
グッと押し黙る。花音はため息をついて、遠くを見つめた。
「私はさ、踊ってたんだ。あの輪の中で」
小さく、ヤットサー、と声が聞こえた。
「子供の頃からずっとだよ。祭り近くなると夜まで練習練習、鼻緒は痛い、当日は三時間休みなく踊りっぱなしなのに、笑顔でいなきゃいけない。でも、やめられなかった。なんでだと思う?」
花音はクルッと振り返って笑顔を向けた。
「好きだったんだ。踊ることじゃなくて、この空気感が好きだったんだ。ワクワクして、ゾクゾクして、胸が熱くなって、じっとしていられなくなる空間が好きだったんだ」
ア、ヤットサー、ア、ヤットヤット! ア、ヤットサー、ア、ヤットヤット!
「知ってる? 日本の芝居の起源はお祭りなんだよ。田植え祭、豊作祈願祭から始まって、能、歌舞伎、狂言、文楽。形は違うけど、空間を分かち合って楽しむのは同じ。だから、危険でも、辛くても、不安でも、止められない。あの楽しさを知っているから止められない」
一掛け二掛け三掛けて、仕掛けた踊りは止められぬ。
五掛け六掛け七掛けて、やっぱり踊りは止められぬ。
ア、ヤットサー、ヤットサー、ア、ヤットヤット! 踊り踊るは、ひさいず連!
「確かに」
遠くから聞こえる掛け声に、ゾクゾクと得体のしれないモノが腹の底から込み上げた。
一掛け二掛け三掛けて
「仕掛けた舞台は止められぬ」
五掛け六掛け七掛けて
「やっぱり芝居は止められぬ。進行握るは、舞台課内野!」
開演五分前のベルが鳴る。内野は武者震いをして、音響照明ブースに通じるクリアカムをオンにした。
「おはようございます。定刻で行きます」
ヘッドセットの向こうから「よろしくー」「初日決めろよー」と明るい声が聞こえた。フッと笑いが漏れ、「こちらこそ宜しくお願いします」と返しながら、今度はインカムのマイクをオンにした。
「内野です。インカムチェック、インカムチェック」
呼びかけに、上手側担当のスタッフが袖中で小さくペンライトを振った。
「感度良好、感度良好。上手スタンバイオッケーでーす。ヤットサー!」
驚いて下手側担当のスタッフを見やると、ニヤニヤ笑っていた。
「下手もスタンバイオッケーです。ヤットサー!」
スタッフのヤットサーがインカム内に飛び交う。
「ア、ヤットサー!」
最後は花音だった。内野は笑いを堪えながら「よろしくお願いします」と言った後、続けた。
「ア、ヤットヤット!」
舞台機構を操作している男がこちらを見ながら、「なんだ、まじないか?」と笑った。
「似たようなものです」
内野もニコリと笑い、「間もなくまいります」と頭を下げた。男は顔を正面に戻し、緞帳アップボタンをスタンバイに切り替えた。
指揮者に開演の合図を送る。音響照明ブースに聞こえるブザーを鳴らす。チューニング。
客席の照明が落ち始める。場内に本ベルが鳴り響く。右側の男は緞帳ボタンに右手をそえた。
内野は高揚感を抑えながら声を上げた。
「緞帳アップ、どうぞ!」
今、祭りの幕が上がる。
サークル名:シュガーリィ珈琲(URL)
執筆者名:ヒビキケイ一言アピール
ちょっと不思議な現代物メインを取り扱っています。ただし、恋愛、現代ファンタジー、コメディ、戯曲とジャンル迷子中。寄稿文は、戯曲を取り扱っているサークルにちなんで、舞台の関する仕事小説です。